〔28〕

次の日、東京に帰る前に大橋には寄るところがあった。
渡瀬重太郎の実家だ。福岡に向かう前に、大橋将棋クラブの年配の常連から、渡瀬重太郎が以前住んでいたと思しき住所を聞いた。いまはどうなっているかわからないが、なにかの手がかりになるかもしれない。
大橋は市内のバスセンターで、郊外に向かうバスの路線を調べると、赤紫色のラインが横に入った白いバスに乗り込んだ。
平日の昼間とあって、バスの中は主婦らしき女性と、老人が何人か乗っているだけだ。大橋は一番後ろの席に腰かけると、窓の外に目をやった。
運転手が社内にアナウンスして、バスは走り始めた。
渡瀬重太郎と渡瀬龍一が親子だという考えは、ずっと大橋の頭を捉えて放さなかった。渡瀬という名字はそれほど多くは見ないし、渡瀬重太郎の奥さんのお腹にいた子供が成長していたとしたら、渡瀬くらいの年齢になる。
それに渡瀬重太郎と渡瀬龍一のあいだには偶然とは思えない一致点が多すぎる。
渡瀬が将棋に対して実にドライな考えを持っていたことも引っかかっていた。その考えは、将棋に狂った父親に対しての気持ちだったかもしれないし、父親を不正な手段で陥れた当時の将棋連盟に対する恨みから出たものかもしれない。
江戸時代末期、将棋家に対して不満を持っていた天野宗歩が亡くなったあと、弟子の渡瀬荘次郎の行方は、だれにもわからないと言われている。
彼の子孫が渡瀬重太郎ならば、何代にも渡って、将棋家そして日本将棋連盟に対して、ひどい目に遭わされたことになる。
因縁めいた薄気味悪さを感じずにはいられなかった。何代にも渡って虐げられてきた遺恨は蓄積し、さらに増大するのではないかというオカルト的な考えさえ浮かんでくる。渡瀬荘次郎から龍一の代までの恨みのエネルギーたるや、常人には理解しがたいほど大きいのではないだろうか。
渡瀬重太郎の実家に近い停留所のアナウンスが聞こえた。大橋が次に降りる知らせを告げるボタンを押すと、電子音が鳴って赤紫色のランプが点灯し、運転手が低い声で停車する旨を伝えた。
バスを降りると、大橋は住所を頼りに、渡瀬重太郎の実家を目指して歩き始めた。国道の交通量は意外に多い。遠くには深緑色の山が連なっているのが見える。
国道から脇道にそれると、車の量は少なくなった。あたりは住宅街のようで、整備された公園もある。大きな建物は公民館だろう。道を挟んで向こうには田圃があり、稲が穂を実らせていた。
電信柱に表示されている住所と、持っている住所が一致した。おそらく近くに渡瀬重太郎の実家があるはずだ。大橋は念入りにあたりの表札を確認しながら歩いていった。
三十分ほど歩いたが、「渡瀬」の表札は見つからなかった。大橋はあたりでは一番古くからありそうな門構えの家に近づいた。表札には「松坂」と彫られていた。大橋は門をくぐると、玄関のチャイムを鳴らした。
「はい」
中から出てきたのは、三十代前半くらいの黒々と日焼けした男だった。彫りの深い顔立ちで、目が大きく、髪は地肌が透けて見えるくらいまで刈り込まれている。いつも力仕事をしているのだろう。痩せてはいるが、Tシャツから覗かせる腕が鋼のように硬そうだった。
大橋はあわてて頭を下げた。
「すみません。私は大橋という者ですが、ちょっとお聞きしたいことがあって、伺いました。少々お話を聞かせてもらってよろしいでしょうか?」
大橋が顔を上げると、男は大橋の頭のてっぺんからつま先までじろじろと眺めてから、大きな声を上げた。
「あんた、将棋の大橋四段じゃなかですか?」
「私を知っているんですか?」
「ええ、おれも将棋指すんですよ。将棋世界(将棋連盟発行の雑誌)は毎月購読しとりますけん」
「そうですか」
相手が将棋好きな人物でよかったと大橋は安堵した。
男は興奮した様子で大橋の手を握った。
「プロの将棋指しと会ったとは初めてやけん、あとでサインばしてもらえんですか?」
「サインをするような身分ではないんですが、もしよろしければ……」
男は大橋を握った手を大きく振った。
「いやあ、感激ばいね。親父も将棋好きやけん、帰ってきたらきっと腰ば抜かしますやろう」
それから男は気づいたように悲しげに眉を寄せた。
「そういえば、赤津八段は不幸なことになったですね」
大橋は頷いた。
「赤津八段の実家が福岡なので、葬儀に出席した帰りなんです」
男は納得した様子で何度も頷いた。
「で、聞きたかことって、なにを聞きたかとですか?」
「この周辺に渡瀬重太郎さんの家があると聞いたんですが……」
大橋が切り出すや否や、男は大声を上げた。
「やっぱり渡瀬の話ですか。なんとなくそん話じゃなかろうかって思っとったったい」
男の頬がかすかに紅潮していた。
「と言いますと?」
「渡瀬重太郎ち言うたら、こんあたりじゃ有名人やったけんねえ。親父もしょっちゅう将棋指してもらったみたいやし。まあ親父のへぼ将棋じゃ、二枚落ちでも勝てんやったらしいばってん」
男は大橋に親しみを感じているのか、次第に友達に接するときのような言葉遣いになっていった。
「渡瀬重太郎さんの家は近くにあるんですか?」
「あん家はもうなくなって、別の家が建っとる。おれが小学生のころ、一家は別の場所に引っ越したけんね。渡瀬重太郎さんはそれよりもずっと前に焼身自殺ばして、奥さんも生活するのに大変やったそうやけん。重太郎さんは将棋連盟に騙されたんやって親父が言いよったけど、まあ本当かどうか……」
彼の話は師匠の平畑の話と合致する。大橋ははやる気持ちを抑えながらゆっくりと聞いた。
「彼の子供さんを覚えていらっしゃいますか?」
「龍一ね。おれの同級生たい」
「龍一」という単語に大橋は思わず声を裏返らせた。
「ご存知なんですか?」
「うん、小さなころから天才少年ち言われて近所では評判やったけん。スポーツはまったくできんくせに、頭だけはやたらとよかったけんね。小学生のときIQが180あるとか、大人たちが言いよったんを聞いたことがあるばってん」
やはり渡瀬龍一は渡瀬重太郎の息子だったのだ。
「龍一さんは将棋をなさっていましたか?」
「さあ、やつが将棋を指したんを見たことはなかねえ。やつのお袋さんが将棋を禁じたんやなかとね。だってあん家族は重太郎さんの将棋のせいで無茶苦茶にされよったやろう。龍一のお袋さんにしてみりゃ、将棋なんか、仇みたいなもんやろうけんね」
「引っ越してから、渡瀬龍一さんの行方はわかりませんか?」
「暗いやつやったけん、あんまり友達もおらんやったしな。たぶんだれも知らんと思うばい。噂好きの同級生が言っとったけど、T大に合格して、東京に行ったそうやけど」
「渡瀬さんの家は、棋聖天野宗歩の弟子だった渡瀬荘次郎の子孫だと聞きましたが」
「ああ、それはうちの親父も言いよったばい。いつも渡瀬重太郎が自慢しよったって」
「龍一さんには妹さんがいらっしゃいましたよね?」
男が突然思い出したように呟いた。
「そういえば、龍一には二つ下の弟もおったね」
大橋は男を見つめた。
「妹さんではないんですか?」
「弟ばい。泰二っていう名前やった。いつも龍一のあとを追っかけとったねえ」
「妹さんはいませんでしたか?」
「あいつには妹なんちおらんばい」
「本当ですか?」
「ああ、間違いなか。あいつには弟がひとりだけやったけん」
「弟さんはいまなにをしてるか、わかりますか?」
「ようわからんけど、なんか死んだという噂を聞いたことがあるね。なんでも若いころに交通事故に遭ったとか言いよったけど……」
渡瀬には妹はいない。玲子は素性を騙っていたのだ。

〔29〕

竜王戦第一局は十月末に、千葉県の海沿いのホテルで二日かけて行われる。
季節はすっかり晩秋の装いを呈しており、顔に吹きつける風が冷たく、肌寒い。
ホテルの大きな窓からは海が一望でき、旅行として来たなら、申し分ないところだ。対局を控えている大橋には海の景色を楽しむ余裕などはないが、遠く波音を聞いていると、心が静まる。
大橋は早めに対局室に入り、正座して黒柳竜王が来るのを待っていた。
記録係の奨励会員ばかりか、立会人の青柳九段までもが落ち着かない様子で、そわそわと時計を見ている。
対局場は障子で囲まれた静謐な空間で、畳は青く真新しい。座っていると、畳のすがすがしい香りが漂ってきて、気持ちが引き締まるようだ。
本榧の七寸二分の将棋盤は四面すべてに柾目が入っており、風格のある飴色の光沢を放っている。晴月作の盛上駒は透き通った赤糸柾が木地に入っていて、手に取ると指に吸い付いてくるような錯覚を覚える。
大橋は脇息にもたれかかると、薄く目を閉じた。
大橋の思った通り、渡瀬重太郎と渡瀬龍一は親子だった。しかも渡瀬には弟しかおらず、妹などいなかった。なぜ玲子は自分の正体を偽ったのか。
あれから大橋は玲子についていろいろと考えていた。
ヘヴンフィールドで働いていた玲子を警察が知らないはずはないだろう。もし彼女が行方不明だとしたら、報道されていないのは明らかに不自然だ。
したがって玲子は無事だと思われる。だとしたら、会社に出入りしているプロ棋士として大橋の存在を警察に喋るのが普通ではないだろうか。
大橋も警察に事情聴取を受けることは覚悟していたのだ。ところが警察からはいっこうに連絡がない。
考えられることはひとつ。彼女は無事で、なおかつ行方不明にはなっていない。さらに彼女は大橋の存在を警察には喋っていないのだ。
それはなぜなのだろうか。彼女が大橋のことを隠して、なにか利益があるのだろうか。それとも大橋のことを警察に喋れない事情でもあるのだろうか。
渡瀬龍一が将棋連盟に対して恨みを抱いていた可能性は強い。近所に住んでいた人物でさえ、塚本八段との対局を耳にしていたくらいだ。渡瀬重太郎はことあるごとに、将棋連盟の共同研究によってプロ棋士への道を阻止されたと言っていたのだろう。
当然重太郎の奥さんも共同研究を疑っていたに違いない。連盟から放り出されたために、父親は絶望して自殺したという話を、渡瀬も幼いころから母親に聞かされていたのだろう。
だからこそ龍一はプログラマになり、最強の棋士すら負かす将棋ソフトを開発しようとしていたのではないだろうか。「宗歩」の名前も天野宗歩から取ったのだろう。それが父親を闇に葬った将棋連盟に対しての、渡瀬龍一なりの復讐ではないだろうか。
あたかも渡瀬一族は将棋家に対して敵対する宿命を持って生まれてきたかのようだ。渡瀬龍一は最初から将棋家の末裔である大橋を狙っていて、計画的に「宗歩」を使わせたのかもしれない。
赤津がその因縁に巻き込まれて殺されたのだとしたら、復讐の対象には自分も含まれているのではないか。そしていまもだれかに命を狙われているのではないだろうか。
大橋は目を開くと大きく深呼吸した。
なにはともあれ、いまは対局についてだけを考えて集中しよう。少なくとも対局中は渡瀬や赤津のことを頭から振り払わねばならない。
将棋界において、すべてのタイトルを奪って七冠になるのは、ほとんど不可能に近い偉業だ。他の棋士たちと比べて、一歩も二歩も抜きんでる強さがなければ、とうてい七冠にはなれない。
あの強い赤津でさえ、黒柳に何度も挑戦して、一度もタイトルを奪取できなかった。すべてを投げ打って勝負に挑むくらいでないと、勝つどころか、まともに勝負することすらできないだろう。
大橋が対局に向けて気を引き締めているとき、対局室の障子戸が静かに開いて、黒柳七冠が姿を見せた。
黒柳は立会人に挨拶すると、胸を張り颯爽と歩いてきた。彼の態度は威風堂々としていて、第一人者だけが持っているオーラに囲まれているように見えた。
黒柳は大橋を一瞥すると目礼して、優雅な動作で上座に座った。
黒柳の姿を見ているだけで、圧倒されてすでに負けたような気になった。七冠を獲った男の威圧感なのだろう。自分とは明らかに格が違うのではないだろうか。
大橋は負け犬のように尻尾を引っ込めそうな気分の自分に、心中で渇を入れると、盤面を睨んだ。
大橋は竜王戦のような大舞台は初めてだ。それどころか、先日まで三段リーグを這い上がれずにうごめいていた棋士だ。突然スポットライトを浴びた田舎娘のような心境になってくる。せめて気持ちだけでも冷静に保たないと、まともに将棋を指させてもらえない。
「宗歩」を使うつもりは毛頭なかった。どんなに苦しくても自分の力で将棋を指そうと思っていた。それが赤津に対する供養になると信じていた。
竜王戦の挑戦者になってから、大橋はずっと「宗歩」相手に将棋を指した。不思議なことに、赤津に感じた威圧感は「宗歩」からは微塵も感じられなかった。それは将棋の強さというよりは、将棋の格の違いのような気がした。
大橋は竜王戦挑戦者決定戦の第三局で、赤津と最後に対局した棋譜を何度も並べた。あのときは「宗歩」対赤津の勝負だったが、赤津はあっという間に「宗歩」の穴熊を攻め潰した。「宗歩」はこれといった悪手を指していないにも関わらず、終始圧倒され続け、受けの手を指しているうちに負けた。
「宗歩」の敗因をしいて挙げれば、序盤の見通しの違いにあると考えられた。「宗歩」が自陣を固めているあいだに、赤津は一見素人将棋のように飛車を繰り出して制空権を握り、攻撃陣を集中させ一気に襲い掛かった。赤津の構想力がそれほど優れていたのだろう。
「宗歩」と同様、黒柳は穴熊を多用する。玉を固めたあと、固さを頼みに駒を捌くやり方は類似している。黒柳には赤津のあの攻めで戦えるかもしれない。
振り駒の結果、大橋の先手で勝負が始まった。
大橋が▲7六歩と角道を開けると、黒柳は予想通り△3四歩と指してきた。
黒柳が後手のときは振り飛車の採用率が高い。大橋が▲2六歩と飛車先の歩を突いたとき、黒柳はノータイムで△4四歩と角道を止めた。
大橋は奇妙な感覚に囚われた。赤津に感じたときのような威圧感が、黒柳からは感じられないのだ。
駒組みが進むにつれて、その思いはますます強くなった。黒柳の気迫や闘志は相変わらず感じられない。盤面を凝視して考えていると、大橋はひとりで将棋を指しているような錯覚に陥った。驚いて前を見ると、黒柳はちゃんと座っている。苦笑して、再び盤面を見る。あたかもロボットを相手にしているかのような感覚だ。
しかも黒柳は淡々と駒を進めるばかりで、大橋の指し手にまったく答えようとしない。「棋は対話なり」という言葉がある。将棋を指すということは、相手と会話することと同じであるという意味である。黒柳と指していて、大橋はそうした対話を微塵も感じなかった。
大橋が投げかけた言葉を、黒柳は無視して別の会話を進める。お互いがてんでばらばらの話をしているような感覚だった。
剣術も達人になると、自分の気配を殺して忍び寄り、気づいたときには一刀両断に斬られていると聞いたことがある。
黒柳もそうなのだろうか。いっさい気配を感じさせず、安心して緩い手を指したが最後、黒柳が一気に襲い掛かる。気づいたときには即詰みに討ち取られる。それが黒柳の棋風かもしれないので、油断は禁物だ。
大橋はいっそう慎重に指し手を進めていった。
黒柳は自玉を穴熊に囲うようだった。大橋としては居飛車穴熊という選択があり、やや居飛車穴熊のほうが指しやすいというのが定説だったが、大橋は赤津が「宗歩」に対して行った戦術を採用した。
赤津は後手の振り飛車側から、この戦法をやってきたが、こちらが先手で相手が振り飛車穴熊のときにも同様の狙いがあることに大橋は気づいていた。それは相手が不用意に玉を囲おうとしたときに、通用する戦術だった。
無論黒柳が他の棋士の将棋を研究していることは知っている。赤津と大橋が挑戦者決定戦で指した将棋も当然知っているだろうし、なぜ大橋が負けたのかも検討しているはずだ。
それでもあえて赤津の戦法を採用したのは、黒柳ほどの棋士がどのようにしてあの戦法をいなすのかに、純粋な興味があったからだ。
もし自分がそうやって指されたら、大橋には容易に受ける方法が思いつかなかった。何度考えても、あの段階での穴熊囲いは無理筋だという結論しか出なかった。
しかし黒柳なら対処策を編み出しているのかもしれない。危険とは知りつつも、棋士としての好奇心から、大橋は赤津戦と同じように駒組みを進めていった。
初めてのタイトル戦であり、大橋は気を落ち着ける意味で、序盤で考慮時間を結構使ったが、黒柳はほとんど考慮時間を使わなかった。序盤が得意な黒柳は中終盤で徹底的に時間をかけることで、終盤の読みの正確さを誇っているのだ。
大橋だけが着々と持ち時間を使っていき、昼食休憩が終わったときには、序盤も終わろうかとしていた。午後に入り、数手指したところで、黒柳が手を封じた。
二日制の将棋の場合、一日目の最後にどちらかが指し手を決めて紙に書き、封筒に入れる。そして封筒をだれにも見せないようにして、立会人に渡す。それを封じ手と呼ぶ。立会人は次の日の朝、その封筒を開けて、指し手を告げる。そうしなければ、一日目の最後に指したほうの指し手を、相手が次の日の朝まで研究できることになり、不公平になるからだ。
次の日の朝、黒柳の封じ手は予想の範疇を超えないものだった。黒柳は大橋の狙いに気づいていないのか、悠然と玉を囲っていった。
大橋は攻撃態勢を整えると、歩を突き捨てて黒柳に全面攻撃を開始した。
黒柳陣はもろくも崩れ去り、大橋は圧倒的に優勢になった。
穴熊は手がつけば早い。黒柳はさすがに七冠王の意地か、粘り強く玉を逃がそうとしたが、大橋は即詰みの筋を見つけ、一気に黒柳玉を仕留めた。
黒柳が駒台に手を置いて、青白い引きつったような顔で「負けました」と呟いた。

〔30〕

大橋の勝利は、少なからず将棋界に波紋を投げかけた。
竜王戦第一局を観戦していた記者は、黒柳にはタイトル防衛の疲れが出ているのではないかと推測した。
七冠王はいつもだれかの挑戦を受けていなければならない状態にある。挑戦者は常に、予選を勝ち上がってきた最強の棋士である。タイトルホルダーは一番よい状態の挑戦者たちを迎えなければならない。タイトルを持っていない棋士に比べて、精神的に数倍疲れる。
大橋自身も、赤津と挑戦者決定で二局戦っただけで、プレッシャーのあまり吐き気を催した。精神的プレッシャーに勝てずに、三局目は「宗歩」に指させたくらいだ。黒柳の疲労たるや半端なものではないだろう。
黒柳は、竜王戦の直前にあった王座戦で、挑戦者の国見延雄前名人に三連勝して、王座タイトルを防衛している。黒柳はそちらの防衛のほうに力を入れていたのではないだろうかというのが、棋士たちの見解だった。
あそこまで簡単に攻め潰されたのを見ると、赤津が挑戦者決定戦第三局で見せた攻め筋も、黒柳は知らないようだ。多忙のあまり、挑戦者決定戦の棋譜を確認できなかったのだろう。
大橋自身も第一局の結果はあまり楽観視しないようにしていた。赤津すら寄せつけなかった黒柳は、これからの対局で、大橋を驚愕させる手をきっと指してくるだろう。
赤津の対局と同じように精神的にぼろぼろになるかもしれないが、今度こそは逃げずに黒柳の手を真っ向から受けるつもりだった。大橋の力が足りないときには、玉砕しても構わない。それが赤津に対して大橋ができる唯一の罪滅ぼしだろう。
千葉から東京に戻ってくると、大橋は改めてマスコミからの取材を受けた。だれも歯が立たなかった黒柳七冠に土をつけた大橋の評価は一気に上がった。黒柳に挑戦した棋士がここまで圧倒的に黒柳を打ち破ることなど、ただの一度もなかったからだ。
「新四段遅咲きの春」といった見出しで将棋雑誌に大橋の特集が組まれる予定になっていた。大橋の活躍は二十五歳を過ぎた奨励会員たちを勇気づけていた。いくら昇段が遅くても、四段になりタイトルに挑戦できる可能性があることを大橋が身を持って証明したからだ。
雑誌の取材が終わったときには、夕方の六時になっていた。
大橋が将棋会館をあとにしようとすると、兄弟子の和泉七段が声をかけた。
「取材はどうだった?」
「将棋よりは緊張しないですよ」
「なんだ、おまえでも将棋を指すとき緊張するのか?」
「もちろんですよ。相手が自分の読みにない手を指すんじゃないだろうかって、一手指すたびに震えてます」
「なるほど、そういうもんか。おれは緊張しなさ過ぎだろうな。このあいだなんて二日酔いで対局したら、あっという間に負かされた」
「それ、絶対に師匠には言えませんね」
「当たり前だ。師匠が聞いたら一発で破門だぞ」
「でも、進藤なんて、おれの知ってるだけでいままでに十回以上は破門されてますよね」
「そう言われてみれば、おれなんて、通算百回以上『おまえなんて破門だ』って言われてるな」
「師匠の『破門』は口癖ですからね」
「駒団子持っていきゃ、機嫌なんてすぐに直るしな」
「そう言えば、いままでに師匠に駒団子を十回以上は持っていってますね」
「おれなんて、五十回以上だよ」
大橋はふきだした。
和泉は千葉での第一局にも応援に駆けつけてくれた。大橋が勝った夜には大喜びで酒を飲み、べろんべろんに酔っ払っていた。酒好きの彼も、今日はさすがにまだ飲んでいないようだ。
「このあいだ進藤が『千駄ヶ谷』で言っていた話があっただろう?」
「はい」
「あれから塚本八段についてちょっと調べてみたんだが、かなり強い棋士だったらしい。運悪くA級在籍中になくなったそうだが、名人にもなれる器だったそうだ。特に終盤の力はずば抜けていて『即詰みの塚本』って呼ばれていたらしい」
「即詰み? 塚本八段は終盤が苦手だったんじゃないんですか?」
「ああ、進藤もそう言っていたな。でも、塚本八段は終盤型の棋士だぞ。おそらくおっちょこちょいな進藤が勘違いしたんじゃないのか」
平畑の話でも塚本八段は序盤巧者の棋士だと言っていた。そもそも平畑が勘違いをしていたのだろうか。
和泉は大橋に近づき、耳打ちをした。
「それはそうと、ちょっと面白くない噂を聞いた。人気のない道を歩くのは避けたほうがいい」
「どういう意味ですか?」
「黒柳七冠の熱烈なファンがおまえに敵愾心を燃やしているようなんだ。赤津八段の死体の第一発見者はおまえだ。それをことさらに言い立て、おまえを批判する一部の週刊誌があるのは知ってるだろう?」
「ええ」
たしかに赤津の死体を発見した大橋を疑っている週刊誌があるのは知っていた。だが、あまりにもくだらない内容の記事だったので、大橋は努めて気にしないようにしていた。
和泉は渋い表情で呟いた。
「将棋連盟にもおまえを非難する投書が何通か届いている。脅迫めいたものもあった。師匠はおまえには黙っていろと言ってたんだが、どうも胸騒ぎがしてなあ」
「和泉さん、わざわざありがとうございます。でも大丈夫ですよ。将棋連盟から家まで大して遠くないし、大通りしか通らないようにしますから」
努めて笑顔で答えたが、内心では不安だった。黒柳の熱烈なファンが大橋に危害を加えることも考えられたが、それよりも気になったのは、殺された渡瀬と赤津のことだった。渡瀬や赤津を殺した人物が、大橋を付け狙う可能性も十分にあるだろう。
だが、心配顔の和泉にそこまで話す気持ちにはなれなかった。大橋はあえて明るく振舞うと、将棋会館をあとにした。

その日の夜遅く自宅の最寄駅の改札を抜けたときには、人影がまったくなくなっていた。自宅までは急げば十分かからないだろう。不安な気持ちを押し殺して、大橋は歩を早めた。
ふと後ろに気配を感じた。
渡瀬龍一の死体を発見した数日後、だれかに尾行されたときと同じような感覚だった。大橋はなるべく足音を立てないように歩き、背中に神経を集中した。
さきほど感じた気配は感じなかった。立ち止まって耳を澄まし、わずかな物音も聞き逃さないようにしたが、やはり音はしない。
大橋の気のせいなのだろうか。さきほど和泉に注意されたこともあって神経が張りつめていたのかもしれない。なにかあると思い込めば、なにもないときにでもあるように感じてしまうものだ。
少々臆病風に吹かれているのかもしれない。大橋は苦笑すると、再び歩き始めようとした。
その瞬間、道路脇から黒い人影が姿を現した。人影は長い棒で大橋に殴りかかってきた。大橋は身をよじってその一撃をかわした。アスファルトに金属バットが叩きつけられるいやな音がした。人影はすかさずバットを振りかざした。
大橋はとっさに脇に回り込み、人影が振り上げたバットを掴んだ。素早くバットを引いて奪い取り、思い切り遠くに投げ捨てた。バットが道路の向こうに転がっていった。
相手はマスクで顔を隠していて、表情は掴めなかったが、明らかに狼狽しているようだった。身長は大橋より低く、華奢な体型をしている。別に相手を組み伏せようとしたわけではなかったが、人影の動きは思ったほど速くなく、ひるんで逃げようとした人影の腕を、大橋はとっさに掴んだ。
人影の体を引き寄せたとたん、折れるような華奢な感触と女性特有の香水の匂いに、大橋はぎょっとして掴んでいた腕を離した。
人影は軽くうめき声を上げると大橋の胸を突き飛ばした。身を翻すと、走って逃げていった。我に返って人影を追おうとしたときには、遠く見えないところまで人影は去っていた。
大橋を襲った人影の正体は女性だ。女性がなぜ大橋を襲うのだ。
和泉が言っていたように、黒柳には女性ファンがたくさんいる。彼の女性ファンのひとりという可能性もゼロではないが、たかだかタイトル挑戦で一回勝っただけで、大橋を襲ったりするものなのだろうか。
そのとき大橋は渡瀬のオフィスにいた玲子が、これと同じ香水の匂いだったことに気がついた。もしかして、さっきの暴漢の正体は玲子ではないだろうか。腕を触った感じや、背丈から考えてみても、先ほどの暴漢と玲子の姿が重なってくる。顔を隠したのも大橋と面識があるからではないか。
なぜ彼女が大橋を襲うのだ。まさか彼女が渡瀬と赤津を殺したのだろうか。
いくらなんでも、彼女が渡瀬を殺すだろうか。玲子は気が強そうな感じはしたが、ごく普通のOLにしか見えなかった。それに彼女がなぜ大橋を襲うのかもわからない。
その日帰宅した大橋はいままでの新聞記事を、保存したファイルから取り出し、渡瀬龍一の事件を調べてみたが、やはり玲子の名前はまったく出ていなかった。

(続く)