〔25〕

次の日になっても、大橋の心はいっこうに晴れなかった。
「宗歩」を使わずに赤津と対局していればよかったという考えと、あのまま赤津と対局していたら心身ともにぼろぼろになっていただろうという考えが、大橋の頭の中で交錯していた。
赤津はすごい棋士だ。私生活では借金を重ね、棋士仲間からは忌み嫌われたが、将棋に対してだけは誠実だった。
そこには金銭欲も名誉欲もない。名人になるだとか、タイトルを獲って儲けるだとかの考えは彼にはないだろう。将棋というゲームが持つ魅力に赤津は取り憑かれているのだ。その純粋さが他の棋士からすれば、いっそう煙たいのだろう。
その点黒柳は、名誉と金が得られないのならば、将棋指しになどならないと公言して憚らない。彼は勝負に勝つことだけを重要視し、勝ち方にはまったくこだわらない。彼は「毎局不戦勝ならそれが一番いい」と言っていたことがある。
大橋はどうだろうか。将棋を長いこと指しておきながら、自分の考えすらなにも持てずに、漠然と将棋を指してきた。奨励会でくすぶると、渡瀬の持ってきた「宗歩」の話に飛びつき、不正行為をやって四段昇段を果たした。竜王戦第三局の肝心なところで、勝負するのが怖くなり、「宗歩」の力に頼った。どれもこれも中途半端ではないか。
いままで大橋は心の奥底で、赤津の考えにはついていけないと思っていた。赤津のように常に創意工夫をしながら将棋を指すのは不可能だと思っていた。そこまでこだわるのなら、もっと私生活をきちんとするとか、棋士仲間ともうまくやっていくよう気を遣うとかに心を砕くべきだと思っていた。大橋は赤津のことを、軽視していたのかもしれない。
黒柳のように勝負に徹することもできなかった。勝負にこだわり、醜くても勝てばいいといった考えには、抵抗を持っていた。黒柳の将棋は美しくないと、心のどこかで思っていた。
将棋に対して一番不誠実だったのは大橋なのかもしれない。赤津には赤津の考えがあり、黒柳は黒柳で自分の信念を曲げようとしなかった。二人とも自分の考えを貫き通していた。
大橋は居ても立ってもいられなくなった。一言だけでも赤津に謝ろうと思った。赤津に謝って「宗歩」のことも正直に話す。許してもらえないかもしれないが、それでもよかった。
赤津に会いたい。会って話をしたい。
大橋は赤津のアパートに向かった。

三十分ほど電車に乗り、駅から三分ほど歩くと赤津のアパートだ。
時計を見ると、夕方の六時になっていた。あたりは薄暗くなりかけていた。一瞬、以前尾行されていた人間のことを思い出して振り返ったが、怪しげな人間はいなかった。
赤津のアパートは見るからに安普請の二階建ての建物だ。壁は塗装が剥げかけていて、変な模様のように見える。人が住んでいない廃屋だといっても信じてしまいそうなほど、アパートはひっそりとしていた。
赤津の部屋は四畳半一間だ。彼は住むところにはいっさいこだわらないようで、部屋の中には将棋の駒と盤の他には、ベッドとコタツと薬缶しかなかったことを思い出した。
赤津の部屋は二階にある。粗末な鉄製の板でできた階段を上がり、赤津の部屋に向かった。ドアにはだれが殴ったのか、何箇所もの窪みがある。郵便ポストには督促状と思われる封筒が溢れかえっていた。
部屋の前に立つと、大橋は少し躊躇したあと、ドアをノックした。
返事がない。
隙間から光が漏れているので、留守ではないだろう。大橋は再度ノックした。
しばらく待ったが、返事はなかった。
ドアノブに軽く手をかけると、最後まで回転した。鍵が開いている。大橋の頭を不吉な予感がかすめた。
ドアを開けたとたん、大橋は息を呑んだ。だれかがうつぶせになって倒れている。そばには将棋盤が転がっていた。将棋盤には血がついている。
大橋は恐る恐る近づき、倒れている人間の顔を覗き込んだ。
頭は血で濡れており、苦しそうに顔をゆがめていたが、赤津に間違いない。赤津の手を触るとひやりとした冷たさに、思わず飛び上がった。
逃げるように部屋から飛び出すと、すぐさま110番通報をした。それからアパートの前でパトカーを待った。
悲しみの感情よりも、後悔の感情のほうが大きかった。こんなことなら昨日の将棋は自分で指せばよかった。不条理だとも思った。なぜ赤津が死ななければならないのだ。
五分ほどしてパトカーがサイレンを鳴らしてやってきた。大橋にはその五分間がとてつもなく長い時間のように感じられた。
パトカーから降りたのは小原刑事だった。
小原は大橋を見ると、すぐに走り寄ってきた。
「どうしたんですか、こんなところで?」
小原の目元にかすかな緊張が漂っている。
「赤津が死んでいるんです」
「赤津八段のことですか?」
大橋が無言で頷くと、小原の顔色が変わった。
すぐに数台のパトカーがやってきた。中から私服の刑事らしき人物や、制服を着た警官たちが赤津の部屋に入っていった。
大橋は小原のパトカーで、近くのS警察署に向かった。
S警察署で、大橋は暗く狭い部屋に通され、小原に事情聴取を受けた。大橋は赤津の部屋に入ったときの様子を覚えている限り丁寧に説明した。
話しながら、渡瀬の件と赤津の件には、なにか関係があるのではないだろうかと思い始めていた。渡瀬も赤津も、大橋に深く関係している人物だ。今回の事件は大橋を中心に起こっているような気がしてならない。
もちろんそれだけではなんの根拠もないに等しい。しかし、短期間に二回も死体を発見すること自体が不自然だ。
渡瀬と赤津のあいだになにかの関係があったのだろうか。渡瀬が赤津の兄の会社で働いていたという事実も引っかかる。
大橋は渡瀬の死体を発見して以来、玲子に会っていないし、消息も聞かない。もちろん大橋がヘブンフィールドに近寄らなくなったためではあるが、それにしても渡瀬殺害について警察から事情聴取を受ければ、玲子についての情報も入ったかもしれない。
それがなにもないということは、玲子が大橋のことを警察に喋っていないということだ。なぜ玲子は大橋の存在を警察に話さないのか。もしかしたら彼女も犠牲者になっているのではないだろうか。
大橋は渡瀬について口を滑らせないよう留意しながら、小原に事情を説明した。友の死を悲しむ余裕はまったくなかった。ただ、運命に翻弄されているような切迫感だけが大橋を支配していた。
大橋は何度も同じ事を小原に聞かれた。小原の沈痛な面持ちがが、将棋ファンの気持ちを代弁しているように思えた。

〔26〕

メディアは面白がって赤津の死を報道した。
スポーツ紙には、赤津が偏屈な棋士であることや、借金が多くあったことも取り上げられ、「A級八段を取り巻く黒い影」といった見出しの記事まで書かれた。
赤津の生前の行動はマスコミの格好の餌食になり、赤津を野放しにしていた日本将棋連盟さえも、非難の対象になった。
赤津の死に関して、日本将棋連盟の反応は冷淡だった。突飛な行動を取ったり、対局放棄をしたりするなど、連盟での赤津の評価はかなり悪かった。借金取りに追われている話もほとんどの人間が知っていた。いつかは事件に巻き込まれるだろうと連盟内では噂になっていたほどだ。
メディアの過剰反応を抑えるためにも、連盟は断固とした処置をとる必要があったのかもしれない。赤津の死に関して、連盟会長が「極めて遺憾である」と短くコメントしただけだった。
理事会が速やかに開催され、竜王位の挑戦者が繰上げで大橋に決定した。
大橋にとっては迷惑な話だった。赤津に恐れをなした大橋が、赤津よりもさらに強い黒柳に勝てるはずがない。いったんは辞退したが、師匠の平畑に説得され、黒柳竜王への挑戦を承諾した。

大橋が家に帰ると和子と信夫が出迎えてくれた。
「なにかあったのかい?」
信夫が満面の笑みを浮かべた。
「黒柳竜王へ挑戦することが決まったそうじゃないか。さっき平畑先生から連絡があったよ」
「うん」
大橋は気が重かった。赤津の死によって自分が利益を受けることに対して、抵抗があった。将棋指しとしての自分にも自信が持てなかった。
信夫がいぶかしげな表情で大橋を見つめた。
「どうしたんだ? 嬉しくないのか?」
「死んだ赤津とは仲がよかったんだ。素直には喜べないよ」
赤津の名前を聞いたとたん、信夫は眉をひそめた。
「彼はいろいろと問題があったそうじゃないか。マスコミにも叩かれているし、竜王に挑戦するのはもともとふさわしくないんだよ」
奨励会時代、赤津はよく大橋将棋クラブに来ていた。最初は信夫も赤津を可愛がっていたが、ある出来事以来、両親は赤津に対して悪い印象を抱くようになった。
赤津が大橋宅に一週間ほど泊まったことがあった。自宅の周りをたちの悪い人間がうろついているんだ、と赤津は大橋にこっそりと打ち明けた。大橋は何日でも泊まっていけばいいと胸を叩いた。
ところが日を重ねるごとに和子が不審に思い始めた。
「ねえ、あの赤津って子、いつまでうちに泊まるつもりなの?」
「さあ」
「さあ、じゃないでしょう。一泊や二泊程度ならなにも言わないけど、どうして自宅に帰ろうとしないのかしら?」
「アパートに戻れない理由があるらしいんだけど」
「なんの理由なの?」
本当のことを言うと、和子が驚くので大橋は言葉を濁した。
「そこまではわからないよ。いいじゃないか、ちょっとくらい泊めてやっても」
「泊めるのはいっこうに構いませんよ。でも、あなたたちもいい大人でしょう。理由も言わずに人様の家に何日も泊まるのは常識がないんじゃないの?」
「そのうちに帰るさ」
そのときは話を無理矢理終わらせたが、その夜、大橋が赤津と将棋連盟から戻ってくると、信夫が鹿爪顔で腕組みをしてリビングルームの椅子に座っていた。
「まあ、座りなさい」
信夫は二人を見て、感情を押し殺したような声で言った。有無を言わさない態度に大橋は緊張した。
赤津は緊迫した雰囲気には気づいておらず、ぺこりと頭を下げると、椅子に座った。
「赤津君、このところずっと家に帰っていないみたいだけど、なにかあったのかね?」
「はあ」
信夫の声のトーンから、内心かなり怒っているであろうことが容易に想像できたが、赤津は相変わらずきょとんとした顔をしていた。
「他人の家に一週間以上も寝泊りするのは、いささか常軌を逸してると思わないかね?」
「すみません」
「いったい、君はどうして自宅に戻らないのかね?」
赤津が困ったように頭に手を当てた。
「実はちょっと事情がありまして……」
「事情というと?」
「まあ、なんと言いましょうか……」
大橋は内心で赤津が上手く取り繕ってくれるよう祈っていたが、一方で赤津に期待するのは無理なような気もしていた。それどころか将棋以外の物事に無頓着な赤津が変なことを言い出さないかとひやひやだった。
要領を得ない赤津の説明と無神経とも言える赤津の態度に、信夫は苛立ってきたようだった。
「あのねえ赤津君、人が真面目に話しているときに、そんなごまかしたような言い方をするものではないだろう。君はいつもそんな調子で人をおちょくったように話すのか?」
「いえ、そういうわけじゃないんっすけど」
大橋ははらはらしながら二人の会話を聞いていたが、赤津は驚くほど平然としていた。
「ならば事情を話しなさい」
赤津が照れくさそうに、ハハハとごまかし笑いをすると、頭をかいた。
「実は借金取りがアパートの周りをうろついてまして……」
「借金取りというと、君はどこかに借金をしているのかね?」
「ええ」
とうとう言ってしまったか、と思った。赤津は場の雰囲気を読まない男だ。言っていいことと悪いことの区別がつかない。
信夫は頬を引きつらせて、大橋を見やった。
「宗角は事情を知っていたのか?」
たとえ知らなかったと言っても、能天気な赤津のことだ。おまえには言ったじゃないかと不思議そうな顔で言われるのが関の山だ。嘘がばれれば信夫は烈火のごとく怒る。
これ以上ごまかすわけにはいかない。大橋は小さく頷いた。
信夫はあきれたように言った。
「借りたお金はきちんと返さなければ駄目じゃないか」
「いやあ、お父さん、あれは借りたお金といっても麻雀のイカサマで負けたお金なんですよ。やつら通しをやってまして、それで勝ったなんて言いやがるんです。毎日おれのアパートに来ては金を払えとうるさくって。チンピラのくせにお金には細かい野郎どもで、おれも困っているんですけどね。はは」
大橋は嘆息した。信夫は厳格な性格だ。赤津の話を聞いて、決定的に赤津を嫌いになっただろう。
あんのじょう信夫は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「麻雀の負けでも、借金は借金だろう?」
「そりゃそうですが……」
「君も勝負師を目指す人間ならば、博打で負けた金はきちんと払わなければいけないじゃないか。君だって勝ったときにはお金をもらうつもりだったんだろう?」
「でも相手はイカサマをしてますし」
「イカサマの現行犯を見つけて指摘したのかね?」
「いえ、でもおれの手がすっかり筒抜けになってました。通しをやってるに決まってるんですよ」
「それならば君の負けじゃないか。イカサマに文句をつけたいのなら、現行犯で捕まえることだ。それができないのなら、負けたお金を払うしかない。博打とはそういうものだ」
赤津が言葉に詰まったのを見て、信夫が訊ねた。
「いくら借金があるのかね?」
「十五万くらいです」
「親御さんはなんとおっしゃっているのかね?」
赤津は若干ためらっていたが、信夫の顔を見て諦めたように言った。
「おれは両親から勘当されているんです。素行が悪いのですっかり見捨てられました」
「それでは、お金のあてはないのかい?」
「はい」
信夫は和子のほうを向いて、奥のほうを指差した。
「母さん、箪笥から十五万円を持ってきなさい」
しばらくすると、和子は箪笥から十五万円が入った封筒を持ってきて、信夫に手渡した。信夫はテーブルの上に封筒を置いて、赤津に言った。
「これで借金を返しなさい」
赤津が断ろうとすると、信夫が押しとどめた。
「君も真剣師ではなく、将棋指しを目指すのなら、博打なんてやめたほうがいい。お金を返すのはいつでもいい。まずは自分の生活をきちんとしてから、うちに来なさい」
信夫の言葉に逆らえないと思ったのか、赤津は素直に頭を下げた。
「すみません。お金は必ず返します」
信夫はやや語気を弱め、赤津に言った。
「今日のところはもう帰りなさい。借金をきちんと返してから、うちに遊びに来なさい」
「はい」
赤津は神妙な顔つきでうなだれた。
さすがにそれ以来、赤津は大橋の家に泊まることはなくなったが、信夫にお金を返すこともなかった。

あのときのことを思い出したのだろう。信夫は苦い顔をした。
「あれ以来赤津という子はうちに来なくもなっただろう。赤津君と付き合ったから、おまえの昇段が遅れたんじゃないかって、思っていたこともあったんだ。いくらおまえの友達とはいえ、父さんは正直言って、彼が死んだのは自業自得ではないかと思う」
なにも言えず、大橋は黙って聞いていた。
「そんなことより、とうとう黒柳君、ああ、黒柳君といったらいけないな。黒柳七冠に挑戦じゃないか。おまえがタイトルに挑戦できるなんて、父さんは夢にも思っていなかったよ」
何事も如才ない黒柳は、大橋の両親に対しても礼儀正しい態度を崩さず、信夫に気に入られていた。
「あの黒柳君がいまでは将棋の神とさえ言われる七冠王だもんなあ。うちに出入りしていたときから、どこか違うと思っていたんだが、やはりなあ……」
信夫は懐かしそうに上を向くと、大橋の肩を叩いた。
「まあ、出せる力を出しきって頑張りなさい」
新四段になって以来、両親の笑顔を見ることが多くなった。
いままでは、なかなか昇段できずにいらいらしている大橋に気を遣ったり、励ましたりと大橋以上に大変だったろう。「宗歩」を使って新四段になったとはいえ、両親の喜ぶ顔を見るのは純粋に嬉しかった。
竜王戦への挑戦も、親孝行と思えばいいのかもしれない。大橋はぼんやりとそう考えていた。

〔27〕

大橋が福岡にある赤津の実家に着いたときには、赤津は葬儀場に運ばれる直前だった。
赤津の遠い親戚が彼の遺体を引き取って、身内だけで葬儀を行うようだった。両親とは本当に交渉を断っていたようで、城山工業の関係者らしき人物はほとんどいなかった。
結局大橋は赤津に謝ることができないままだった。最後に赤津と将棋を指したかった。なんのわだかまりもなく、ひたすら赤津との勝負に没頭したかった。大橋は葬儀のあいだじゅう、ずっと心の中で赤津に謝っていた。
棋界関連で赤津の葬儀に参列しているのは、将棋連盟の幹部と大橋だけだった。
黒柳はマスコミに囲まれて葬儀場に現れた。さすがに彼も沈痛な面持ちだった。葬儀に参列している連盟幹部たちの顔はみな一様に暗かったが、心から彼の死を悲しんでいるようには見えない。
赤津が生前言っていたことがある。
「おれはいずれ将棋の必勝法を編み出したいという目標を持ってるんだ」
「生きているうちにか。ほとんど不可能に近いな」
大橋がそう言うと、赤津は苦笑した。
「たしかに無理かもしれない。ただ究極の手に近づけることならできそうだとは思わないか?」
「おれは最初から入玉(玉が敵陣深く三段目以内までに侵入すること)を狙って負けないようにするのが究極の指し手じゃないかと思うことがある。もしお互いが入玉を狙って将棋を指し始めたらファンにとっては実に面白くない勝負になるだろうな」
入玉した場合には、相手陣に入り込んでいるので、玉の周りをと金や成り香などの安い駒で固めることができる。そのためいったん入玉した玉を詰ますのは難解を極めるのだ。
赤津は少しむきになってきっぱりと言い放った。
「たとえそうだとしても、おれは相手玉を仕留める方法を探すさ。もし将棋の必勝法が解明されて、それが入玉を目指すことならば、だれも将棋なんて指さなくなる」
大橋はそのときの赤津の剣幕に少々たじろいだ記憶がある。
自らの言葉どおり、赤津はいつも相手玉を詰ませにいく将棋を指した。私生活ではどうしようもない男だったが、将棋に対してだけは違っていた。
赤津は根っからの将棋指しだったのだ。将棋を愛し、将棋の神に愛された数少ない男だろう。
赤津の遺体は、彼の偉大さを打ち消すように、小さく丸まっていた。闘志を剥き出しにして、エネルギーを発散させながら将棋を指した彼の面影は微塵もなく、道端で死んでいる蝉の死骸のようにからからに乾いていた。大橋は思わず目をそらした。
赤津はだれに殺されたのだろう。消費者金融などから多額のお金を借りていたようだったが、それにしても殺しまではしないだろう。
そうなってくると、やはり渡瀬の死と赤津の死にはなにか関係があると考えたほうが辻褄が合う。渡瀬と赤津を殺したのは同一人物かもしれない。以前大橋のあとをつけていた人間も怪しい。
まさか大橋も命を狙われているということはないだろうか。

葬儀が終わり、大橋が帰ろうとすると、黒柳がやってきて、だれにも気づかれないように耳打ちした。
「市内に『K’S BAR』というショットバーがある。久しぶりに飲もうじゃないか。住所はここだ」
黒柳は素早く紙片を大橋に渡した。
「夜の八時くらいには行けると思う。六時開店だから、先に飲んでいてもいい」
それだけ言うと、何事もなかったように黒柳は去っていった。

「K’S BAR」は繁華街の中心にあった。雑居ビルの小さなエレベーターに乗って四階についたとたんに、「K’S BAR」という看板が目の前に見えた。
大橋が店の扉を開けると、店主と思われる綺麗な女性がシェイカーを振っていた。淡い色のスーツが照明に反射してきらびやかに見える。歳は三十代半ばであろうか。
時刻は七時をまわったところだ。四十代のサラリーマン風の男性がひとりカウンターで酒を飲んでいた。その男性は大橋が店に入ったとき、振り返ってこちらのほうに一瞥をくれたが、すぐに興味なさそうに視線をそらした。
「おひとりですか?」
女店主が上品に微笑んだ。
「いえ、あとからもうひとり来るはずです」
彼女は気づいたように頷いた。
「ああ、黒柳さんのお友達ですね」
にこやかな表情で、女店主は大橋につまみを持ってきた。大橋はジントニックを頼むと店の中を眺めた。
店は奥行きのある造りで、カウンターは十席ほどある。軽めのジャズが流れ、落ち着いた雰囲気だ。カウンターの中にはウイスキー、バーボンなどの酒類のビンが所狭しと並んでいる。手触りのよい布張りの椅子や、柔らかなオレンジ色の間接照明が、大橋の心をわずかに和ませた。
「黒柳さんは相変わらずお忙しそうですね」
ジントニックを差し出しながら、女店主は洗練された笑みを浮かべた。
「ええ、なにしろ七冠王ですからね。対局だけでもすごく忙しいですし、彼の場合テレビ出演とかいろいろで、遊ぶ暇もないとこぼしていました」
「近いうちに竜王戦がありますしね」
「将棋のタイトル戦を知ってるんですか?」
「黒柳さんに教えてもらいました。挑戦者の大橋さんですよね?」
そのとき、隣で飲んでいたサラリーマン風の男が酔眼を向けた。
「あんた、もしかして将棋指しね?」
「そうです」
男は驚いた表情をした。
「このあいだ将棋指しが死んだってニュースでやっとったやん。借金もかなりあったそうやし、いろいろと謎の多かことがあるって言っとったばい」
唇の厚いがっしりとした体型の男だった。目は真っ赤に充血し、頬が紅潮していてすっかり酔っ払っている様子だ。
「大ちゃん……」
女店主が男をたしなめたが、男は気にせずに続けた。
「なんか将棋指しも変わったばい。昔は風格のある人たちが名人を名乗っとったんやけど、最近じゃ、ただ顔がいいだけのアイドルごたぁる、つやつけた男が名人なんち言いようけん。うちの親父なんか、最近は将棋がつまらんようになったち言うて、ぷりぷり怒っとったばい。CMにも出とったね。なんち言いよったっけ? 猫柳とかなんとかいう名前のにやけたやつやろう?」
「黒柳です」
「ああそげん名前のやつばい。おれの親父はそいつを嫌っとうけんねえ。最近じゃ将棋を観て面白かとは、赤なんとかってやつだけしかおらんち言いよったけん。爺さんに見捨てられとったら、そりゃ将棋ももうおしまいやなかと」
女店主が男の目の前に立つと、グラスにビールを注いだ。
「はいはい。大ちゃんはまだ酔っ払う時間やなかろうもん」
「おれはまだ酔っ払っとらんけん」
「もう酔っ払っとうよ。目がラクダみたいになっとろうも。私は大ちゃんの体が心配やけん言っとうとよ」
「なんや、おれに気のあるとね」
男は下品に笑うと、大橋そっちのけで、しきりに女店主を口説き始めた。
一人で飲みながら、大橋は男の言葉を反芻していた。棋士仲間やマスコミには嫌われていたが、赤津のファンは意外に多い。特にオールドファンに赤津は好かれていた。
男の言葉は大橋たち将棋指しのことをけなしているようでいて、なんだか叱咤激励してくれているような感じがした。それが赤津にとっては一番の供養になるかもしれない。

八時を少々過ぎたときに黒柳が現れた。
大ちゃんと呼ばれた男は帰っていて、若いカップルが二組離れて座っている。彼らは有名人の黒柳には気づかないようだった。
大橋の隣に座るなり、黒柳はふうと溜め息をついた。
「赤津もつまらないことで命を落としたもんだ」
「おまえは赤津の死因を知ってるのか?」
「知り合いの刑事にこっそり聞いたんだ。将棋盤で撲殺されたらしい。頭部打撲による脳挫傷と言っていた」
「そうだったのか」
「おまえは死体の第一発見者だったんだろ。とんだとばっちりを受けたもんだな。でも、赤津はでたらめなやつだったから、だれに殺されても不思議じゃないだろう」
「とばっちりなんて思ってないよ。あいつはいろいろと問題のある男だったけど、将棋に関してだけは本当にすごかった。おれはあいつと対局して逃げ出したくなるくらい、怖かったんだ。おまえが将棋の神なら、あいつは将棋の鬼だよ」
黒柳が大橋の言葉に頷いた。
「そうだな。たしかに将棋の才能という点では、すごかっただろう。でも、あいつは勝ち方だとか、棋譜だとか、つまらないことにこだわっていたから、結局おれからタイトルをひとつも奪えなかった。しょせんはそれまでの男だ」
「おまえがすごいんだよ。赤津と戦って一回もタイトルを奪われなかったからな。おまえだけは別格だと思う」
「別格ねえ」
「おれも竜王戦は勝てないまでも、おまえになんとか食い下がるつもりだ」
黒柳はせせら笑った。
「そんな考えではおれに勝てっこないさ。相手をぶっ潰してでも勝つという気迫がなかったら、勝負には勝てない」
自分の致命的な欠点を黒柳に指摘されたような気がした。黒柳は勝利に対する執念、赤津は将棋内容に対する人並みはずれた執念があった。大橋には二人ほどの強い思いはないのかもしれない。それが大橋の棋士としての限界なのだろうか。
「まったく、赤津の馬鹿野郎が……」
黒柳はそう吐き捨てると、グラスの中のビールを一気に飲み干した。すぐにお代わりを頼み、グラスに口をつけた。黒柳は酒が好きだが、あまり強くない。みるみるうちに顔が赤くなった。
「いいか、大橋。おまえは勝負を甘く見てるんだ。おれに食い下がってみるだと? 笑わせるな。そんな考えのやつが、おれに勝てるわけねえよ。おれを殺してでもタイトルを奪い取るくらいの心構えがなくてどうする?」
「おまえ、今日は赤津みたいなことを言うじゃないか。将棋はゲームに過ぎない。いかに合理的な手を指せるかが勝負を分ける。いつもそう言っていただろう。相手を殺すだとか心構えだとか、おまえらしくないよ。どうしたんだ?」
黒柳は不快そうに鼻を鳴らした。
「ふん、なにが赤津だ。おまえはあいつを買いかぶってるけど、あいつはそんなに大層なもんじゃない。ただの将棋オタクだ。究極の棋譜だとか、魅せる将棋を指すだとか、くだらない夢をいつも語っていただろう。そのくせタイトルはひとつも取れなかった。挙句の果てには、だれにも惜しまれずに死んで、馬鹿みたいじゃないか」
「そんなことはない。あいつにはたくさんの将棋ファンがついてたよ。あいつの将棋はファンから最も支持されていたんだ」
「将棋ファンも、ときが経てば赤津のことなんて、思い出しもしなくなるに決まっている」
「だけどあいつはファンに赤津将棋の記憶を残した」
「そんなものすぐに忘れ去られる。重要なのは結果だ。結局あいつはおれからタイトルを奪えなかったじゃねえか。将棋オタクのくせに、まったくだらしねえよ」
「赤津はタイトルよりももっと高みを見てたんだよ」
「タイトルよりも高いものってなんだ? 勝負の世界は結果がすべてだ。おれに負け続けたあいつはしょせんは二流の棋士だ。棋譜を後世に残すだって? 面白すぎて臍で茶を沸かすぜ」
「おまえにはおまえの将棋、赤津には赤津の将棋があったんだよ」
「ふん、そんなものはないね。偉そうなことを言うなら、一度でもおれに勝ってみろって言うんだよ」
黒柳にしては珍しく乱れていた。取りとめもなく同じ言葉を繰り返し、大橋に絡んできた。
大橋は黒柳に対して怒る気にはなれなかった。赤津を徹底的にけなすことで、黒柳は赤津の死を悼んでいるように思えた。
赤津と黒柳、水と油のようでいて、どこか相通じるものがあるのかもしれない。
 
(続く)