●第三章

〔22〕

七月に決勝トーナメントの一回戦が始まり、大橋は順調に勝っていった。「宗歩」は使わなかった。使わなくても勝てる自信があった。
「宗歩」と対局を重ねたのがよかったのか、それとも大橋の将棋が確立されたのが好結果につながったのかはわからないが、「宗歩」を使用しなくても勝てるようになったのは嬉しいことだ。
「宗歩」との対戦成績の勝率は上がっていたが、「宗歩」にはまだ負け越している。もし黒柳や赤津が「宗歩」と対局したらどうなるのだろうといった純粋な興味も湧いていた。
大橋と赤津は決勝まで残り、九月初旬に挑戦者決定三番勝負を行う運びとなった。
勝った者が、竜王の黒柳に挑戦できるのだ。
九月二日が挑戦者決定戦の第一局の日だった。将棋会館の特別対局室で大橋と赤津は対局した。
赤津は早々と対局室に到着していて、上座に堂々と座っていた。
大橋が対局室に入ったとき、赤津がぎろりと目を剥き出した。大橋と視線がぶつかると、彼の眼差しはいっそう鋭さを増した。背中からは殺気じみた陽炎が立ち昇っているようだった。
赤津は珍しく草色の着物を着ていた。対局のとき赤津はよほどでないと着物を着ない。それだけ大橋との対局に気合いが入っているのだろう。大橋は気持ちを引き締めた。
大橋は一言も発さなかった。ひたすらこれから始まる勝負に備えて、闘志と集中力を高めていた。赤津もいつものようには軽口を叩かなかった。大橋を睨んだあとは、じっと瞑想していた。
振り駒の結果、大橋の先手で対局が始まった。
大橋は第一戦では「宗歩」を使うつもりはなかった。自分が以前から考えていた新手を指す予定だった。自分がどこまで赤津に通用するのか知りたかった。赤津と対局するのは研究会以来なのだ。
大橋が▲2六歩と飛車先の歩を突くと、赤津も△8四歩と同様に飛車先の歩を突いてきた。
赤津が対局中に盤面を見つめる眼光は、射るように鋭い。常人にない精気のようなものを発散し、周りをピリピリとした空気で包み込む。勝負師と呼ぶにふさわしい、まさに江戸時代の剣豪といった雰囲気を持っている。
赤津が指すときの駒の置きかたは独特だ。置くというより、駒を盤に叩きつけるのだ。勝負手の時には全体重を乗せて駒を叩きつけ、周りの駒を飛ばすこともしばしばあった。
駒を叩きつけると、相手の顔を見て「どうだ?」と言わんばかりの顔をする。その一連の動作が棋士仲間のあいだでは、はなはだ不評だった。挑発的だし、棋士としての品格がないというのだ。
しかし赤津は周囲の評判をいっこうに気にするふうでもなく、自分のスタイルを貫き通していた。
▲2五歩△8五歩▲7六歩△3二金▲7七角△3四歩のあとは、角交換をして、大橋の狙い通り角換わり戦になった。
大橋は▲3八銀と上がり、▲2六銀と繰り出して棒銀を挑んだ。これが兼ねてから考えていた作戦で、後手が上手に受ければ、難解な局面になる。しかし大橋は変化手順の途中で新手を準備していた。
赤津は大橋が銀を繰り出したのを見ると、一瞬意外そうな表情を浮かべたが、長考を始めた。しばらく考えたあと、手をしならせて、大橋が思ってもいなかった手を指した。
それはいかにも赤津らしい手だった。棒銀をただ受けるのではなくて、自分からも攻撃しようとする厳しい手でもあった。変化手順を考えるうちに、大橋はなかなか厄介な手を指されたことに気づき始めた。
これが赤津なのだ。定跡どおり進むのではなくて、常に相手の意表を衝く手を返してくる。赤津の指した手は、なぜその手にいままで気づかなかったのだろうと思わせるような手だ。「宗歩」も赤津の手には気づかなかったようで、研究段階では一度も指していない。
大橋は長考に入った。ここで応対を間違えると一気に敗勢になる。かなり重要な局面だった。
しばし考え、大橋は面白い手を思いついた。その手は赤津の狙いをかわしてしまおうとする手で、棒銀で銀を繰り出しておきながら、一貫性のない手のように見える。だが、その手は棒銀を殺すのではなく生かす唯一の手のように思えた。大橋は自分の読みを信じて駒を動かした。
赤津が目を見開くと、大きく息を吐いた。それから上目遣いに大橋の顔を見ると、目を輝かせた。にやりと笑ったように見えたかと思うと、赤津は逆襲の手を放った。
下手をすると繰り出した棒銀が捌けないばかりか、反撃をくらって、徹底的に潰されそうな危険性を秘めた手だ。大橋は慎重に指し手を進めた。
対局してつくづくわかったことだが、大橋がプロになって対局したどの棋士よりも赤津は強い。しかも、どの棋士よりも粘り強いと感じた。自分がこう指せば、相手がこう指す、といった読みは赤津にはまったく通用しない。
かといって、赤津はその手を読んでいないわけではない。第一に読んでいるのである。読んだ上で、相手の狙いをはずそうとするのだ。しかも相手の狙いをはずすばかりか、反撃の牙を持っている予想以上の手を指してくる。それが赤津のすごさだった。
大橋も知恵を振り絞って、裏の裏をかこうとした。ところが赤津はさらに読みを上回る手を指してくる。大橋はそれ以上の手を指さなければならない。
大橋は胸が躍るような気分になっていた。赤津の指し手はどれも鋭く、大橋が油断するとたちどころに潰されてしまう。だから大橋も頭を捻って鋭い手を考え、渾身の手を指す。
いわば気迫と気迫のぶつかり合いだ。相手の読みを上回るような手を考えるのが、この上なく楽しく感じられた。赤津の思いもよらぬような手を指してやる。大橋の頭の中はそれだけで占められていた。
中盤に差し掛かり、駒と駒がぶつかると、お互いの手はいっそう鋭さを増した。ちょっとした油断で、相手に首筋を食いちぎられるようなスリルのある局面が続いた。
そのとき赤津が迷った挙句少し緩い手を指した。いや、それは別段緩い手とは言えないかもしれない。しかし、厳しい手の応酬の中で、彼の指し手はやや甘く感じられた。
その手をとがめてやる。大橋は長考に入った。自分の直感が、赤津の手をぬるいと感じた。大橋は自分の感覚を信じることにした。考慮時間をすべて使い果たしてもいいくらいの覚悟で大橋は考え抜いた。
いろいろと読んでみたが、赤津の手をとがめられそうな手順はないように考えられた。なにかよい手段がありそうなのに、よくよく考えてみると、自分のほうが悪くなる変化しかないのだ。
これが赤津の戦術なのだろうか。一見緩い手を指しておいて、相手に考慮時間を使わせる。考慮時間を使わせて、精神的ダメージを与え、ミスを誘発する。もしそうだとしたら、大橋は見事に赤津の術中に嵌まったことになる。
徐々に大橋は恐ろしくなっていった。負けたらどうしよう。そうした考えがふと頭をよぎった。
盤面に集中しようと努力したが、自分への懐疑の気持ちは消えることはなく、みるみるうちに大橋の心を脅かし始めた。さきほどまでの積極的な気持ちは雲消霧散し、敗北への怯えが鎌首をもたげてきた。
敗北を考えたとき、大橋は目の前にいる赤津が怖くなった。まさか彼は大橋がもがく姿を見て楽しんでいるのではないだろうか。
優勢だ、不利だ、と心中で一喜一憂を繰り返して、精神的に疲労していただけに、負けたと思い始めたときの恐怖感が、津波のように大橋に襲い掛かった。いったん怖気づくと、手を指すのが怖くなり、対局場を逃げ出したくなった。
いくら考えても、好手は思いつかない。考慮時間はどんどんなくなっていく。手には嫌な汗がにじみ出ている。
負けたのではないか、と諦めかけたとき、妙手が思い浮かんだ。一見悪手のようだが、赤津の手を一気にとがめる筋があった。
深く読んでいる時間はない。大橋は大きく息を吐くと、盤上に駒を叩きつけた。
大橋が指したとたん、赤津は「あっ」と小さく叫び声を上げた。身を引くと、赤津は腕組みをして目を瞑った。
赤津は微動だにしなかった。一心不乱に指し手を考えているようだった。大橋は自分が指した手を何度も確認した。この手に対する赤津の応手が苦しい。直感的に思いついたとはいえ、赤津を窮地に追い込む会心の手になっている。
赤津はずっと目を瞑って考えていた。彼の考慮時間は次第になくなっていった。記録係の少年も赤津のほうを怪訝そうに見始めた。
赤津の考慮時間が残り一分を切ったとき、赤津はおもむろに目を開けた。悔しそうに盤面を見つめたあと、かすかな咳払いのような声で小さく呟いた。
「うまく指されてしまった……」
そう言うと駒台に手を置いた。
「投了だ」
大橋の全身の毛穴が脱力したように開き、体中の筋肉が弛緩した。それから心臓が激しく動悸を打ち始めた。大橋がぬるい手を指したら、ひとたまりもなく潰されたかと思うと、たまらなく恐ろしくなり、体が小刻みに震え始めた。
頭の中は空洞ができたようになにも考えられなかった。ただひたすらに恐怖感だけがぐるぐると駆け巡っていた。
「宗歩」との対局とはなにかが違っていた。「宗歩」はたしかに強い。しかし、強さの質が赤津とはまったく違う。赤津の強さは相手の力を引き出すような不思議な強さなのだ。
名局の代償として、命を削ったような疲労感と恐怖感が大橋を襲った。いつまで経っても大橋の震えは止まらない。自分が震えていることを、だれにも気づかれないように、大橋はしばらく黙っていた。
対局に勝ったあとでも、ふとした拍子にさきほどの恐怖が甦ってくる。勝利の喜びはあったが、そこまでの思いをして勝たなければならないのだろうか。勝負に勝つのはここまで苦しいものだろうか。
うつむいていた赤津が大橋のほうを向くと、嬉しそうに微笑んだ。
「一手前におれが指した手が緩手だったようだ。おまえには他に想定していた手があったのか?」
大橋はぼんやりとした頭を必死で回転させた。
「△4九銀の打ち込みがまだましだと思ったが、それもなかなか難しかっただろう」
「△4九銀はおれも考えたんだが、あまり面白くない変化だった。おまえの棒銀に対して、おれの手が指し過ぎだったのかもしれないな」
赤津は屈託なく笑った。
下から突き上げるように吐き気が襲ってきた。体中のものが重力に逆らって、すべて飛び出してしまうような感覚だった。
大橋は酸っぱい唾を何度も飲み込むと、やっとのことで声を絞り出した。
「でも、投了は早過ぎたんじゃないのか?」
「あれ以上指してもどうしようもないよ。ジリ貧になるだけだ。それじゃあ、単なるクソ粘りになる。おまえがあそこからミスするとは思えない」
「そうか……」
赤津は鋭い目で大橋の顔を見つめた。
「今日は上手く指された。でも、第二局は絶対に負けないからな」
その表情は獣が獲物を見つけたときのように獰猛だった。
大橋は感想戦後、将棋連盟のトイレでだれにも見つからないように、胃の中の物をすべて吐いた。

〔23〕

一週間後の第二局も熾烈を極めた。
前日大橋は赤津との対局を考えるたびに吐き気に襲われた。胃の中にはもうなにもないのに、食欲はまったくないままだった。食べようと思っても、食物を見ると吐きそうになり、結局なにも食べられなかった。
赤津の先手で始まったが、彼は▲2六歩と飛車先の歩を突いてきた。大橋も負けじと飛車先の歩を突き、大橋が予想していた通り、第一局と同じように角換わり戦になった。
赤津は棒銀ではなく、腰掛銀に戦型を持ってきた。角換わり腰掛銀はやや先手が指しやすいと言われているが、大橋は意地で受けて立った。
駒組みが飽和状態になったとき、赤津は果敢に仕掛けてきた。彼の仕掛けは従来のものとは違い、赤津のオリジナルだった。大橋は赤津の攻めを慎重に受けた。
角換わり戦は大橋の好きな戦法のひとつだったので、気分的には楽かと思ったのだが、赤津のすべてを押しつぶすような攻撃に大橋はたじろいだ。やはりそう簡単には勝たせてもらえない。
赤津は全身のエネルギーを大橋に向けているかのようだ。彼のパワーは駒を通して大橋の腹部にえぐりこむように突き刺さり、大橋は一手指すたびに眩暈がしそうなほどの精神力を費やした。
脳細胞だけではなく体全体で考えているような感覚の中で、瞑った瞼の裏ではめまぐるしく盤面が移り変わる。
大橋がこれ以上考えられないと思った手を指しても、赤津のほうでは、大橋の読みをはるかに上回る手を指してくる。それは赤津にしても同様だったろう。そうして指したほうがよく見える局面が繰り返された。
次第に呼吸は荒くなり、体がたぎるように熱くなってくる。一手一手に命を注ぎ込むような思いで、大橋は駒を叩きつけた。
好手を思いつき、これで参っただろうと思って手を指すと、赤津は想像だにしなかった手を指してくる。もう駄目だと思い、赤津のほうを見ると、彼も苦しそうな顔をしている。そこで萎えかけた気力を奮い立たせ、再び考える。その繰り返しだった。
やがて赤津に攻防の好手が出た。しまったと思ったときには、赤津の攻撃が雲霞のように襲い掛かってきた。身悶えするような後悔の中で、必死に最後のあがきをしたが、赤津の指し手は憎らしいほど正確だった。
何手かもがいたのち、大橋は駒台に手を置くと、あえぐように呟いた。
「負けました」
言った瞬間、大橋の視界が真っ黒に遮られた。五感のすべてが大橋の意思に背くようにストップした。
ずいぶんと長いあいだ放心していたような感覚だったが、ほんの数秒だろう。赤津が盤面に目を向けながら呆けた顔をして「ああ」と呟いた。
盤上の大橋玉は無残に仕留められていた。自玉の包囲に気づいたとき、大橋は初めて負けた事実を認識した。
勝負の緊張感が一気に緩み、腰が抜けたような感覚が大橋を襲った。疲労感がどっと押し寄せてきて、気を許すとその場に倒れこみそうだった。
「こ、この局面で……」
赤津が金魚のように口をぱくぱくと動かしながら、絞り出すような声を出した。
赤津の手は小刻みに震えていた。頬を紅潮させ、ひきつったような表情で盤面に目を向けている。しかしその表情は勝者だけが持つ充実感を伴っていた。
負けた。その単語だけが大橋の頭の中を駆け巡っていた。
敗北を実感したとき、大橋はもっと上手く指せなかったものだろうかと猛烈に後悔した。悔しさが加速した癌細胞のように全身に浸透してくる。大橋は歯が砕けるほど歯ぎしりした。
なぜ負けたのか、まったく敗因がわからなかった。後手で角換わり腰掛銀を受けたのがまずかったのか、それとも大橋が悪手を指したのか、かいもく見当がつかない。
後悔のあとは、鉛に覆い尽くされたような脱力感が、疲労困憊した体を責め立てた。
先日勝ったときには脱力感のほかに爽快感も多少混じっていたが、今日はひたすら虚しいだけだった。死力を尽くして戦った結果、なにも得るものがないということが、いかに辛いかを痛感した。
しばらくすると赤津は冷静さを取り戻したようだった。いつもの明るい顔で、「いい将棋だったな」と嬉しそうに微笑みかけた。彼の笑顔を見ながら、大橋は目の前の男に驚愕し、戦慄を覚え始めていた。
あれほど死力を尽くして戦い、対局直後に手を震わせていた男が、なんでもなかったように感想戦を始めた。それどころか、楽しくてたまらないといった表情さえしている。大橋は赤津の精神構造が信じられなかった。
感想戦で赤津がいろいろと喋っていたが、なにも頭には入ってこなかった。大橋は赤津の言葉にただ曖昧に頷くだけだった。虚無感がひっきりなしに大橋を襲っていた。
大橋の吐き気は止まらず、その日も我慢できずに将棋連盟のトイレで吐き続けた。

大橋がやっと自分を取り戻したのは、自宅に帰って部屋に入り、しばらく経ったあとのことだった。
冷静になった大橋は今日の勝負を思い起こして身震いした。赤津との勝負はすさまじいものだった。赤津には永久に勝てない。赤津を心底恐ろしいと思った。
赤津は勝負を楽しんでいるのだ。精神を極限まで追い詰めて、相手を叩きのめすことだけに集中する。知力の限りを尽くして、将棋を指すのが心から楽しいのだ。
そのために自分の身を犠牲にしても、いっこうに構わないのだろう。赤津は根っからの勝負師なのだ。
赤津は化け物だ。人の魂を食らって生きる魔物なのだ。勝負に命を賭けて、相手を叩き潰すことに無上の喜びを感じる。彼は将棋の鬼だ。
大橋は違う。ただの人間だ。ぎりぎりの勝負など、できればしたくない。負けてしまえば、自分の存在自体が否定されたような気になり、いたたまれなくなる。連敗すれば、自分の精神の平衡を保てるかどうかさえ自信がない。
今日のような勝負を続けていたら、命がいくらあっても足りない。赤津のような将棋の鬼を相手にしていたら、魂のすべてを吸い取られて、廃人になってしまうのではないだろうか。
赤津とは挑戦者決定戦第三局を一週間後に戦う予定になっている。大橋にはこれ以上赤津と将棋を指す気力は残っていなかった。
さんざん悩んだ挙句、大橋は「宗歩」を使って第三局に臨むことにした。

〔24〕

竜王戦挑戦者決定戦最終日。
情けないと自分でも思ったが、この日大橋は気が楽だった。今日は「宗歩」が自分の代わりに戦ってくれる。第一局、第二局のような思いをしなくてもいい。
「宗歩」は大橋よりもずっと強い。いくら赤津とはいえ、「宗歩」には苦戦するだろう。
対局は大橋の先手で始まり、「宗歩」は▲7六歩と角道を開けた。
赤津は一瞬怪訝な表情を浮かべた。今日も▲2六歩と飛車先の歩を突いてくると思っていたのだろう。いつもの大橋ならば意地でもそうするのだろうが、無論コンピュータはそういった事情は考慮しない。
赤津はあからさまに納得できないような表情で大橋を睨んだが、やがて盤面に目を落とし、指し手を進めていった。戦型は「宗歩」の振り飛車に、赤津の居飛車だった。「宗歩」は赤津の急戦を封じながら、じわじわと玉を固めていった。
「宗歩」が▲1八香と上がると、赤津が声を漏らした。「宗歩」は穴熊に囲おうとしている。「宗歩」は玉を固める機会があれば、攻めの機会があっても決して無理をせず、固い将棋を目指す。だから今日も穴熊を採用したのだろう。
赤津はものすごい形相で大橋を睨んでいたが、やがて鼻を鳴らすと、飛車を繰り出す一見意味がないような手を指した。
「宗歩」が銀で穴熊のハッチを閉めてほぼ万全の玉型になったとき、赤津が次々と歩を突き捨てて、猛然と攻撃を開始した。
赤津の攻撃は驚くほど厳しかった。駒損をしての攻撃なので無理筋かと思ったが、じわじわと大橋玉の周りにいる金銀をはがしにいく。細いが決して切れない、絡みつくような、実にいやらしい攻撃だった。
「宗歩」は赤津の攻めを上手に受けていた。しかし赤津の攻めは途切れず、細い攻めが徐々に太くなっていく。「宗歩」が悪手を指さないまま、次第に大橋の劣勢が明らかになっていった。
劣勢になっても、「宗歩」は赤津の攻めに対して、平凡な手で受けるだけだった。赤津の攻めはますます厳しくなっていった。なんの局面の打開もないまま、大橋玉は丸裸にされた。
赤津は持ち駒すべてを使い、大橋玉を詰ませにいった。王手王手と赤津が襲いかかる中で、大橋玉は哀れにも逃げ回るだけだった。
ほどなくして、大橋玉は完全に仕留められた。
「負けました」
大橋が駒台に手を置くと、赤津は突然立ち上がった。赤津は顔を背けると、特別対局室をあとにした。そのまま赤津は対局室には戻ってこなかった。
大橋は後悔に苛まれながら深くうなだれ、対局室にじっと座っていた。

夜になり、大橋は以前和泉に連れて行ってもらったスナック「千駄ヶ谷」で、ひとり酒を飲んでいた。
薄暗い店内には先客がいた。大橋を見て挨拶をしたので、奨励会員だろう。なにも話しかけてこないのは、たぶん今日大橋が赤津に負けたことを知っているからだろう。
第三局を落とし、大橋は黒柳竜王への挑戦権を失った。
こんなことなら第三局も大橋が指していればよかったとの思いが頭をよぎるが、大橋にはあれ以上自力で指すことができなかった。赤津相手に勝負をするのは並みの精神力では無理だ。
しかも「宗歩」は大橋よりずっと強い。「宗歩」でさえ、赤津には歯が立たなかったのだ。「宗歩」は普通に指して普通に負けた。「宗歩」が弱くなったのではないかと一瞬疑ったが、指し手を見た限りでは別段悪手を指していたわけではなかった。
つまり「宗歩」の手を凌駕するほど、赤津の手が鋭かったのだ。
だとしたら赤津は「宗歩」を序盤の構想力で圧倒し、攻め潰したことになる。赤津将棋は渡瀬の開発した「宗歩」よりずっと強かったのだ。
そのとき後ろで乱暴な声がした。
「おい、大橋」
振り返ると、赤津が立っていた。
赤津は初めて大橋と会ったときと同じ敵愾心たっぷりの目で、大橋を睨んでいた。頬を紅潮させ、いまにも怒り出しそうな表情だった。
大橋はばつの悪さを隠すように、さりげなく訊ねた。
「おまえ、今日対局が終わったら、感想戦もしないままだったろ。いきなりいなくなって、びっくりしたぞ。なにかあったのか?」
赤津が悔しそうに頬をゆがめた。
「あんな将棋に感想戦がいるのか?」
「あんな将棋とはなんだ。たしかに今日は一方的に攻め潰されたが、あれはおまえの攻めが鋭かったからだ。一局の将棋をそこまで言うことはないだろう」
「一局の将棋だと? あんなものは将棋じゃない」
赤津の声は大橋の内臓にえぐりこむように鋭く尖っていた。
「おまえは穴熊将棋を本当に嫌っているなあ。穴熊だって立派な戦法のひとつだろ」
赤津は大橋の隣に座ると、生ビールを注文した。
「ああ、穴熊は立派な戦法だ。おれは嫌いだがな」
「だったら、どうしてそこまで言うんだ?」
大橋の質問には答えず、赤津は逆に聞き返してきた。
「おまえ、なにをやったんだ?」
大橋の心臓がかすかな音を立てた。
「なにって……言ってる意味がわからないよ」
「今日の将棋だ。前回のおまえの将棋とはまったく違ってたぞ」
「なにが言いたいんだ?」
「今日の将棋、あれは本当におまえが指したのか?」
大橋はかわいた声で笑った。
「おれが指さなきゃだれが指すって言うんだよ?」
「今日の将棋はおまえのものじゃない。おまえはあんなつまらない将棋は指さない」
大橋は赤津の探るような視線に耐えきれずに顔を背けた。
「今日は勝とうと力んだあまり、慣れない穴熊を指して攻め潰されたんだ」
「慣れない? おまえ一時期はずっと穴熊を指していたじゃないか。なんで慣れないなんて言うんだ?」
赤津の指摘に内心たじろぎながら、大橋は必死でごまかした。
「最近おれは穴熊を指してないだろ。慣れないって言うのはそういう意味だよ」
赤津が鋭い目で大橋を見つめた。
「あの将棋はだれかが指したものじゃないのか?」
「あんな密室でどうやって指すんだよ? 第一おれがなんのために、そんなことをするんだ?」
赤津が押し黙った。それは言葉に詰まったというより、なにかを切り出しあぐねているような表情にも見えた。
大橋はわざと語気を荒げた。
「根拠のない因縁をつけるな。おれに勝って竜王の挑戦権を得て、それでもなにか不服があるのか?」
「大ありだ。せっかく歴史に残る名局が第三局のせいで台無しになったんだ」
「なにが歴史に残る名局だ。おまえは自分の実力を過信しているんじゃないのか」
赤津は驚いたようにまじまじと大橋の顔を見た。
「おまえは、おれたちが他の棋士たちよりはるかに高い次元で将棋を指したことを、わかってないのか?」
「そんなたいそうな考えはないよ。おまえに負けたくない一心で必死に指していただけだ」
「その必死さが、第一局、第二局の名局を生んだんじゃないか。それなのにおまえは第三局で、前の二つの局を汚した」
「汚しただと? その言い方はあんまりじゃないか」
赤津がゆっくりと首を振り、穏やかな口調で呟いた。
「第三局の将棋、あれはおまえの指し手じゃない。第一局、第二局と飛車先の歩を突いて角換わり戦になったときには、絶対に角換わりで勝敗を決してやる、といったおまえの気迫がひしひしと伝わってきた。でも、第三局、おまえの指し手にはなんの気迫も感じられなかった。明らかにおまえの将棋とは違っていた。それどころか、なんだか機械やコンピュータの類と指しているような感覚だった」
第一局、第二局は意地と意地のぶつかり合いだった。大橋も赤津の将棋に真っ向からぶつかっていった。だが、第三局は「宗歩」が指しているのだ。人間同士の意地などまったく関係ない。
「第三局では、勝ちを意識するあまり、つい慣れない手を指したと言っているじゃないか」
赤津が大橋から顔を背け、グラスの中のビールを一気にあおった。空のグラスを見つめ、悲しげに顔をゆがめた。
しばらくのあいだ、どろりとした深い沼のような沈黙が流れた。その沈黙は二度と這い上がれない底なし沼の泥のように大橋の体にまとわりついた。
やがて赤津がゆっくりと口を開いた。
「第一局、おれは怖くてたまらなかった。いくらいい手を指しても、おまえにもっといい手を指されるんだ。もしかしたら、おれはおまえに嬲られているだけなのかもしれないと思った。第一局、おれが早々と投了しただろう? 本当は怖かったんだ。これ以上粘っても、おまえにいたぶられるだけじゃないかと思ったら、恐ろしくなって投了していた」
赤津は空のグラスを見ながら続けた。
「第二局の前日は一睡もできなかった。おまえが心底恐ろしいと思った。第二局は仮病を使って不戦敗になろうと思ったくらいなんだ」
大橋は驚いて赤津を見つめた。
「でも、心の中でもうひとりのおれが言ったんだ。死力を尽くして負けたのなら、それはそれでいいじゃないか。それはおれが弱いのじゃなく、大橋が強いんだ、と。だから、おれは弱気になる自分を奮い立たせて、第二局を指したんだ。第二局はなんとか勝てたが、終盤のまぐれのような手のおかげだった。おまえにはもう勝てないかもしれないと初めて思った」
赤津も、大橋とまったく同じように、自分の力に絶望し、相手を恐れていたのだ。
「第三局は負けてもいいと思っていた。なぜならば、おれが初めて負けを認めた相手がおまえだったからだ。それでも対局場に来たのは、おれなりの最善手を指そうと思ったからだ。ところが、おまえの将棋は、前二局とは似ても似つかないものだった」
赤津が深く溜め息をついた。
「おれは、おまえもおれと同じように考えているものだと思っていた。たとえ立ち直れないほど叩きのめされても、全力で最高の棋譜を残す。それがプロの棋士だとな」
大橋の言葉を待たず、赤津は立ち上がり、自嘲の笑みを浮かべた。
「人にはそれぞれの考え方がある。おれとおまえの考え方が根本的に違うのも、仕方がないんだろう。黒柳やおまえのほうが正しくて、おれが間違っているのかもしれないしな。いろいろと文句を言って悪かったな」
赤津はそれだけ言い残すと、悲しそうな表情で大橋の肩に手をかけた。それから身を翻すと、「千駄ヶ谷」を出ていった。
赤津の寂しげな、それでいてやりきれないような後ろ姿が、いつまでも大橋の脳裏に焼きついていた。

(続く)