〔19〕

「珍しいな、宗坊がひとりで来るなんて」
師匠の平畑は驚きの表情を見せながらも、優しげに微笑んだ。
その日の午後、大橋は平畑の自宅を訪問していた。新四段になった報告以来だ。平畑の自宅は大橋の自宅とはさほど離れておらず、電車に乗って一駅目のところにある。
大橋が千駄ヶ谷駅の団子店「ぎょくや」の駒団子を差し出すと、平畑は目を細めた。
「ほうほう」
平畑は「ぎょくや」の駒団子に目がなく、千駄ヶ谷の将棋会館に行ったときはいつもこの和菓子を買っていた。
平畑はいつもより元気がよかった。
「上がって縁側で待ってろ。いま茶を煎れてくる」
大橋が恐縮すると、平畑はにこにこと笑った。
「本当のところは私がお茶を飲みたいんだよ」
平畑は早くに奥さんを亡くして、いまは年老いた猫と暮らしている。平畑の家には日の当たる縁側があり、小さなころはそこでよく将棋を指してもらった。
大橋が縁側に立って夏椿の白い花とギボウシの瑞々しい緑に彩られた庭を眺めながら待っていると、平畑と一緒に暮らしている猫が近づいてきて、大橋に向かって小さく鳴いた。この猫は大橋を覚えていて、久しぶりに来ても愛想がよい。
この猫は大橋が小学生のときからいた。白と黒のまだら模様の猫で、昔は毛がふさふさしていたが、最近では歳のせいか、毛並みが悪くなっている。名前はゴローといった。
「よしよし」
大橋が顎のあたりを撫でてやると、ゴローは気持ちよさそうに目を細めて、ゴロゴロと音を鳴らした。ゴロゴロと喉を鳴らすので、ゴローと命名したと師匠が言っていたことを大橋は思い出した。
「おお、ゴローは宗坊を覚えているか」
平畑が盆の上に湯飲みを二つ載せて歩いてくると、上機嫌で言った。
「ところで、今日はなんの用なんだ?」
平畑は突然の大橋の来訪に、なにかがあるとわかっているようだった。
大橋は単刀直入に切り出した。
「実は昨日進藤君に聞いたんですが、渡瀬重太郎という人について、師匠にちょっとお伺いしたいんです」
進藤は内緒だと言ったが、この際進藤を気遣っている余裕はなかった。しかも進藤はさほど口が固いほうではない。平畑もそのことは承知していただろう。
平畑は顔をしかめた。
「なんだ、進藤のやつ、黙っていろと言ったのに、相変わらず口の軽いやつめ」
「すみません先生。進藤は絶対に内緒にしてくれと言ったんですが、私のほうでも、無敵の真剣師渡瀬重太郎の話を小耳にはさんだことがありまして、彼はどうしてプロにならなかったのかと、ずっと心の奥に引っかかっていたんです」
平畑の右頬が不自然に動いた。
「宗坊は進藤以外の人間に渡瀬重太郎の噂を聞いたことがあるのか?」
心なしか平畑の表情が険しくなったように、大橋には感じられた。
「塚本八段との将棋の話は知りません。でも、渡瀬重太郎といえば、うちの将棋道場でも噂になるくらいの、有名な真剣師でした。なぜプロ棋士になれなかったのかなあと疑問に思っただけなんです」
平畑は大橋の顔を見つめていたが、ほどなくして大きく溜め息をついた。
「私が黙っていても、あの話はいずれだれかの口から漏れるものなんだろうな。隠そうとしても隠しきれる話じゃないんだろう」
やがて平畑は諦めたように息を吐き、ぽつりぽつりと当時のことを話し始めた。

いまから四十年ほど前、平畑は真剣師の渡瀬重太郎と知人の紹介で出会った。
渡瀬と初めて会ったときのことを平畑はいまでも覚えている。
「彼が先生と真剣をやりたいって言ってるんです」
知り合いの男からの申し出に平畑は驚いた。当時すでにA級八段だった自分に真剣を挑むなど無謀と思ったからだ。
「いいですよ。手合いはどうしましょうか?」
さりげない調子で訊ねながら、平畑は真剣をしたいと申し込んでいる男を窺い見た。
男は知人の斜め後ろに、ややうつむき加減に立っていた。三十代前半であろうか。表情はよく見えなかったが、たたずまい全体から伝わってくる雰囲気にはただならないものを感じた。
男は顔を上げると、平畑の顔を真っ直ぐに見た。やや落ち窪んではいたが、鋭い目は勝負師独特の光を放っていた。
「三香角でお願いします」
平畑は思わず問い返した。
「三香角ですか……?」
三香角とは、香車落ちを三番、角落ちを一番する意味で、四番一組の勝負のことだ。プロ棋士の平畑にそのハンデで挑んでも、並大抵の実力では勝てない。
平畑とて裏街道を知らないわけではなかったので、彼の無謀さに苦笑しながら、さっそく早指しを始めた。
ところが指してみて、平畑は感嘆した。序盤は下手だったが、中終盤が恐ろしく強い。角落ちは問題外で、香落ちまで負けるのだ。そこで初めて平畑はこの男の名前を聞いた。
「失礼ですが、お名前はなんと言うんですか?」
「渡瀬重太郎と言います」
渡瀬重太郎といえば、「福岡の龍」の呼び名で、当時日本中で知れ渡っていた真剣師だった。
「それならば、手合い違いですよ」
平畑が根を上げると、渡瀬は微笑した。
「じゃあ、香車ゾッキで」
常に平畑の香車落ちで指すという意味だ。
駒を並べると、平畑は気を引き締めて真剣に指し始めた。本気を出した平畑は互角の戦いをしたが、渡瀬の実力に舌を巻いた。徹夜で対局して、外が明るくなったときには渡瀬が一番勝ち越していた。
「棋士になったらどうですか?」
平畑に定香で勝ち越すのならば、棋士になっても十分に通用する。
「真剣師のほうがよっぽど稼げますから」
渡瀬は笑いながらそう言った。
平畑はそのとき、いつか渡瀬重太郎は将棋界の表舞台に立つことになるのではないだろうかという予感がした。
それから約十年が経った。
突然渡瀬が平畑宅を訪れ、プロ棋士になれないかと打診してきたのだ。聞くところによれば、渡瀬の名前は全国で広がりすぎて、だれも渡瀬と真剣を指してくれなくなったらしい。
平畑はとりあえず渡瀬と将棋を指してみた。長年自分より弱い人間とばかり指していたので、将棋の腕が衰えているだろうと思ったからだ。
ところが序盤の駒組みで、平畑は自分の考えがまったくの誤りであることを悟った。渡瀬の序盤は十年前とは比べ物にならないほど優れていた。しかも序盤の構想自体が普通の棋士とは違う、斬新な手の連続だった。
しばらく駒組みを続けて、平畑は自分の劣勢をはっきりと悟っていた。プロがアマチュアに負けてはプロの沽券に関わる。なんとか逆転しようともがいたが渡瀬の指し手は次第に厳しくなっていった。
渡瀬の猛攻に自玉を支えきれなかった。ほどなくして平畑は投了した。
平畑は自分が負けた事実をまだ信じられずに盤上の駒を茫然と眺めていた。
「まだまだ力不足でしょうか?」
渡瀬が不安そうに訊ねた。彼はわざと平畑が負けてくれたと思っていたようだった。
「とんでもない。あなたなら名人にさえ勝てる実力を持っていますよ」
もとより渡瀬の才能を買っていた平畑は渡瀬の秘めた才能が開花したことを感じ取っていた。渡瀬はプロの平畑と将棋を指し、序盤の力不足に気づき、この十年のあいだ序盤研究を重ねたのだろう。渡瀬ならば実力的にはプロになっても、なんの問題もない。
渡瀬は不安そうな面持ちで訊ねた。
「それでは私をプロ棋士として推薦してもらえるでしょうか?」
平畑は渡瀬の申し出を二つ返事で引き受けた。
渡瀬が将棋連盟に報告すると、理事たちは露骨に嫌な顔をした。無理もなかった。渡瀬は真剣師で食いはぐれて、各地で詐欺まがいの事件を起こしていたからだ。当時渡瀬の悪名は全国に轟いていて、将棋は強いが人格的には最低と言われていたのだ。
それでも全国のアマチュアには渡瀬ファンが多く、将棋連盟も渡瀬を完全に無視することはできなかった。当時の川上伊織名人は「それならば若手のプロと対局させてはどうか?」と提案した。
つまり若手のプロと対局させて、渡瀬を負かして、負けたことを原因にプロへの道を断念させようとしたのだ。他の棋士たちは渡瀬に関しては、強い真剣師程度の認識しか持っていなかった。もちろん平畑が対局して負けたことまでは知らない。
幹部連中は川上名人の提案に賛成した。よもや単なる真剣師の渡瀬が、新進気鋭の若手プロに勝てるとは思ってもみなかったのだろう。
ほどなくして棋士総会が開かれ、川上名人の提案は受け入れられた。理事たちの中には、これで胡散臭い真剣師の渡瀬のプロ入りを断念させることができた、といって早々と喜んでいる者もいた。
平畑も快く将棋連盟の提案を受け入れた。平畑だけは渡瀬のプロ入りを確信していた。彼の見たところ、渡瀬の実力は川上名人にも匹敵すると思われた。A級八段の平畑でさえ渡瀬に翻弄されたのだ。若手の棋士では渡瀬に勝てるはずがない。
平畑は渡瀬に顔が立って安堵したと同時に、胸躍るような気分になっていた。次にプロ棋戦で対局したときには、必ず借りを返してやる。平畑はひとり密かに打倒渡瀬の闘志を燃やした。
平畑は渡瀬を推薦する数少ない棋士のひとりだった。渡瀬がプロに入ることによって、棋界に新風が吹き荒れれば、将棋界のためにもよいことだと考えていた。
連盟のほうでは、渡瀬と対戦する棋士の選定に悩んでいたようだった。万が一にでも渡瀬に負けたら、それを理由にプロ棋士にさせざるをえなかったからだ。
侃々諤々の意見が飛び交った結果、当時まだ若手だった塚本六段が渡瀬の対戦相手に選ばれた。将来の名人候補とも呼ばれた塚本を引っ張り出すことには反対の声もあったが、万全を期したほうがよいと川上名人が主張したためだった。
もとより渡瀬の対戦相手に名乗りを上げていた塚本六段だったので、一も二もなくその決定に従った。
一週間後、将棋会館で渡瀬と塚本六段の対局が秘密裏に行われた。
振り駒の結果、渡瀬の先手で対局が始まった。戦型は塚本の▲4四歩から振り飛車になった。
平畑の予想した通り、渡瀬の序盤の構想は素晴らしかった。その当時まったく指されていなかった穴熊で玉を固めた。
手数を重ねるごとに、渡瀬のほうが徐々に指しやすくなっていった。別段塚本六段が悪手を指したわけではないのに、徐々に塚本六段の表情が厳しくなっていく。
塚本六段は当時序盤にかけては定評があり、彼が序盤で不利になることはめったになかった。その序盤巧者の塚本が序盤で押されていたのだ。渡瀬の指し手には隙がまったくなく、あたかも名人クラスの棋士が塚本六段と対局しているようだった。
川上名人は二日後に地方で行われる名人戦のため、連盟を留守にしていたので、他の理事たちは浮き足立った。このままでは渡瀬が勝ってしまうと思ったからだ。
理事たちが連盟の一室に固まってこそこそしていたのを、平畑は知っていた。だが、眼前の渡瀬の指し手に魅了されていて、理事たちがなにをしているのかを知ろうともしなかった。
以前対局したとき渡瀬の指し手には、真剣師の匂いが抜け切らず、どことなくいじけたような手を指していた。ところが、今日の渡瀬の指し手は、真剣師独特の薄汚さを微塵も感じさせなかった。渡瀬の手は澱むどころか、白河の清流のように澄み切っていた。
そのうちに塚本六段が席を立つ回数が増えた。しかも局面が難解になったときに必ず席を立つのである。将棋連盟の期待を背負った重圧に耐えかねたのだろうと平畑は思った。
しばらく指し手が進み、渡瀬の優勢は明らかになっていた。徐々に塚本陣を圧迫し、エネルギーが最高潮に達したところで、渡瀬は猛然と攻撃してきた。
塚本陣は崩れたが、塚本にしては粘り強い手を指して渡瀬には決定打を許さなかった。いつもは終盤に淡白な塚本の粘りに、平畑は内心舌を巻いていた。同時に、連盟の期待を一身に背負った塚本への同情を禁じえなかった。
将棋が終盤に差し掛かったとき、トイレに長時間行っていた塚本が帰ってきて、ぼんやりとした手を指した。その手は一見悪手に見えた。
最初平畑は、とうとう塚本が我慢できずに悪手を指したかと思った。が、手を読むうちに、その手は恐ろしい狙いを秘めている手だとわかってきた。
平畑が塚本の狙いに気づいたときには、渡瀬は次の手を指していた。彼の手は一見当然のように思われて、塚本の術中に嵌まる手だった。塚本は渡瀬の手をとがめ、反撃を開始した。
みるみるうちに局面は互角になり、どちらがよいのか、平畑にもわからなくなった。指したほうがよく見えるといった戦況だった。局面を振り出しに戻された形にはなったが、渡瀬は崩れることもなく冷静に指していた。
終盤になり、渡瀬が好手を放った。塚本玉に必至をかけたのだ。次に塚本がどう逃げても詰まされてしまう局面だった。次の手で、塚本は渡瀬を即詰みに討ち取るしかなかった。
平畑の見たところ、詰ますには駒がひとつ足りないような気がした。塚本は最期の考慮時間を使って、再びトイレに立った。
制限時間ぎりぎりで席に戻ってきた塚本は、角を9九の地点に打ち込み、渡瀬に王手をかけた。その手を見た瞬間、平畑は、あっ、と声を漏らしそうになった。
絶妙な手だった。まさに鬼手といえる駒のただ捨てだった。その角を取ることにより、渡瀬玉が一気に危険になる。まさに起死回生の一手だった。
次第に渡瀬の顔がこわばっていった。自玉に迫った危険に気づいたのだろう。渡瀬は額から流れ出る汗を拭おうともしなかった。
渡瀬は角を取らずに、玉を上方に逃がした。角を取ればすぐに詰んでしまうからだ。塚本はかさにかかったように、渡瀬玉に王手をかけていった。
渡瀬は必死の形相で、玉を上部に逃げていった。渡瀬の道は上部脱出からの入玉しかない。塚本は攻撃の手を緩めない。王手王手と渡瀬玉を追い込んでいった。
渡瀬の断末魔のあがきも甲斐なく、渡瀬玉は入玉寸前で詰まされた。素晴らしい二十九手詰めだった。
渡瀬はしばらく放心したように宙を眺めていたが、突然目をくわっと開くと、塚本を睨んだ。
「△9九角はおまえが指した手じゃないだろう?」
彼の言葉で、初めて平畑もはっと気づいた。
終盤になってから、平畑は塚本の粘り強い手に、専門棋士としてのプライドを垣間見たような気がしていた。しかしあれが塚本の手ではなく、他の棋士たちが共同で考えた指し手だったとしたら……。
渡瀬玉を即詰みに討ち取った手。あの手は名人クラスでも難しい鬼手だ。
塚本六段は別室で研究している棋士たちが共同研究した手を指していたのではないか。指し手の鋭さから見て、あるいは川上名人も電話で共同研究に参加しているのかもしれない。
渡瀬の指摘にも塚本六段は顔面蒼白のまま一言も発さなかった。その表情は渡瀬の言葉を肯定しているかのようだった。
やがて連盟の理事たちが、対局室に入ってきて渡瀬に告知した。
「塚本六段に勝てばプロ入りを検討するという話でしたが、負けたのでは仕方がありません。プロ入りの話はなかったということで……」
なにを言っても無駄だと悟っていたのだろう。渡瀬はいっさい抗議をしなかった。
平畑が声をかけようとしたとき、渡瀬は憔悴しきった顔でゆらゆらと立ち上がり、平畑に一礼をした。いっさいの言葉を拒絶するように、渡瀬の唇は固く結ばれていた。そのまま渡瀬は対局室から姿を消した。
数年後、渡瀬が焼身自殺をしたという噂が将棋界を駆け巡った。借金が膨れ上がり返せなくなったと考えた渡瀬が、保険金目当てに自殺したのではないだろうか、と噂された。
あのときプロ入りしていれば、渡瀬の人生は異なったものになっていただろう。
以来、連盟理事たちはだれも渡瀬の一件に関しては語ろうとはしなかった。渡瀬については口をつぐむといった暗黙の了解が、連盟内にあったのかもしれない。
あのとき本当に共同研究が行われていたかどうかを聞けないうちに、塚本はA級在籍のまま病気で亡くなった。
それが渡瀬重太郎の呪いだと噂されたのは言うまでもない。
当時の名人の川上は十年前に亡くなり、理事だった棋士たちもすでに亡くなっているか引退しているかだ。
そして当時の事件のことを詳しく知っている棋士は、平畑ひとりになった。

「亡くなった塚本八段が共同研究した手を指していたかどうかは、結局わからずじまいだった」
平畑は苦悩に満ちた表情でそう呟いた。
「渡瀬重太郎は、天野宗歩の弟子、渡瀬荘次郎に関係ある人だったんですか?」
「さあ、私にはわからない。だが、本人がそう言っていたのなら、本当に渡瀬荘次郎の血を引いていたのではないだろうか。渡瀬は金銭にルーズだったが、そんなことで嘘をつくような性格ではなかったはずだ」
「渡瀬重太郎には子供がいたんですか?」
平畑は怪訝な顔をした。
「なんで宗坊がそんなことを気にするんだ?」
「深い意味はないんです。ただ、渡瀬重太郎の子供さんがいて、現在生きていたら、もっと詳しい話が聞けるんじゃないかなあと思っただけです」
平畑は腕組みをすると首を傾けた。
「そういえば、おとなしそうな奥さんが将棋連盟に応援に来ていたなあ。そのとき奥さんのお腹が大きかったことを覚えている。何事もなければそのときの子供は、三十歳くらいにはなっているはずだ」
大橋は浮き足立つような鼓動を感じていた。その男は渡瀬龍一ではないだろうか。
「その子はいまどうしているかわかりますか?」
平畑は首を横に振った。
「そこまではわからんよ。勝負のあと、渡瀬重太郎は私の前に姿を現さなかった。あのときの渡瀬の口ぶりは、明らかに塚本八段の共同研究を疑っているようだった。ひどいことをして将棋連盟を追い出したような形になったので、きっと私のことも恨みに思っているに違いない」
大橋は平畑の顔を見つめた。
「先生は本当に共同研究が行われたと思いますか?」
平畑はなにも答えず、ただ目を閉じて黙っていた。ただぽつりと思い出すように言った。
「それにしても渡瀬対塚本の対局はいまから考えても、信じられないような鬼手が飛び交う名局だった。あの棋譜を公にできないのはなんとも残念なことだ」
「先生は当時の棋譜を覚えていますか?」
「ああ、あまりにすごい手の応酬だったので、よく覚えている。たしか紙に書き留めているはずだ」
平畑はのっそりと立ち上がると、部屋の奥のほうに歩いていった。
しばらくして戻ってきた平畑は黄色く変色した紙片を大橋に差し出した。
「これがそのときの棋譜だ」
大橋は棋譜にざっと目を通すと、平畑を見上げた。
「この棋譜をお借りしていいですか? 無論だれにも公表しません」
「ああ、二人の真剣勝負の棋譜は並べるだけでかなり役に立つ。持ち帰って、並べてみなさい」
大橋は平畑に何度も礼を言うと、師匠の家を辞した。
帰りの電車で棋譜を見てみた。たしかに平畑の言う通り、素晴らしい将棋だった。特に渡瀬の駒組みは、斬新かつ大胆なものだった。その時代、プロ棋士のあいだで穴熊囲いはまったく指されておらず、当時の棋士には珍妙な駒組みに見えたかもしれない。現代将棋を熟知している大橋ですら、あたかも現代の穴熊戦法の新手を見ているような錯覚を起こす。
駒がぶつかってからも、お互い好手の応酬だった。しかも塚本八段が信じられないほど、終盤の粘り腰を見せている。
渡瀬玉を即詰みに討ち取った△9九角の鬼手に関しては、まさに圧巻だった。黒柳や赤津でさえ、気づくかどうかは、そのときの指運ではないだろうか。あれほどの鬼手を勝負中に指したのならば、共同研究を疑われても仕方がないだろう。
あの対局がプロの共同研究によるものだとしたら、大勢のプロ相手に、渡瀬重太郎はたったひとりで立ち向かったということになる。負けたとはいえ、実力差はほとんど感じられず、勝敗は時の運だろう。渡瀬重太郎がプロ入りしていたとしたら、平畑の言う通り、当時の棋界勢力図は大きく塗り替えられたかもしれない。
大橋が子供のころ、大橋将棋クラブに出入りしていた年配の真剣師が、渡瀬重太郎の悪口を言っていた。将棋は強いが、実生活のほうは破滅型の人間で、あちこちに借金を作っていたらしい。その真剣師も以前渡瀬重太郎に騙されたと憤慨していた。
そのとき真剣師は「福岡の龍」と通り名で呼んでいたので、だれのことかはわからなかったが、いまにして思えば、それが真剣師渡瀬重太郎に違いない。
渡瀬重太郎が自身の素行の悪さで、プロ入りの道を断たれたのは、ある意味仕方がないことなのかもしれない。
しかし、共同研究で負かされ、将棋界を追い出されたとしたら、渡瀬重太郎の胸中は如何ばかりのものであっただろう。
真剣師時代の渡瀬重太郎は「福岡の龍」と呼ばれていた。その呼び名から一字取って息子に「龍一」と名づけていたと考えると辻褄が合う。
渡瀬重太郎の出身は呼び名どおり、福岡だろう。だとすれば、福岡に行けば、渡瀬重太郎の足取りを追えるかもしれない。
将棋家に不満を持っていた天野宗歩の没後、弟子の渡瀬荘次郎が消息を絶ち、子孫の渡瀬重太郎が当時の将棋連盟の陰謀でプロになれず、身重の妻と共に消息を絶った。
因縁めいたものを感じた。渡瀬龍一が重太郎の息子だとしたら、今回のプログラムソフト「宗歩」は棋界への挑戦状とも言える。
ところが渡瀬龍一は何者かの手により殺された。将棋連盟にゆかりのある人物の犯行とも考えられないだろうか。

 (続く)