〔17〕

事件から約一ヶ月が経った。
渡瀬龍一が殺された事件はいまだに解決されていないようだった。
大橋はあれから新聞の三面記事は必ずチェックするようにしていた。一度マイナーな週刊誌で、渡瀬の殺人事件のことが取り上げられていた。「IT企業家、オフィスで毒殺の謎」という見出しで、渡瀬の殺人事件について詳しい内容が載っていた。
玲子については、週刊誌にはなにも書かれていなかった。玲子の存在についても、記事からはまったく読み取れない。
渡瀬は会社で働かせている玲子が妹であることを、だれにも喋っていないはずだ。渡瀬の仕事柄、会社を訪れる人間はあまりいないだろう。現に彼の死体もたまたまセールスマンが見つけたと新聞に書いてあった。
大橋の存在はいまのところ気づかれていないようだ。渡瀬が大橋のことをだれにも漏らさなかったのは本当なのだろう。玲子も大橋のことをだれにも喋っていないのではないだろうか。いや、それは楽観的過ぎるだろうか。
ふと大橋は渡瀬のプロフィールに目を止めた。
渡瀬はT大学の博士課程を卒業したあとで、講師として大学に留まった。人工知能の論文で海外からも評価され、その後、破格の待遇で民間企業に招聘されている。
それがヘヴンフィールドを設立する前に渡瀬が勤めていた会社で、名前も記載されていた。「アルゴリズム技研」という会社だ。渡瀬はそこで新技術を確立して、ヘヴンフィールドを設立したのではないだろうか。アルゴリズム技研時代の渡瀬を調べれば、もっと詳しくわかるかもしれない。
ただ、大橋が渡瀬を調べていることは周囲に悟られないほうがよい。いまだに大橋が警察に事情聴取を受けないのは、玲子は大橋と渡瀬との関係を単なる将棋ソフトの協力者としか思っていないからだろう。その大橋が死んだ渡瀬のことを調べていると警察に知られたら、藪蛇になってしまう。
どうすれば警察に感づかれないように調査できるかと思案した結果、大橋は変装して偽名を名乗ることにした。眼鏡をかけて帽子を深くかぶれば、たとえ将棋ファンだとしても大橋だとは気づかないだろう。渡瀬の学生時代の同級生になりすますのが、一番よい。学生時代の友人であれば、アルゴリズム技研の社員たちも大橋に同情していろいろと喋ってくれるはずだ。
渡瀬は「宗歩」を開発するために、アルゴリズム技研から技術を盗んだと言っていた。そうして「宗歩」が完成すると、大橋に使わせた。渡瀬は究極の棋譜を作る以外にも、なにか目的があったのではないだろうか。彼が単純な興味だけで、そこまでのリスクを冒して、将棋ソフト「宗歩」を開発したとはどうしても思えないのだ。
「宗歩」のアルゴリズムが優れているため、どこかのソフトウェア会社に、渡瀬の開発した「宗歩」が盗まれようとした、という可能性も考えられる。もちろんアルゴリズム技研とのトラブルで、渡瀬が殺された可能性もある。
そう考えてみると、以前渡瀬の会社を訪問したとき、だれかにあとをつけられているような気がした。あれは本当にだれかが大橋のあとをつけていたとも考えられる。
もしそうだとしたら、大橋はすでに渡瀬の事件と深く関わっているかもしれないのだ。

当日、大橋は公園のトイレで眼鏡をかけ、帽子をかぶった。鏡でまったくの別人に見えるのを確認したあと、アルゴリズム技研を目指した。パソコンを使って架空の社名と偽名の名刺まで作っていた。
アルゴリズム技研はS駅周辺にあり、電車で三十分とかからない場所にある。
S駅で降りると、大橋は地図を頼りにアルゴリズム技研を目指した。二十階ほどある大きなビルで、アルゴリズム技研は十四階と十五階のフロアを占めていた。十五階が技術者のフロアのようだった。
ビルに入ると正面にレストランがある。一階のフロアのいたるところに観葉植物が置いてあり、明るい感じがする。幸いセキュリティーは厳しくないようで、そのまま中に入ってエレベータに乗り込めるようだ。
大橋がエントランス内で電話をかける振りをしながらビルの様子を窺っていると、二人の男がエレベーターから降りてきた。ひとりはGパンに白いTシャツを着た若い男で、もうひとりは背広姿の中年の男だった。
二人はエレベーターを出ると脇でいろいろと喋っていた。耳をそばだてると、二人の会話に「アルゴリズム技研」の単語があった。大橋はエレベーターには乗らずに男たちの会話に耳を傾けた。
二人の男たちは仕事の話をしているようだった。背広姿の男の腰が低いのと、「納期」や「外注」の言葉が聞こえるので、若い男がアルゴリズム技研の社員ではないだろうか。
しばらくして、サラリーマン風の背広を着た男は、Gパンの男性にぺこぺこと頭を下げると、去っていった。
Gパンの男はそのままエレベーターには乗らずに、ロビーのソファに向かった。ズボンのポケットから煙草を取り出し、ソファに座って煙草に火をつけた。
大橋は改めて、Gパンの男を横目で盗み見た。歳は大橋と同じくらいであろうか。やや長めの髪型に切れ長の目と高い鼻が印象的だった。Tシャツから覗かせる腕は程よく鍛えられていて、肩幅も広く筋肉質だ。
コンピュータ業界に携わるオタクのような雰囲気は微塵もなく、堂々とした態度はなにかの一流スポーツ選手のようで、大橋には眩しく感じられた。
声をかけるきっかけが難しい。大橋は待ち合わせをしているようにエレベーターの脇に立ち、男の様子を横目で観察した。
男はしばらく煙草をくゆらせていたが、ほどなくして立ち上がると、エレベーターのほうに向かってきた。大橋はあわてて顔を背けると、男がエレベーターに乗るのをやり過ごそうとした。
ところが男はエレベーターには向かわずに、大橋のところへやってきた。
「僕に用事があるんでしょ?」
いきなり声をかけられ、大橋は言葉に詰まった。
「さっきから僕を見ていたのはわかってたんですよ。なにかご用ですか?」
男は大橋に人懐っこそうな笑顔を見せた。よく響くバリトンの声だった。
大橋は平静を装うと、眼鏡のフレームを触りながら訊ねた。
「あの……アルゴリズム技研の方ですよね?」
男は軽く眉を上げると、裏返った高い声で訊ねた。
「あれ? 僕に用事があるんじゃなかったんですか?」
「ええ、実は渡瀬龍一さんについてお訊ねしたくて……」
男は眉をひそめて軽く身を引いた。
「もしかしてマスコミ関係の人ですか?」
「いえっ、実は彼とは学生時代の同級生で松本といいます。殺されたと新聞で読んで、驚いて御社を訪ねたんです」
松本というのは偽名だ。ありふれてなく、さほど珍しくもない名字を使ったほうがいいと思い、あらかじめ考えておいた名だ。
大橋はそそくさと胸ポケットから印刷していた名刺を取り出すと、男に渡した。プリンタで印字した名刺なので、本物に比べ若干貧弱だったが、それでもないよりはましだろう。
男は鋭い目で大橋と名刺を交互に見ていたが、やがて目尻に皺を作って笑った。
「そうですね。あなたはどう見てもマスコミ関係者じゃないようだ。マスコミ関係者はもっと図々しいですからね。僕は小嶺といいます」
男はあたりを見回して、ロビーのソファを指差した。
「立ち話もなんですから、あそこに座って話しませんか。実は僕もいまちょっと退屈していたところだったんですよ」
渡瀬の名前を口にしたときから、小嶺の目には好奇の色が宿っていた。なによりも口が軽そうな男だ。大橋がしきりに恐縮したのも、小嶺を油断させているようだ。
ソファに勢いよく座ると、小嶺は切り出した。
「渡瀬は学生時代から変わり者だったんですか?」
軽く先制ジャブを食らったような感じだったが、彼の言葉からも、渡瀬がアルゴリズム技研でも偏屈だったことが窺える。
大橋が曖昧に頷くと、小嶺は再びポケットから煙草を取り出して、火をつけた。煙草をまずそうに吸うと、彼は小刻みに何度も頷いた。
「やはりそうでしょうね。彼はちょっと変わっていましたからね」
小嶺は「ちょっと」のところに力を込めて言った。
「なにかあったのですか?」
「なにかあったと言えば、いつもなにかあったし、なにもないと言えば、なにもなかったですけどね。とにかく変わり者で、だれひとりとして彼と親しい人間はいませんでした。特に女性社員からはありえないくらい嫌われてましたね」
「なぜでしょうか?」
「おや? 彼も学生時代はまだましだったんですか? 同級生だったあなたには少々失礼ですが、彼は滅茶苦茶浮いた存在でしたよ。有能な人間でしたけど、人を小馬鹿にする癖がありましてね。コンピュータに詳しくない人間のことを、あたかも劣った人間のように扱うんですよ。ですから社内の人間はみな彼を嫌ってましたね」
大橋がかすかに頷くと、小嶺はにやりと笑った。
「やっぱり彼は学生時代からあんな性格でしたか? プログラミングだけは優れていたんで、惜しいもんだと上司とはよく話していたんです。ま、かく言う僕も彼とはよく喧嘩をしましたけどね」
「彼は会社でどんな仕事をやっていたんですか?」
「人工知能の研究です。彼が作ったアルゴリズムはそれなりに社内で評価されていましたよ。やつはコンピュータが友達のオタクでしたからね」
小嶺は嘲りの色を面上に見せた。
「仕事は認められていたんですか?」
「まあ、研究職には打ってつけの男です。ひとりで黙々とやるのが好きでしたからね。っていうか、彼とチームを組んだ人間は三日で愛想を尽かすでしょうけど」
「なぜ渡瀬は会社を辞めたんでしょうか?」
「同僚たちとそりが合わなかったんじゃないですか。みんなに嫌われてましたからね、彼は。会社を設立したとも聞きますよ。『ヘヴンフィールド』って言ったっけかな……。変な名前の会社です。まあ、技術力はあったので、ひとりでやる分にはいいんじゃないですか」
そう言うと、小嶺は眉間に縦皺を刻んだ。
「それよりも、渡瀬が辞めるときに、部署一の美人女性社員を伴って辞めたんですよ。どうして彼が彼女の心を動かしたのか、いまだに社内の噂になってますよ。実は僕も彼女を狙ってたんですけどね。いやあ、あの件だけはいまだに納得がいかない」
「なんという名の女性でしたか?」
「杉本という女性社員です。ちょっと気が強かったけどいい女でした」
小嶺は溜め息まじりに煙草の煙を吐き出した。
「以前彼の会社に行ったときには、その女性はもういないみたいでしたけど」
大橋がそう言うと、小嶺は納得したように何度も頷いた。
「やっぱそうですか?」
「ええ、私が行ったときには、彼の妹さんが会社を手伝っているみたいでした」
「いやあ、そうでしょう、そうでしょう。渡瀬のような男が、あんないい女を持っていくのは納得いきませんからね。あんなことになるなら、僕も彼女に手をつけときゃよかったですよ。惜しいことをした」
小嶺は好色そうに唇を舐めると、小嶺は大橋の顔を見た。
「ところで、彼女がどこに行ったか、彼から聞いてませんか?」
「いえ」
「そうか……ちょっと気が強くて、いい女だったのになあ。コンピュータオタクはコンピュータオタクらしく、プログラムだけを作ってりゃいいのに、まったくはた迷惑な男だ。あ、こりゃ友達のあなたに失礼でしたね」
「小嶺さんがそうおっしゃるってことは、渡瀬を恨んでいる人は多かったんですかね?」
「さあ。変わり者だったから嫌われてはいたけど、恨まれていたかとなると微妙でしょうね」
そこまで言うと小嶺は意味ありげに片眉を上げた。
「というのはマスコミ用の回答で、本当はあったんですよ」
大橋は思わず声を裏返らせた。
「なにかあったんですか?」
「渡瀬が会社を辞めるときに、うちのプログラムのソースコードを持ち出したという噂があったんです。いままで渡瀬が研究してきたうちの新技術をそっくり盗んだというのが、社長の言い分でしたけど。うちはチェス、オセロ、囲碁、将棋のゲームソフトも開発していましてね。『アルゴ将棋』とか『アルゴ囲碁』というコンピュータゲームを聞いたことがありませんか?」
「アルゴ将棋」なら大橋も対局したことがある。アマチュアで五段程度の棋力があるプログラムだ。
「ええ、『アルゴ将棋』ならやったこともありますが、そのソフトは『システム技研』という会社が販売していませんでしたか?」
「そうそう、システム技研はうちの販売会社なんです。うちで研究したシステムの販売元です。渡瀬は中でも将棋のゲームに興味を持っていたようですけどね。人工知能の研究をやっていた彼が、会社を辞める直前にやたらと将棋に関して資料を集めていましたから」
「御社の新技術を盗んで、渡瀬がソフトを開発したということですか?」
「それがわからないんですよ。やつは会社を辞めて、うちとはまったく別のプログラムを開発し始めたんです。それでも社長は渡瀬を疑っていたようで、訴訟まで起こそうとしたんですが、会社の顧問弁護士になだめられたそうですよ。渡瀬がうちのノウハウを盗んだという証拠はどこにもありませんからね。わざわざ高い金を払って、渡瀬をT大から呼び寄せたのが社長でしたから、渡瀬に裏切られたと激怒していたそうですけどね」
以前渡瀬が言っていたことと一致する。渡瀬はアルゴリズム技研で研究した内容をすべて自宅に持ち帰っていたのだろう。そして研究内容を応用して「宗歩」を作ったのだ。
しかしすぐに「宗歩」を販売すると、渡瀬が会社の内部情報を持ち帰ったことになり、アルゴリズム技研から訴えられる。それで「宗歩」は秘密裡に開発され、公表されなかった。
「御社の社長はなんという人なんですか?」
「城山泰男です」
「もしかして城山工業に関係のある人ですか?」
小嶺は感心したように息を吐いた。
「よくご存知ですね。うちの会社の母体は城山工業で、アルゴリズム技研もシステム技研も城山工業の子会社ですよ。社長の城山義春の息子がそれぞれ社長をやっているんです。うちの社長は城山家の長男です」
渡瀬は赤津の兄が経営する会社で働いていたということになる。赤津とは直接の関係がないにしても、どこか偶然ではないものを感じる。
「それで渡瀬は実際に新技術を盗んだと思いますか?」
小嶺は首をかしげた。
「どうも社長の一人芝居みたいでしたよ。殺された渡瀬のコンピュータからそれらしきものは発見されなかったそうです。社長もちょっと被害妄想になったんだと思いますけど。でも、いつもの社長らしくはなかったなあ」
「いつもの社長らしくないと言いますと?」
「いえね、うちの社長はまだ三十代半ばなんですけど、結構温厚な人でね。めったに怒ったりはしないんですけど、渡瀬のときにはやたらとむきになって、裁判まで起こそうとしてましてたからね。なにかあったんじゃないかって社内で噂になったんですよ」
「噂ですか?」
小嶺はかわいた声で笑った。
「他愛もない噂ですよ。渡瀬が辞めるとき、同時に杉本さんも辞めましたから、実は社長は杉本さんと付き合っていたけど、渡瀬に取られたんじゃないかって」
「それは事実なんですか?」
「まったくのデマですよ。社長はそういうところだけは潔癖な人でしたから。ま、僕から見たら損な性格だとは思いますけどね。社長は渡瀬を特別可愛がっていましたから、渡瀬に対して怒り狂ったのは、可愛さ余って憎さ百倍だったってところじゃないですかねえ」
突然小嶺は気づいたように、時計を見て言った。
「ああ、もうこんな時間だ。僕は十五階に上がりますけど、あなたも一緒に行きますか?」
これ以上目立った行動は危険だろう。それに聞くべきことは聞いた。渡瀬は赤津の兄と揉めていた。渡瀬には将棋ソフトを開発する十分な下地があった。それだけで十分だ。
大橋はロビーで小嶺と別れた。

〔18〕

順位戦もいよいよ始まろうかとしていた六月の初旬。
大橋は師匠の平畑健介門下の棋士、和泉直樹七段に連れられて、他の奨励会員たちと共に、将棋連盟近くのスナックで飲んでいた。
スナックの名前は地名にちなんで「千駄ヶ谷」といった。スナックといっても女っ気はまったくなく、気のよさげな年配のママがいるだけだ。広々とした店内のボックス席にゆったりと座って、将棋の話をするのが常だった。
和泉七段はB級2組に所属する三十五歳の棋士だ。髪を短めに刈り込んでいて、彫りの深い顔立ちをした、気のいい男だった。大橋の兄弟子に当たり、奨励会員のころはよく将棋を指してもらった。
ひとしきり最近の将棋の話をしたところで、奨励会員の進藤三段が口を開いた。
「このあいだ天野宗歩の棋譜を並べたんですよ」
彼は大橋よりは九つ下の二十歳だ。江戸時代の棋士や指し手に興味があるようで、よく天野宗歩の棋譜を並べていた。整った顔立ちをしていて、有名なアイドルによく似ていた。大橋がそのことを指摘すると、いつも困ったような照れくさそうな顔をする。
「おまえが四段になったら、女性の将棋ファンが増えそうだな」
以前大橋が進藤をからったとき、進藤は少しむきになって言った。
「僕はルックスで有名になるんじゃなくて、将棋の実力で有名になりたいんですよ」
「そんなこと言っても、すでに黒柳二世ってマスコミにも書かれてるだろう」
「それってルックスだけの話じゃないですか。僕の棋風と黒柳七冠の将棋は全然違いますよ」
「じゃあ早く黒柳みたいに負けないようになって三段リーグを勝ち上がらなくちゃな」
進藤はかぶりを振った。
「僕は黒柳さんのような負けない将棋よりも、平畑師匠のような華麗な将棋を指したいんです」
「師匠が聞いたら泣いて喜ぶような話だな。師匠に聞かせてやれよ」
「もう言いましたよ。そうしたら、『私のような単なるA級八段しか目指せないようなやつは破門だ』って叱られましたよ」
そのときの進藤の情けない顔に苦笑したことを思い出しながら、大橋は訊ねた。
「天野宗歩の棋譜っていうと、だれとの対局なんだ?」
進藤は黒目がちの大きな目をしばたたかせた。
「弟子の四天王との駒落ち戦です。やっぱ宗歩はすごいですね」
宗歩の四天王とは、市川太郎松、渡瀬荘次郎、小林東四郎、平居寅吉の四人のことである。
市川太郎松は宗歩の一番弟子で、文政十二年(1829年)生まれの棋士で宗歩より十三歳若かった。宗歩との初対局は弘化二年(1845年)六月十九日の左香落ち戦だ。対戦成績は十一番すべて香落ちで市川の三勝八敗だ。嘉永六年(1853年)五月十九日に六段になるが、宗歩の没後、消息不明になる。
小林東四郎は定楠ともいう、のちに東伯斎と号す。紀州の生まれで市川太郎松に次ぐ強豪だった。明治三十一年に没した。大橋分家派として四段の記録ある棋士だった。
平居寅吉は天保二年(1831年)の生まれだが没年は不詳だ。宗歩とは弘化三年(1846年)十六歳のとき、対戦している。
渡瀬荘次郎は、昇治ともいう。出身は三重といわれるが、生年も没年も不詳だ。安政四年(1857年)四月二十五日、新潟で宗歩と左右香落ち三番を指したあとは消息不明になっている。彼は詰棋書「まつよひ」を、民間のために編集したこともある。大正十四年(1925年)に木見金治郎贈九段がまとめた「将棋必勝法」には、渡瀬の詰物と必至図式が収められている。古写本に「駒の互いに利かぬよう並べること、この人よりとはじまる」という書入れがある。
和泉が進藤に目を向けた。
「たしか市川太郎松や渡瀬荘次郎は、天野宗歩が死んだあと消息を絶っているんだよな?」
進藤は首を振ってあたりを気遣うと、声をひそめた。
「それが、奇妙な話があるんですよ」
「なんだ奇妙な話というのは?」
和泉が横から興味深そうに訊ねると、進藤は真面目な顔をして言った。
「渡瀬荘次郎について、師匠から興味深い話を聞いたんです」
「興味深い話? どんな話なんだ?」
進藤は困ったように身をくねらせた。
「師匠から内緒の話だと言われてるんですけどね……」
弱り顔で渋りながらも、喋りたくてうずうずしているのが見て取れた。進藤は明るくて素直なのだが、若干口が軽いところがある。
「そこまで言って黙るなよ。師匠には内緒にしておいてやるから話してみろ」
和泉が促すと、進藤は頷いた。
「ずっと昔、渡瀬荘次郎の子孫と称する強い真剣師がいて、特例で日本将棋連盟のプロ棋士の試験を受けているんです。渡瀬重太郎といったそうです」
「奨励会の試験か?」
「いえ、すでに三十歳を超えていたので、『東海の鬼』と呼ばれた花村元司九段のときと同様に、プロ棋士と対局させてみることにしたそうなんです」
「プロ編入試験六番勝負に勝ち越したフリークラスの瀬川四段みたいなものだな」
「渡瀬重太郎の場合は一番勝負だったみたいですが」
「一番勝負か。それは厳しいな」
「相手は当時六段だった故塚本八段が務めたそうです」
「ああ、A級八段にもなった人だな。A級在籍中に高熱の病に冒され亡くなったと聞いた」
「そうです、その先生です。渡瀬重太郎は不思議な棋風の人で、序盤から塚本八段を圧倒したんですが、終盤塚本八段の鬼手が出て塚本八段の逆転勝利となったそうです」
鬼手とは、駒のタダ捨てなど一見ありえないような手に見えるが、実は成立している絶妙な手のことだ。「おにて」とも読む。
「その人物はどうなったんだ? プロの六段と互角以上の戦いをするくらいなら、合格したんだろう?」
「ところが、渡瀬重太郎は素行が悪くて、暴力団とも繋がりがあったらしいんです。まあ、元は真剣師ですからね。多額の借金もあったとか。いまで言う赤津八段みたいな人だったんでしょうね」
そう言うと大橋に気づき、舌を出した。
「あっ、大橋さんは赤津八段と親しかったんでしたね」
進藤は、年配の棋士たちのように、赤津に悪感情があるわけではない。どちらかというと、赤津に対して強くて豪快な棋士といった印象を抱いているようだ。奨励会員にとって、A級八段の赤津はやはり雲の上の存在なのだ。
大橋が気にするなというように微笑すると、進藤は話を続けた。
「なんでも渡瀬重太郎は詐欺まがいのことまでやっていたそうです。まともな就職口もなかったところを、うちの師匠がプロ入りの手助けをしたのですが、素行の悪さを取り上げられ、棋士総会で猛反対されました。勝負にも負けたために、プロ入りの話は立ち消えになったということです」
和泉が顔をしかめた。
「なんだか裏がありそうな話だな」
進藤は顔を輝かせた。
「和泉さんもそう思うでしょう? 実は塚本八段の逆転劇には謎が多いそうなんです。師匠が言うには、塚本八段は序盤には定評があったのですが、終盤が弱かったそうです。そのためタイトルには手が届かなかったらしいですね。ですから終盤の逆転劇はどう考えてもおかしいそうなんです」
「終盤が弱いというと、うちの師匠と一緒だな……」
和泉が呟くと、進藤は苦笑した。
「僕も師匠に『師匠と同じですね』と言ったら、『余計なことを言うな』って頭を叩かれましたよ」
和泉がくすりと笑った。
「でも、まさか塚本八段が不正をしていたわけでもあるまい」
「そのまさかなんですよ。そういう噂があるそうなんです。しかも将棋連盟にはそのときの棋譜は記録として残されていないんですって。怪しいと思いませんか?」
「その後、渡瀬重太郎はどうなったんだ?」
「焼身自殺を図ったらしいんです。しかも日本将棋連盟に対する恨み言を延々と書き連ねた遺書を残して」
「不気味な話だな」
進藤は頷いた。
「渡瀬荘次郎が行方知れずで、その子孫も焼身自殺となると、なんとなく呪われた一族のような感じがするでしょう?」
殺されたプログラマの渡瀬龍一と同姓なのがやたらと気になる。妙な胸騒ぎがした。
「どうした大橋? 少し顔色が悪いみたいだぞ」
気づくと和泉が大橋の顔を覗き込んでいた。
「いえ、因縁話とか怪談がちょっと苦手なだけです」
和泉がからからと笑った。
「なんだ、大橋は怖がりなのか。意外だな」
それから大橋の肩を叩いた。
「ところで竜王戦は好調のようじゃないか」
「ええ、最近は手がよく見えるみたいです」
和泉の言葉通り、大橋は順調に竜王戦の6組を勝ち上がっていた。
渡瀬がやたらと竜王位のことを気にしていたのも、多少気になりはしたが、竜王位に挑戦すればどういう勝負になるのか、興味があった。あまり目立たないように、他の棋戦では大橋本人が指した。
それでも勝率は七割近くあったので、大橋の勝率は八割近くになっていた。そのため、大橋が奨励会時代に鬱屈していたエネルギーが、ここにきて爆発したなどと他の棋士から言われた。「宗歩」と毎日対局しているのも、大橋自身の棋力の向上につながっているのかもしれない。
「おまえも奨励会に長くいたんで、どうなることかとやきもきしたが、ひとたびプロになってからは、連戦連勝でおれなんかよりもよほど勝率が高い。わからないもんだよなあ」
和泉は目を細めた。ひとのよい彼は大橋を弟のように可愛がってくれる。不正をしている後ろめたさで、大橋はさりげなく目を伏せた。

和泉らと別れた大橋は歩いて自宅に帰ることにした。
スナックから自宅までは歩いて三十分ほどかかる。もう夜中の一時を過ぎていたが、街灯も明るく、タクシーで帰るほどのものではない。大通り沿いに歩いていくので、取り立てて危険な場所もない。
自宅に近づき、脇道に入ったところで、大橋はだれかにあとをつけられているような気がした。なんとなくだが、背中に強い視線を感じる。
大橋はいったん立ち止まって後ろを振り返った。
人影はない。大橋の気のせいとも思ったが、それだけでもなさそうだ。
以前ヘヴンフィールドを訪れるときにも、だれかに尾行されているような気がしたことがあった。もしかすると、殺された渡瀬と、なんらかの関係があるのだろうか。
急に怖くなり、大橋は走り出した。滑り込むように門の中に入ると、急いで玄関のドアを開け、自宅の中に入った。それから急いで玄関の鍵を閉めた。しばらくのあいだ、大橋は呼吸を整えた。
中の様子を窺った。念のため両親の部屋を覗いたが、普段通り寝入っている様子だ。大橋は自室に入ると、ベッドに寝そべった。
気のせいだろうか。さきほど進藤に奇妙な因縁話を聞いたので、臆病風に吹かれているのだろうか。
だが、死んだ渡瀬と同姓の人間が将棋連盟を恨んでいたという話は、偶然ではないなにかがありそうな気がした。
しかも天野宗歩の弟子の渡瀬荘次郎の子孫の人物の話だということにも、因縁を感じる。殺された渡瀬龍一が開発したプログラムは「宗歩」だし、彼が設立した会社はヘヴンフィールド(天野)だ。
死んだ渡瀬龍一と渡瀬荘次郎、渡瀬重太郎とのあいだには、なにか関係があるのだろうか。
取り留めのないことを考えているうちに、やがて大橋は眠りについた。

翌朝、母親の和子が首をかしげながら呟いた。
「昨日ずっと帽子をかぶった変な男が家の周りをうろついていたのよ。気味が悪くて、お父さんに言ったんだけど、いつのまにかいなくなってたの。最近はこのへんも物騒になってきたわね」
大橋は確信した。昨日大橋はだれかに見張られていたのだ。

(続く)