〔14〕

次の日、大橋が起きて朝食のテーブルについていると、携帯電話が鳴った。電話番号は「03」で始まる固定電話からのもので、見慣れない電話番号だ。
大橋が緊張しながら電話に出ると、男性の低いしわがれ声がした。
「ああ、大橋さんですか?」
無遠慮な口調だ。大橋は警戒しながらも、言葉だけは丁寧に訊ねた。
「そうですが、どちらさまでしょうか?」
「私はS警察署の小原といいます」
S警察署といえば、ヘヴンフィールドの管轄のはずだ。渡瀬の殺人事件の件なのだろうか。大橋はうろたえるさまを悟られないよう、ゆっくりと訊ねた。
「どういったご用件でしょうか?」
「プロ棋士の赤津隆介さんをご存知ですね?」
なぜ赤津の名前が出るのか。怪訝に思いながらも、返事をした。
「ええ」
「彼が昨夜酒場で、店にいたお客さんとトラブルを起こし、相手の方に軽い怪我を負わせました。止めに入った警察官にまで抵抗したそうです」
「赤津がですか?」
「ええ。本人には一晩留置所で頭を冷やしてもらいましたが、身元引受人がいなくて困っているんです。親しい親類もいないそうで、だれか身元引受人になってくれる人はいないのかと訊ねたところ、彼があなたを呼んでくれと言っているのです」
大橋は心中で密かに安堵した。どうやら渡瀬の殺人事件とは、まったく関係ないようだ。
赤津の師匠は佐山雄二八段だが、すでに亡くなっている。以前赤津は兄が東京にいるようなことを言っていた。赤津がなぜ兄を身元引受人にしなかったのかが、大橋には不思議だった。
だが、赤津が自分の名前を言っているのなら、行くしかない。
「わかりました。いますぐそちらに伺います」
電話を切ると、大橋は取るものも取りあえず、S警察署に向かった。

S警察署に到着すると、小原刑事が渋い顔をして待ち構えていた。四十代半ばの短髪の男で、色黒で身長が高く、精悍な感じがした。目つきが鋭いのは警察官という職業のためなのだろう。
「赤津が酒に酔って暴行を働いたとか……」
大橋の問いかけに、小原は大橋に椅子を勧めながら、頷いた。
「昨日はずいぶん酔っ払っていたみたいでした。どうやらお客さんの中に、黒柳七冠のファンがいたそうで、赤津さんがいろいろと絡んだそうなんです」
赤津は黒柳の将棋をまったく認めていない。おおかた黒柳のファンと赤津とのあいだで言い争いになったのだろう。
それにしても、暴力を振るったのはまずい。A級八段で有名人の赤津が酔って警察の世話になったことがマスコミに知れたら、とんでもないスキャンダルになる。なんと軽率な行動を取ったものだろうか。
「実は私は将棋ファンでしてね。アマチュア三段の免状も持っているんですよ。特に、赤津八段の将棋が好きで、一度お会いしたいと思っていたのですが、こんな形で会うとはねえ」
赤津には年配の将棋ファンが多かった。年配の将棋ファンのためにも、こうした不祥事は穏便に済ませたい。
大橋の考えを察したのか、小原は声をひそめた。
「心配しなくても、このことはだれにも言いませんし、被害者のかたも気のいい将棋ファンの方です。赤津さんを告訴するつもりはないし、公にするつもりもないと言っています」
「よかった」
大橋はつい声に出して呟いた。
「赤津さんもかなり反省しているようなので、あまり責めないでやってください。赤津八段のファンは多いんです。ファンの夢を壊すような行動は慎むように伝えておいてください」
小原は言いにくそうに頭をかいた。

留置所から出てきた赤津はかなりしょげ返っていた。係員に先導されながら、下を向いて歩いていた。
ところが大橋の姿を見たとたん、赤津は唇を引き結んで顔をそらした。
「どうして酒に酔って暴力事件なんて起こすんだ?」
大橋が訊ねると、赤津は大橋の顔を睨んだ。
「おれのことより、おまえのほうこそなんなんだ?」
赤津がなじるような顔をしていたので、大橋は戸惑った。
「おれがなにをしたって言うんだ?」
「おまえの三段リーグでの棋譜だよ。なんであんな将棋をするんだ?」
「勝って新四段に昇段したじゃないか。あの将棋のなにが悪いんだ?」
赤津はあきれたように大橋の顔を見た。
「おまえはあんな将棋を指して恥ずかしくないのか?」
赤津の真剣な瞳に大橋はたじろいだ。
赤津は私生活こそいい加減だが、将棋に関してだけは鋭い。大橋が「宗歩」を使って三段リーグを勝ちあがったことまでは知らないにしても、大橋の棋風が変わったことを肌で感じ取っているのではないか。
大橋は内心の動揺を気取られないよう注意しながら訊ねた。
「あんな将棋とは、なんのことだ?」
「穴熊将棋だ。おまえいつから穴熊党になったんだ?」
大橋はわざと怒ったふりをした。
「おまえは穴熊将棋を極度に嫌うが、あれも立派な戦法のひとつだ。現にプロのあいだでも、穴熊は多用されているじゃないか?」
「プロ棋士のあいだで指されている穴熊のことじゃない。おまえの三段リーグでの将棋は、なんとしてでも穴熊に囲おうとする将棋だったじゃないか。あれは勝ちさえすれば見てくれなどどうでもいいという見苦しい将棋だ」
「プロ棋士は勝ってなんぼだ。なんとしてでも勝ちにいく手を指してなにが悪い?」
「じゃあおまえに聞くが、あんなせこい手を指してファンが喜ぶとでも思っているのか?」
「プロにとって、ファンなど二の次だろう。ファンが喜ぶ華麗な手ばかりを指して、負けが込んだらどうするんだ。プロではいられなくなるじゃないか。まずは勝負に勝ってからだろう」
赤津は激しくかぶりを振った。
「違う。おれたちはファンあってのプロ棋士だ。第一にファンの存在を考えなければならない。常にファンが唸るような手を指さなければならない。そのうえで勝たなければならないんだ」
「おまえはどうして勝ち方にそこまでこだわっているんだ?」
赤津は大橋を真っ直ぐに見つめた。
「おれたちがプロだからだ。プロである以上、おれたちは魅せる将棋を指さなければならない」
「おまえの論理でいけば、おれたちが華麗な将棋を目指しさえすれば、アマチュアに負けてもよいことになるじゃないか」
「そんなことは言ってない。プロはプロだ。アマチュアには絶対に負けてはならない」
「そうだろ? だからこそプロ棋士はその都度最善の手を指すんじゃないのか。穴熊だろうがなんだろうが、有利な手を指すのは当然だ」
赤津は深々と溜め息をついた。
「おまえのような考えを持っていたら、いつかプロ棋士はファンに見放されることになる。なによりもプロ棋士の存在意義がなくなってしまう。アマチュアよりちょっとだけ読みが深い人間が、プロ棋士ということになるじゃないか」
「将棋は読みの深さを競うゲームじゃないか。だからこそ、みんな先の手を読み、有利な手を指そうとする。アマチュアより読みの深い人間がプロになってなにが悪い」
「違う。将棋はそんなに単純なものではない。将棋は勝負だ。人間対人間の真剣勝負だ。生きるか死ぬかの殺し合いなんだ。ゲームのように割り切ってやるもんじゃない。その殺し合いの中で、常に新手を考案し、究極の棋譜を作り上げようとするのが、プロ棋士じゃないか」
「究極の棋譜」という言葉を渡瀬が使ったことを思い出した。そう言えば、渡瀬は赤津の将棋を非常に買っていた。
「究極の棋譜を作るために、勝負に負けたらなんにもならないじゃないか。現におれはずっと三段から昇段できないままだった。勝ち方にこだわっている場合じゃなかったんだ」
「厳しいことを言うようだが、それで勝てないんならプロになる資格がなかったと諦めるしかない。プロとはファンを魅了する手を指し続け、さらに勝ち続けるのが宿命なんだからな」
大橋は語気を荒げた。
「ふざけるな。おまえは簡単に三段リーグを抜けて四段に昇段したから、三段で長いあいだくすぶっている人間の気持ちなんか、なんにもわかってないんだ。十年近くも三段リーグで悩み続け、年下の人間が軽々と自分を追い越して昇段する悔しさなんて、おまえには全然わからないだろ」
赤津は驚いたように大橋の顔を見つめた。
「おまえは、彼らがおまえより強いとでも思っているのか?」
「当たり前じゃないか。強いからこそおれは負けたんだ。おれは勝ち方にこだわっている場合じゃなかったんだ」
赤津はうすく笑った。
「おまえを追い抜いて昇段したやつらよりも、おまえのほうがずっと強いんだよ。あんなやつらはプロなんかじゃない。黒柳のつまらない将棋をコピーしただけのやつらだ」
「おまえは黒柳をやたらと悪く言うが、現にあいつは七冠王なんだ。だれもあいつには勝てないんだぞ」
「あいつの強さは偽物だよ。いつかおれがあいつの将棋が偽者だってことを暴いてやる」
「おまえの考えは全然理解できないよ。なにが本物で、なにが偽物なんだ?」
「黒柳の将棋はただ勝とうとするだけのまがい物の将棋だ。おまえが三段リーグを勝ちあがったときの将棋もそうだった」
赤津は大橋の将棋が変わったことに気づいていたのだろう。だから、大橋に突っかかってくるのだ。大橋は赤津の眼力の鋭さに内心で驚いた。
「おまえはプロ棋士ならこうやらなければならないといった理想像を持っているみたいだけど、おまえの主張することを実践している棋士なんて、いまの棋界にいるのか?」
赤津が困ったように口をつぐんだ。
大橋は赤津の顔を睨んだ。
「おまえは自分の信じる理想を目指せばいい。でも、おれにまでおまえの理想を強要するな」
「おまえはいまの棋界の中で最も名人に近い男だ。おまえはおれの目標なんだぞ」
「おいおい、それは逆だろう。少なくとも三段リーグをやっと勝ち上がった人間に言う言葉じゃない。おまえはA級八段、おれはC級2組の四段に過ぎないんだぞ」
「おまえは自分の才能をわかっていないんだ。おまえがプロとしての手を指し続ければ、史上最強の名人になれる。そのとき、おれとおまえとで素晴らしい将棋を指すんだよ」
赤津は真っ直ぐに大橋を見つめていた。大橋の不正行為を見透かしているかのような赤津の視線に耐えられず、大橋は目をそらした。
「なんだか夢物語のような話だな。おれにはとうていできそうにないよ」
赤津の言葉を待たずに、大橋は身を翻して歩き始めた。
大橋には赤津の考えが理解できなかった。大橋から見れば、黒柳の将棋も立派な将棋だ。終盤力があり、即詰みは絶対に見逃さない。多少面白みにかけるが、強さにかけては他を寄せつけない。それのどこが悪いと言うのだ。
少し歩いて、赤津を振り返ると、彼は捨てられた子犬のような寂しげな顔をしていた。

〔15〕

数日後、大橋は仲間の若手棋士や奨励会員たちと、日本将棋連盟の四階にある桂の間で将棋の検討に励んでいた。
年配の棋士たちがいないので、奨励会員たちは賑やかに冗談を言い合いながら、盤をつつきあっていた。大橋も若手たちの意見に耳を傾けながら、検討に参加していた。
そのとき、部屋の雰囲気ががらりと変わった。座っていた奨励会員たちが飛び跳ねるように立ち上がり、最敬礼した。居合わせた若手棋士たちも、緊張したように挨拶をした。
見ると黒柳七冠が部屋の入り口に立っていた。
その存在感は、和んでいた部屋の空気を一瞬にして変えてしまった。それまでわいわいと騒いでいた棋士たちは、こわばった表情で黒柳の一挙一動を見守っていた。
黒柳が手にしているすべてのタイトルへの憧憬の念と、彼の驚異的な強さに対しての尊敬の念が、棋士たちを固くさせているのだろう。大橋は改めて棋士たちのあいだでの黒柳の評判を認識した。
黒柳は着物を着ていた。彼は対局の際には必ず着物だ。大橋のほうへ向かってくると、いままでみなで研究していた局面を見ながら、大橋に訊ねた。
「ここで検討していたのか?」
他の棋士たちがいっせいに大橋を見つめた。黒柳への尊敬の気持ちが大橋にも向けられたようで、なんとも言えない気まずさを感じた。
「ああ。難解な局面でみんなの意見が分かれたところだ」
検討されていた局面は優劣不明の終盤戦だ。後手が指しやすいようにも思えるが、先手にもよい手がありそうに思える。
「先手番だな」
そう呟くと、黒柳が袂に手を入れ、考え始めた。彼が考えるときの癖だ。やがて無言で盤上の駒を動かし始めた。黒柳が指し手を進めるに従って、大橋ははっとした。
彼の読みはだれもが考えつかなかった好手だった。黒柳が考えた変化手順で先手が有利だと局面が結論づけられたのだ。
「すごい……」
だれかが感嘆の声を漏らした。まわりのだれもが目を見張り、盤上を見つめた。
大橋も黒柳の読み筋の鋭さに舌を巻いた。
「たしかにその筋だと、先手の有利が結論づけられるな」
「そうだろ?」
黒柳は少し得意そうに眉を上げた。高級そうなシルバーの腕時計を見てから、大橋を見やった。
「久しぶりに飯でも食わないか?」
「いいけど、おまえは忙しくないのか?」
他の棋士たちの顔に驚きの色が走った。他の若手棋士たちは、以前大橋と黒柳が研究会を開いていたことをあまり知らない。
周りの様子をいっこうに気にするふうでもなく、黒柳は頷いた。
「おまえの昇段祝いはまだしていなかったしな。おれがおごるさ。じゃあ、一階のロビーで待ってる」
それだけ伝えると、黒柳は緊張気味の棋士たちを残して、部屋をあとにした。
「大橋先生は黒柳七冠とお知り合いなんですか?」
奨励会員のひとりが、上気した顔で大橋に訊ねた。
「うん、昔一緒に研究会をやっていたんだ」
大橋が答えると、また別の奨励会員が溜め息をついた。
「いいなあ、黒柳七冠と研究をしてたなんて……」
奨励会員の無邪気な言葉は、大橋にとって屈辱的と言えた。研究会のときは、黒柳にはさほどひけを取らなかった。それなのに、いつのまにか立場はまったく変わってしまった。
大橋は一抹の寂しさを感じずにいられなかった。

一階のロビーに行くと、黒柳が屈託のない笑顔で、親指を立てて見せた。
「よかったな。首の皮一枚で残って」
大橋の胸がちくりと痛んだ。
大橋の心境の複雑さには気づかないようで、黒柳は大橋の肩を軽く叩いた。
「行くところは、当然『お多福食堂』だよな?」
お多福食堂は将棋会館の近くにある。研究会時代に、大橋、黒柳、赤津の三人でよく行った食堂だ。丸々と太った豪快な女将が店を切り盛りしていて、夜は居酒屋もやっている。
黒柳が店に入ると、割烹着を着た女将が驚いたように声を上げた。
「あら、あんたたち、久しぶりじゃないの」
いつも豪快に笑いながら、大声で話す女将だが、不思議なことに、あまりうるさく感じられない。
黒柳は女将に向かって笑顔で言った。
「こいつが、新四段になったんです。本当は才能も実力もあるやつなのに、運が悪くて、なかなか昇段できなくて」
黒柳が喋るとまわりがぱっと明るくなる。将棋界の第一人者という自覚が彼に存在感を持たせるのだろうか。それとも元々華やかな男で、女性にも人気のある容姿のためだろうか。とにかくなにをやるにも如才ないのが黒柳だ。
「それはよかったわね。そのうちに大橋君や赤津君があなたのタイトルをすべて獲っちゃうかもよ」
女将は将棋界にあまり詳しくないためか、さも簡単にタイトルが獲れるかのように話す。ここは昔となにも変わっていない。大橋は懐かしい気持ちになった。
店の中には他にだれもいない。大橋と黒柳がいるだけだ。大橋は女将に訊ねた。
「もしかして開店前でしたか?」
女将がカウンターの奥で野菜をきざみながら、大声で言った。
「あんたたちは特別よ。なにが食べたいの?」
黒柳が口をはさんだ。
「じゃあ、おれお好み焼きでいいっすか? 女将のお好み焼きを久しぶりに食べたいんですよ」
「材料が足りないから、ちょっと買出しに行くけどいい?」
「いいっすよ。こいつと積もる話もあることだし」
女将は冷蔵庫から、ビールとグラスを持ってくると、テーブルの上に置いた。
「今日は飲めるんでしょ? これでも飲んで待っててよ。私のサービスだから」
「やったな大橋、おまえの昇段祝いだな」
黒柳は無邪気に喜んだ。銀座のクラブで捨て鉢に話していたときとは別人のようだった。今日の黒柳は昔のままの、友人の昇段を喜ぶ屈託のない黒柳だ。
クラブで会ったときはなにか面白くないことがあって、大橋に愚痴を言いたかっただけなのかもしれない。
女将は奥に引っ込むと、しばらくして現れた。エプロンをはずして上着を羽織っている。
「ちょっとだけ、店番お願いね」
彼女はそう言い残すと、太った体を揺すらせて店を出ていった。
大橋のグラスにビールを注ぎながら、黒柳が言った。
「これでおまえもつまらないことを気にせずに将棋が指せるな」
つまらないこととは年齢制限のことだ。年齢制限の苦しみは、奨励会を経験した者でなければわからない。先生になれるか、それとも夢破れて奨励会を退会するかでは、雲泥の差があるのだ。そのプレッシャーのために、いつもは勝てる対局を震えて落とすこともある。大橋にはそれが多かった。
「そうだな」
大橋は生返事をした。黒柳の祝いの言葉が、逆に自分を責めているように聞こえた。
「なんだ、その気のない返事は。おまえも変なやつだ」
黒柳は手酌でグラスにビールを注ぐと、一気に飲み干し、またビールを注いだ。
大橋は話題を転じるため、赤津の話をした。
「そう言えば、赤津ともよくこの店には来たなあ」
大橋が赤津の名前を出した瞬間、黒柳が顔をしかめた。
「ああ、あいつか、あいつ相変わらず素行が悪いらしいな。先日は酔って暴行を働いて、警察にも捕まったそうだ」
「おまえ、知ってるのか?」
「ああ、暴行を受けた人はおれの知っている人でな、人伝に聞いた。将棋連盟に知れたら、なんらかの処分が下されるだろうし、マスコミにでも嗅ぎつけられたら、将棋のイメージダウンにもなる。あいつには棋士としての自覚がないんだよ」
黒柳が吐き捨てるように言った。
「赤津なりにプロ棋士の理想を抱いているけど、それが現実と違うんで、いろいろ思い悩んでるんだよ」
「ああ、プロとしての将棋というやつか? 赤津が言ってるのは理想論だ。プロ棋士である以上、まず勝負に勝たなければ意味がない。対局が面白いかどうかなんて、二の次だ。負ければなにもなくなる。理想論を掲げるのは結構な話だが、負ければすべてを失うんだ。その恐ろしさをわかってないんだよ、あいつは」
黒柳は乱暴にグラスをあおった。
「ただ、あいつの将棋には現代定跡に挑戦しようとする心意気が感じられるじゃないか。しかもその指し手は鋭い。赤津が一皮向けたとき、おまえにとっても脅威になるだろう」
黒柳が首を傾けた。
「おれの脅威になるという点では、おまえも一緒だ。ただ、あいつは将棋が偏っている。特に玉が固い将棋は絶対に指さないだろう。現代将棋において、自らの選択肢をせばめるのは致命的だ。あいつは自分に科した制約のために、身動きが取れなくなる可能性がある。もっと柔軟に対応しないと、何度おれに挑戦しても勝てないよ」
黒柳が赤津について語るのは珍しい。
「あいつは棋士仲間からも嫌われてる。赤津と対局する棋士は、絶対に負けないよう闘志を燃やすそうだ。おれたちの世界ではそれも命取りになる。赤津は不必要に敵を作ってるんだ」
大橋は黙って頷いた。たしかに赤津と対局するときに敵意を剥き出しにする棋士は多い。本来ならば、A級八段と尊敬されてしかるべきの彼が憎まれているのは、他の棋士たちを侮った態度をとるためだろう。
黒柳はそのあたりの政治的な手腕も優れていて、ことあるごとに自分だけは別格だと周りに見せつける。そのため黒柳の対局相手は最初から黒柳に呑まれている。だから形勢が悪くなると、すぐに投了する。
一方、赤津の対局相手は赤津にだけは負けまいとする。なりふり構わず勝ちにいこうとし、敗勢になっても絶対に投了せず、いわゆるクソ粘りをする。その違いが、二人の勝ち星にはっきりと現れていた。
対局相手に、こいつにだけは負けたくないと思われるか、こいつになら負けても仕方がないと思わせるかはその結果に、天と地ほどの差がある。赤津は自身の言動によって、苦境に立たされているともいえた。
「加えてあいつは素行が悪い。噂だと多額の借金をしているそうだ。棋士仲間でも赤津の評判は最悪だ。このままではタイトルはおろか、棋士の資格さえ剥奪されかねない」
黒柳は単に赤津の悪口を言っているのではなく、赤津のことを心配しているようにも思えた。
黒柳が大きく溜め息をついた。
「まあ、あいつはお坊ちゃんだから、考えが甘いんだ。だからプロ棋士としてどうあるべきかなんて悠長なことを考えていられるんだ。プロである以上勝つか負けるかのどちらかしかないじゃないか。自分が有名な社長の息子だから、将棋が駄目になったら、実家に帰ろうと思ってるんだよ」
「赤津はそんな金持ちの息子なのか?」
黒柳が驚いたように大橋を見た。
「知らなかったのか? あいつは『城山工業』の息子だよ。三人兄弟の末っ子だと言ってた。城山工業といえば有名な一流企業だ。あいつはそこのワンマン社長の息子なんだ。城山義春だっけ」
「赤津と名字が違うじゃないか」
「よくは知らないが、あいつは棋士になるときに親とは絶縁したそうだよ。だからそのときに母方の名字に変えたんじゃないのか。でも、しょせんは親子の間柄だ。いつかは許してもらえるさ」
黒柳は続けて言った。
「たしか城山工業はコンピュータ関連の技術も扱っていたはずだ。ほら、赤津はコンピュータにやたらと詳しかっただろう。プログラミングもできるって言ってた。それは子供のころ、いろいろとコンピュータの教育を受けたからだそうだ」
「その割りにはあいつコンピュータをあまり触ろうとしなかったな」
「親父さんに突っ張っているだけだろう。それにやつの将棋はコンピュータとは正反対のはったり将棋だ。だから合理的なおれの将棋も否定してるんだよ」
赤津の破天荒な生活ぶりは、彼の生い立ちから来ているのだろうか。赤津の棋風もコンピュータ業界にいる父親に反抗して、あえてコンピュータ的な将棋を指さなかったのかもしれない。赤津に身元引受人がいなかったのはそういう理由があったからなのか。
黒柳が腹立たしげに呟いた。
「やつの借金も、最終的には実家のほうで尻拭いをするんだろうさ。そうでなきゃ、あいつのように酒と博打三昧の生活なんてできないもんだ。まあ、赤津はあんなルックスだ。飲む打つ買うのうち、女のほうだけは奥手のようだがな」
黒柳の頬に嘲りの色が浮かんだ。
「赤津と違って、おれは小さなころ父親が死んで、母親に女手ひとつで育てられたから、貧しさに対する恐怖感は人一倍ある。おれ、おまえ、赤津と才能に恵まれていながら、おれだけがタイトルを獲っていられるのは、おれだけが負けることの怖さをわかっているからだ。おまえはいざというとき力を出せないのが欠点だが、赤津の場合は非現実的で、夢想家なんだ。要するにあいつは甘ちゃんなんだよ」
大橋は黒柳の話を黙って聞いていた。
将棋の考え方に関しては、赤津の主張も、黒柳の主張も、どちらも間違っていないような気がした。考え方の違いで、ふたりはぶつかっているだけなのだ。
彼らに比べて自分は将棋ソフトの「宗歩」に頼ってしか、勝てない。結局二人には決定的に水をあけられたのだ。大橋はやりきれない気持ちになった。
店のドアが開いて、女将が荷物を抱きかかえて帰ってきた。
「あんたたち、待った? 今日はエビイカ豚肉入りの特製お好み焼きを作ってあげるわよ」
彼女の声は、大橋の暗鬱な気持ちを吹き飛ばすような明るい響きを持っていた。

〔16〕

大橋が赤津や黒柳と初めて出会ったのは、小学校五年生のときの全国小学生将棋名人戦だった。
黒柳は愛知県代表、赤津は福岡県代表で出場していた。最初に対戦したのは赤津で、二回戦のときに当たった。赤津はやけに眼光の鋭い子供で、大橋を噛みつくような顔で睨んでいた。変なやつだと思ったのが、第一印象だった。
対局が始まって、こんな下手糞がよく県の代表になれたなと大橋は思った。赤津の駒組みがあまりに稚拙だったからだ。大橋は赤津の隙をついて仕掛け、見事必勝形になった。
ところが、形勢不利になってから赤津の指し手が冴え渡ってきた。序盤の稚拙さが嘘のように赤津の手は鋭く、大橋の決定打を許さなかった。
こんな有利な状況になって、なぜ早く仕留められないのかといったあせりも手伝って、大橋は小さなミスを繰り返し、終盤には形勢不明になっていた。
ある即詰み筋を発見し、一か八か即詰みを狙ったところ、なんとか赤津玉を仕留めたが、勝った気はまったくしなかった。全国は広い。恐ろしいと思った。彼が定跡を研究したら、いまの大橋では勝ち目がないとも感じた。
黒柳とは準決勝で対戦した。目が大きく鼻筋が通っていて、快活そうに見えた。将棋ではなくサッカーなどのスポーツをやっていそうに思えた。黒柳は序盤に長けていて、序盤から大橋をリードしていった。仕掛けられる場面でもなかなか仕掛けようとせず、玉をどんどん固くしていった。
やむをえず大橋は自ら歩を突き捨てて仕掛けたのだが、巧妙にかわされ、逆に反撃を食らった。いつ投了しようか考えているうちに、黒柳に悪手が出て、大橋は俄然やる気になった。
しかし、玉の固さの違いはいかんともしがたく、大橋玉は必至をかけられて、どうしようもなくなり投了した。負けたとはいえ、黒柳にならいつか勝てるのではないかという感想を抱いた。
結局大会で優勝したのは黒柳だったが、赤津の粘りがやたらと印象に残り、全国にはまだまだ強豪がいるとの思いを強くした。
奨励会に入ったとき、赤津と黒柳の姿を見かけ、声をかけた。黒柳とはすぐに親しくなったが、赤津は最初大橋には敵意を剥き出しにしていた。
赤津が大橋に対する態度を変えたのは、ある些細な出来事からだった。
大橋が奨励会で初めて赤津と対局したときのことだった。大橋は5級に昇級を果たしたばかりで、是が非でも勝つ必要はなく、考案していた新手を試そうと思っていた。その相手が赤津だったのだ。
赤津は相変わらず敵愾心を剥き出しにして大橋を睨みつけていた。彼は他の棋士に対しても同じような態度をとるので、奨励会員のあいだでは噂になっているほどだった。大橋は赤津の態度の悪さはなるべく気にしないようにしていた。
赤津の先手から対局は始まった。大橋の新手は横歩取りからの変化形で、後手専用のものだったので、いい機会だった。駒組みに入った段階で、大橋は定跡にない新手を指した。
大橋が指したとたん、いままで無造作に指し手を進めていた赤津の動きが止まった。赤津は盤面に顔を近づけ、舐めまわすように見た。しばらくして身を引くと、低いうめき声を漏らした。
かなり長考したあと、赤津は駒を盤面に叩きつけた。それから大橋の顔を下から突き上げるようにじろりと見た。
赤津の指した手は大橋が待ち構えていた手だった。大橋は指し手を進めた。一見ぬるい手のように見せかけて、強烈な変化が待っているのだ。
赤津は大橋の仕掛けた罠には気づかないようで、以後はノータイムで駒を盤面に叩きつけた。あたかも気迫で対局相手を捻り潰そうとしているかのようだった。
大橋が兼ねてから研究済みの手を放ったとき、赤津は「あっ」と声を漏らした。
大橋の指し手は、赤津の想像の範疇を超えていたようで、彼は再び長考に入った。まだ序盤から中盤に差し掛かったところだったのに、赤津は構わず長考にふけった。
持ち時間が残り十秒を切ったとき、赤津が駒台に手を置いた。大橋は赤津が勘違いをしたのかと思ったが、彼は大橋のほうを向いて、さっぱりとした顔で言った。
「おれの負けだ」
赤津の将棋は、序盤は無茶苦茶だが、中盤終盤で猛烈な追い込みをかけることで有名だった。たとえ詰みが見えていても、最後まで抵抗する、悪く言えば悪あがきをするのだ。他の奨励会員から赤津の噂を聞いていたので、大橋は驚いた。
「まだ早いんじゃないのか?」
思わず大橋はそう訊ねていた。
「早くないさ。これ以上粘ってもどうしようもない」
赤津の表情はいつものように敵意に満ちたものではなく、大橋の新手に心から感服しているようだった。
勝負に異様なほど執着する赤津が負けたにもかかわらず、嬉しそうな顔をしていた。そのとき大橋は、赤津という人間は、他の奨励会員が噂しているような、悪い人間ではないのではないかと思った。
対局が終わり、将棋会館を出ようとした大橋は後ろから馴れ馴れしい口調で声をかけられた。
大橋が振り返ると、赤津が立っていた。赤津は少し照れくさそうに大橋を見ていた。
「どうしたんだ?」
大橋が訊ねると、赤津がぼさぼさの頭をぼりぼりとかいた。いつもの敵対するような鋭い眼光は影を潜め、赤津の瞳は少年のように輝いていた。
「おまえ、すげえなあ」
赤津はさきほどの新手のことを言っているようだった。
「ああ、あれは前から考えていた手なんだ。横歩取りの変化形として、後手のほうが少し指せるんじゃないのかなあと、ずっと前から思っていた手だ」
「おれがやられた手は、後手が最もよくなる変化だな?」
「そうだ。一見ぬるいような手に見せかけて、五手先で好手が待ち構えているんだ」
「ああ、あの手はまいったよ」
赤津は大橋の手をとり、強く握った。噂とはあまりにも違う赤津の態度に、大橋は少し戸惑った。
「なあ、あの変化、おれも研究したいんだ。それにおまえの手に対する変化も考えてみた。あれからずっと考えていたんだぜ。対局中には間に合わなかったけどな」
赤津は他の奨励会員とは交わらず、いつも単独行動をとっていたが、いったん自分が認めた相手に対しては、正面から打ち解ける純粋な人間なのだろう。
もとより大橋も赤津の強さには惹かれていたので、快く頷いた。
「ああ、一緒に研究をしよう。今日は黒柳たちと一緒に研究会を開く予定だったんだ。おまえも来るといいよ」
赤津は目を輝かせた。
「そうか。そうか。黒柳ってやつもおまえと研究するくらいだから、きっと強いやつに違いないな。もちろん参加するよ。なんだか楽しみだなあ」
研究会は大橋の自宅の隣にある大橋将棋クラブの一角で行われた。
赤津と黒柳を引き合わせると、赤津は屈託なく挨拶した。黒柳は最初赤津を胡散臭そうな目で見ていたが、赤津の謙虚な姿勢を見て、態度を軟化させた。
みなで一晩中検討して、大橋が考えた横歩取りの変化は、黒柳の指摘で後手がよくなることはないと結論づけられた。つまり赤津が上手く応対していれば、大橋は窮地に追い込まれていたのだ。
とはいえ初めて見る手に、その場で完璧に対応することは不可能に近い。そういった意味では、大橋の考案していた新手は有効だったとも言える。
研究会では主に対局をやった。総当りで何度も何度も対局した。その日成績が一番悪かった人間が、他の人間に食事を奢らなければならないようになっていたので、金のない研究会メンバーはみな必死で将棋を指した。
最初は十人近くいたメンバーも、大橋、赤津、黒柳の飛び抜けた強さに分が悪いと思ったのか、一人減り二人減りして、最後には三人だけになった。
赤津の序盤の弱点は、黒柳と対局を重ねることによって、よくなっていった。一方黒柳の終盤での詰めの甘さも、赤津と指すたびに補われていった。大橋も二人からよいところを学び、三人は奨励会の中ではかなりの勝率を誇った。
一番に三段に昇段したのは黒柳だった。次が赤津、やや遅れて大橋だった。三人は三段リーグで戦うようになり、ますます張り合った。
そのころから赤津と黒柳の将棋に対する考えがぶつかり合うようになった。
将棋をゲームとして考え、常に合理的な手を指そうとする黒柳と、将棋を人間対人間の真剣勝負だと考えている赤津の考えは、まったく異なっていた。
特に黒柳が得意とする玉の固い将棋に対しては、赤津は露骨に嫌悪の表情を示した。
「そんな手は将棋の手じゃない」
赤津が汚いものでも見たように黒柳の指した手から顔を背けると、黒柳はいきり立った。
「盤上の手に将棋以外の手があるか。これはれっきとした手だ。おまえは人の指し手に因縁をつけるつもりか?」
「なにが指し手だ。ちょっと隙があると、相手の足をすくおうとするような姑息な手を指しておいて、よくそんな大きな顔ができるな」
黒柳は明らかな嘲笑を浮かべた。
「おまえは子供か? 指し手に汚いも綺麗もあるか。あるのは好手か悪手かだけだ」
「だとしたら、おまえの手は限りなく悪手だな。そんな手は将棋をつまらなくさせるだけだ。アマチュアが指すのならいざ知らず、プロの指す手じゃない」
「おまえは神様にでもなったつもりか? なにがプロの指す手じゃないだ。そんな立派なことはプロになってから言ってみろ。それにプロを目指すなら勝負に辛いのは当たり前じゃないか」
「勝負に辛いんじゃない。単に汚い卑怯な手だ。おまえの将棋には見るべきところがなんにもない。ただ勝ちに行くだけのつまらない手だよ」
「プロはただ勝つことだけに神経を集中していればいいんだよ」
「違う。プロは美しい棋譜を見せることができるから、プロなんだ。プロである以上、未来の棋士たちが唸るような棋譜を残さなきゃならないんだ。もともと将棋指しは世の中に必要のない職業だ。だからこそプロはファンを楽しませるような手を指さなければならない。そうでなければ棋士という職業の存在意義はまったくないんだよ」
黒柳はせせら笑った。
「それで負けたらなんにもならないだろう。勝ってこそのプロだ。おまえはいまから負ける言い訳をしてるのか?」
「おれは負けていいなんて言ってないぞ。ファンを唸らせるような棋譜を残した上で、勝つのがプロだとおれは言ってるんだ。そうでなきゃ、おれたちが将棋を指す理由なんかないじゃないか」
「おれたちが将棋を指す理由は、勝ちまくってお金を稼ぐためだ。将棋指しで生活ができないのなら、おれはプロなんか目指さない」
赤津が苛立ちを押さえきれないように吐き捨てた。
「おまえのようなやつには、将棋を指して欲しくないよ」
「悔しかったら、おれを徹底的に負かしてプロになれないようにしろよ。おれより勝率が低いくせに、でかい口を利くな。おれの手はおまえの終盤のクソあがきに比べたらずっとましだ」
「終盤で粘るのは当たり前じゃないか。勝負なんだから」
「それはこっちが言いたいよ。どうしておれの固い将棋が駄目で、おまえの悪あがきの手がいいんだ? どちらも勝負に辛いといった点では一緒だろう?」
「違う。おまえの手は自分が楽をする手だ。おれの粘りは自分を苦しめる手だ」
黒柳は首を横に振ると、両手を挙げてお手上げの仕草をした。
「おまえとはまともな話ができない。自分の手は是で、相手の手は非と主張するに決まっているからな」
そのあと黒柳は黙り込み、赤津とはひとことも口を利かなかった。
そうした口論を繰り返しているうちに、ある日黒柳と赤津は取っ組み合いの大喧嘩をやらかした。
以来、二人はいっさいの交流を断絶し、ことあるごとに反目しあっている。
黒柳は何度も赤津と将棋を指したためか、終盤も強くなった。序盤研究も怠らなかったので、弱点のない棋士になり、七冠を達成した。いまではだれもが認める棋界の第一人者だ。
それに比べて赤津の評判は棋士内では最低で、だれもA級八段の赤津とは交流を深めようとはしない。赤津は赤津で、仲間の棋士に対して露骨に侮った態度をとり続けた。赤津と対局する棋士は絶対に負けないと闘志を燃やし、赤津に挑んだ。
三人で研究をしていたあのころに戻りたい。ときおり大橋はそう思うことがあった。

(続く)