●第二章

〔11〕

一年後、大橋は「宗歩」を使って勝ち上がり、新四段になった。
信夫は大橋の昇段に喜んだ。信夫の思った以上のはしゃぎように、不正とはいえ、「宗歩」を使ってよかったと心底大橋は思った。
師匠の平畑も、自宅に駆けつけて、大橋の新四段昇段を祝ってくれた。
「宗坊の三段リーグでの将棋を見たが、強くなったなあ。勝負に辛くなったし、終盤にも強くなった。その調子ならA級八段も夢じゃないな。和服を着て対局するようになったのも、気分が変わって好結果に繋がっているのかもしれないな。そういえば、黒柳七冠も和服が多いじゃないか。やはり将棋指しは和服だよ、宗坊」
平畑はそう言うと、満足した猫のように目を細めた。
「ところで宗坊は棋風が少し変わったみたいだな。昔は居飛車専門だったが、最近では振り飛車もよく指すし、穴熊が多くなった。宗坊には穴熊将棋が向いているのかもしれないぞ」
このとき大橋はひやりとしたが、さりげなく平畑の言葉を聞き流した。
いままでと違い、大橋は「先生」と呼ばれるようになった。わかっていたこととはいえ、三段時代との待遇の違いに戸惑うこともしばしばだった。
周りの大橋を見る目が変わり、世界がぱっと開けたような感じだった。永久に将棋を指せるライセンスを手に入れた至福の喜び、果てしない長いトンネルを抜け出せた安堵感はひとしおだった。
「宗歩」を使っての対局なので、自分自身が成し遂げたという達成感はなかった。しかし、ずっと心配をかけた父の信夫に棋士になった姿を見せられたのは、純粋に嬉しかった。
さすがにテレビ棋戦で「宗歩」は使用しなかった。テレビ棋戦は対局中の棋士をずっと映している。不自然な挙動を視聴者に気づかれる恐れがある。
「宗歩」を使っていてわかったが、「宗歩」は穴熊の採用率が高い。穴熊囲いは「玉の固さ」が一番優れていることで有名である。玉が固いとそれだけ有利だ。プロのあいだでも優秀な戦法として愛用する棋士も少なくない。「宗歩」はコンピュータなので、理論的に一番有利な手を指すのだろう。以前黒柳が言っていた理論をコンピュータが実践しているような感じがした。
そのことにおいても、黒柳は並々ならぬ才能を持った棋士だ。彼はだれに教えられるでもなく、玉の固い将棋が勝ちやすいことを見抜いていたのだ。
将棋ソフト「宗歩」の名前は、おそらく幕末の棋聖、天野宗歩から取ったのだろう。
将棋をさほど知っているわけでもない渡瀬が、なぜ天野宗歩を知っているのか不思議だったが、それほど天野宗歩が有名であることの証明とも言える。
没後百五十年、いまだに人を魅了してやまない将棋史上、最も偉大な存在と言える棋士が天野宗歩である。
宗歩が幕末最強の棋士だということに異を唱える者はいない。実力は十一段あると言われた。当時は八段が最高段で、その上はたったひとりの名人しかいなかった。実力十一段とは彼に対する最大の賛辞だったのだろう。
天野宗歩は、「史上最強の棋士はだれだったのか?」という質問に必ず名前が出る棋士だ。江戸時代の大橋宗英、伊藤宗看、現在の黒柳七冠と共に、史上最強の棋士を論ずるときには、天野宗歩を主張する将棋ファンは多い。
天野宗歩の将棋は、現代将棋にも大きく影響を与えており、現代の棋士も彼の棋譜には必ず目を通しているほどだ。
現代将棋は過去の将棋に比べて、ずいぶんと進化を遂げているため、大橋から見ると、昔の将棋は若干甘く感じられる。
したがって、実際に対局したとすると、名人でもあり竜王でもある現七冠の黒柳が勝つだろうと大橋は思っていた。黒柳七冠、つまり現代最強の棋士が史上最強だろうというのが、棋士のあいだでの通説になっている。
しかし、天野宗歩が現代将棋を勉強すれば、絶対に最強だと言って譲らない将棋関係者は多い。

宗歩は文化十三年(1816年)、江戸本郷の菊坂に、下級武士の小幡甲兵衛の次男として生まれた。留次郎と名づけられて天野家に養子に出される。
留次郎はわずか二、三歳で将棋を覚え、泣いていても駒さえ与えれば笑顔になったと言われている。留次郎の「噛み駒」なるものも残されている。
留次郎は五歳にして将棋家である大橋本家・十一代宗桂の門に入り、すぐに頭角を現した。十一歳で初段、十七歳で四段となった。将棋家の嫡子並みの出世だった。
十八歳の五段のとき、留次郎は武者修行のため上方に旅立つ。そのころ関西には強豪がひしめいていた。
中でも傑出したのが大橋柳雪だった。宗歩は柳雪を技術上の師と仰いでいた。柳雪は健康であれば名人位に就くべき逸材だと言われたほどの棋士で、大橋家に養子に入っていたが、病を負い聴力を失い廃嫡し、京都に居を構えていた。
弘化二年(1845年)、留次郎は江戸に戻り富次郎と改名した。そして十数年来無敵と呼ばれ、江戸将棋界の第一人者だった大橋宗Δ噺浙瓢悗靴徳款,掘∀暫覆望挫覆垢襦0貲後には七段になった。当時は名人でさえ八段で、現在のように高段者が多く存在したわけではなかったので、破格の昇段だった。
富次郎の実力は将棋三家も認めざるを得なかった。やがて富次郎は将棋三家に順ずる「別家」に列せられ、三家だけに許されていた御城将棋に出勤する運びとなる。このとき富次郎は剃髪し、名を宗歩と改めた。
宗歩は晴れ舞台に臨み、同じく別家に取り立てられた和田印哲という有名な棋士に快勝する。終わって宗歩は、大橋宗Δ函峺羚ァ覆好み対局)」を命じられる。
この一局は宗歩の棋譜の中でもとりわけ名高く、将棋三家の雄、大橋宗Δ箸慮羮訃棋は因縁の対決ともいえるものだった。
傍目には順風満帆に思えた宗歩の生活も、宗歩にとっては不満が多かった。それは江戸棋界に蔓延する指し継ぎ、指し掛けの風習だった。将棋家側が負けそうになると、なんらかの理由をつけ、指している途中で対局を止めたり、一時的に中断をしたりするのだ。将棋家の面目を保つためとも言えた。
宗歩は無類の早指しだったが、相手の長考で対局途中に中断、中止となることにうんざりしていた。しかも、指し継ぎのあいだには、将棋家を総動員して共同研究が行われていた。事実上は、一対一の対局ではなく、一(宗歩)対大勢(大橋将棋家)の勝負になっていたのだ。
宗歩は名人に就いて当然の実力を有していたのに、在野の棋士であったために七段に留まっていた。宗歩にとって、宗Δ箸両”蕕肋棋家への挑戦に留まらず、江戸幕府の将棋政策への異議申し立てでもあった。
一方、将棋家側の大橋宗Δ麓身の栄達のみならず、将棋家の権威を背負っていた。将棋家である以上、在野の宗歩との対局で、不覚をとるわけにはいかなかった。どちらも絶対に負けられない状況だったのだ。
そのため民衆のあいだには、おどろおどろしい異様な物語までもが伝わっている。
大橋宗Δ虜覆夫の勝利を切望し、断食して宗歩の調伏に及んだ。彼女の願いが通じたのか、対局前夜、宗歩が酔って大喧嘩を起こした。
宗歩と不仲だった師の十一代宗桂が、「大事な対局の前に何事ぞ」と激怒し、寺社奉行に訴えるとまで言い出した。家人が師をなだめ落着したのは明け方だった。
そのため宗歩はほとんど不眠不休のまま宗Δ叛錣Δ海箸砲覆辰拭この対局は宗歩に圧倒的不利な状況での対局だったのだ。
城内で始まった勝負はあんのじょう差し掛けとなり、寺社奉行邸で指し継がれた。
終局は三日目の夜。ついに宗歩は負けた。
最後に、物語は次のように結ばれている。
──宗Δ虜覆亙の怪にとり憑かれほどなくして死に、宗Δ發泙振鹸遒里△泙蠻竸佑箸覆襦L鞠阿僚(發老譴鯏任い禿櫃譴拭──
対局前夜と対局後の薄気味悪い話は事実とは異なっているが、当時の人々のあいだでまことしやかに伝えられた。それだけ宗歩と将棋家とのあいだに確執があったとも言えるだろう。
この因縁に満ちた物語が創作されたのは、大橋宗Δ氾渓扈(發梁亢匹大勝負だっただけでなく、勝負の行方が大いに意外だったためでもある。棋聖としてたたえられた宗歩が敗れたからこそ、名局として棋史に残ったのだ。
大橋宗Δ歪更庸匹如△修了間のかけ方はいつも対局相手を辟易させた。早指しで指し掛け、指し継ぎを嫌った宗歩のほうが、根負けしたのかもしれない。指し掛け中、大橋本家挙げての微に入り細をうがつ研究がなされたのも、言うまでもないことだ。ともかくこの対局は宗Δ砲箸辰討楼貔ぐ貘紊僚侏莟匹┐世辰拭
御城将棋で大橋宗Δ貿圓譴燭發里痢⊇(發良床舛詫匹襪なかった。不慣れな舞台に不覚を取ったというのが世評であった。
嘉永六年(1853年)、宗歩は定跡集「将棋精選」を世に送る。この著書は現代棋士ですら学ぶ不朽の名著で、宗歩の人気はますます上がった。
ところが名声を得た宗歩の生活はすさんでいた。力士を自宅に住まわせ、酒色に溺れ、あまつさえ将棋家が法度とする賭け将棋に手を染めた。
第一人者でありながら名人に就任できない絶望感、宗歩の名望が必然的に生む将棋家との軋轢……宗歩の心には絶えずうそ寒い風が吹いていたのだろう。厭世の思いが、稀代の天才を放埓におとしめたのかもしれない。
安政三年(1856年)、宗歩はのちに名人になる伊藤宗印との御城将棋を接戦の末、ものにする。
宗歩の将棋は、位、手得を重視した当時の棋界に対して、あくまで実利を優先させた。絶対視された5筋の位を軽く見る角換わり腰掛け銀を考案したのは宗歩である。宗歩の将棋観が真に理解されたのは、腰掛銀が脚光を浴びた戦後になってからだ。天才宗歩は百年先を歩いていたのである。
安政四年(1857年)、宗歩は弟子の市川太郎松、渡瀬荘次郎の両名を従え、越後から奥州への旅に赴く。江戸に戻ったときには、安政五年も押し詰まっていた。
安政六年(1859年)、宗歩は波乱の生涯を終えた。享年四十四歳だった。宗歩の死から三年後、御城将棋は幕を閉じ、九年後には日本は明治維新を迎える。
宗歩は一男一女を儲けていたが、長男宗次郎は七歳で夭折し、娘あいは宗歩の生家小幡家に嫁いだと言われる。弟子の市川太郎松、渡瀬荘次郎の消息はわかっていない。

〔12〕

将棋界では、黒柳が相変わらず七冠を保持していた。黒柳は終盤力がずば抜けていて、ほとんどミスをしない。かつまたいくら形勢が不利になっても決して勝負を投げ出さない。劣勢のときには、じっと頭を低くして、相手のミスをひたすらに待つ。
昔ならば、敗勢になると、形作りをして投了するある種の潔さが、棋士には求められた。しかし、黒柳にはそうした潔さは微塵もなかった。頭金で玉が詰まされてやっと投了する。とにかく勝負に辛いのだ。
それでも棋士のあいだで顰蹙を買わないのは、彼のずば抜けた強さのためだ。彼が不利な終盤で粘り始めると、相手のほうが疑心暗鬼に囚われる。黒柳が投げないからにはなにか逆襲の手があるはずだと勝手にそう思い込む。
そのうちに、自分の手に自信が持てなくなり、悪手を指さないかと緊張する。あっと思ったときには、とんでもない悪手を指す。結果、黒柳は終盤でかなりの劣勢をひっくり返していた。
たったひとりの天才の出現により、将棋界の主流が変化し始め、現在では黒柳の辛い棋風が主流になった。いまでは多くのプロ棋士が黒柳の将棋を真似している。黒柳の台頭によって、将棋の本質のなにかが変化した。黒柳以前と黒柳以降で、あたかも違う理論による将棋が存在しているようだった。
彼は将棋の宣伝のためか、テレビCMやバラエティー番組にも数多く出演していて、甘いマスク、柔らかな物腰は、若い女性のあいだでも圧倒的な人気を誇っていた。
黒柳は一部の棋士のあいだで神格化さえされていた。みな黒柳と対局すると萎縮した手を連発し、黒柳に敗れ去った。
特に黒柳は終盤に強かった。彼は終局に近づくとトイレに立つくせがあった。棋士仲間では、黒柳がトイレに行くと、必ず相手玉に即詰みの目があると囁かれた。
「黒柳の終局トイレ」と呼ばれ、黒柳がトイレに立つだけで、負けたような気分になるそうだ。黒柳がトイレから帰ってきたとたんに投了した棋士もいた。
唯一赤津だけが打倒黒柳への闘志を燃やしていたが、去年の名人戦では4─1と屈辱的な成績で敗れ去っていた。
赤津は相変わらず自堕落な生活をしており、棋士仲間からも蛇蝎のように嫌われていた。大橋の昇段を喜んでくれると思っていたが、意外に冷淡な反応だった。大橋が「宗歩」を使って棋風を変え、黒柳と似た将棋を指したことが、赤津を怒らせたのかもしれない。
赤津は順位戦では相変わらずの強さを発揮して、今年も名人戦の挑戦者になっていた。赤津の強さは、黒柳とまったく違い、彼独自の大局観をもとに戦っていた。
赤津はさまざまな新手を編み出し、定跡に挑戦していた。わざと定跡をはずし、従来の駒組みに疑問を投げかける。失敗することも多かったが、彼のこだわりはある種の美しささえ感じさせた。
ところが棋士のあいだでは、彼のこだわりに対する評価は低く、古い将棋だと考えられている。棋士仲間からは、江戸時代の将棋だと揶揄された。大橋が見ていても、彼はあえて駒組みで不利になるようにしていると思うような対局が多くあった。
終盤では黒柳と同じように粘り強いが、彼の場合は粘り強さの質が黒柳とは違っていた。相手の読みを撹乱するような手を主眼に置いて粘るのだ。そのせいか、心理的な盲点を突く指し手だけが印象に残り、黒柳ほど粘るわけじゃないのに、クソ粘りをする往生際の悪い棋士だと評価されていた。
しかしファンのあいだでは、赤津の独特の将棋は根強い人気を誇っている。赤津の人間くさい指し手やこだわりが、オールドファンには古きよき時代の将棋を思い出させるのだろう。
月に一回、五日に大橋は渡瀬の会社を訪問した。「宗歩」をバージョンアップするためだ。
新しいバージョンの「宗歩」は大橋が電子メールで送っていた棋譜をシステムに組み込んだものらしい。そのほかにも大橋は渡瀬に頼まれて、月に一度のバージョンアップのときに、自分以外のプロ棋戦の棋譜を持っていった。
渡瀬は大橋がヘヴンフィールドに出向いても、ほとんど顔を出さなかった。代わりに、玲子がいつも大橋に応対した。
大橋は渡瀬に言われた通り、渡瀬から毎月渡される鍵のついた小箱に「宗歩」を入れ、さらに念入りに梱包して玲子に渡した。鍵は大橋と渡瀬だけが持っているらしい。
なぜわざわざ鍵のついた小箱に入れるのか疑問だったので、あるとき渡瀬に訊ねると、彼は皮肉な笑みを浮かべた。
「『宗歩』の存在を隠すためですよ。彼女は単なる事務員兼プログラマですから、『宗歩』の存在は彼女も知りません。僕が趣味で将棋ソフトを作っていることはうすうす感づいているみたいですけどね」
「どうして彼女に『宗歩』の存在さえ隠すんですか?」
「あなたのためですよ。僕が『宗歩』という人間よりも強い将棋ソフトを開発したことを彼女が知ったら、きっとあなたがそのソフトを使っているのだと思うはずです。あなたは『宗歩』を使っていることをだれにも知られたくないでしょ?」
「それはそうですけど……」
それにしても、妹にはせめて「宗歩」の存在くらいは教えてもいいのではないだろうか。
「大橋さん、あなたはあくまで僕の趣味の将棋ソフト作りに付き合ってくれるプロ棋士というスタンスでいてください。そうしなければ、あなたにとって非常にまずいことになるのはわかるでしょう」
そこまで言われると、大橋にはなにも言えなかった。せめて渡瀬の言う通りに話を合わせるしかない。妹にさえ心を許さないのは、ある意味変わり者の渡瀬らしいとも言える。
玲子は小箱の中身を知りたそうにしていたが、大橋がはぐらかすと深追いはしなかった。
渡瀬が秘密主義を貫いているのは、以前いた会社から技術を盗み取ったからなのかもしれない。だから玲子にさえ、「宗歩」の存在を秘密にしているのだろう。
以前大橋はヘヴンフィールドを訪れたとき、後ろからだれかに尾行されているような気がしたことがあった。あわてて後ろを振り返ったが、だれもいなかった。
尾行されたように感じたのは一度きりなので、大橋の気のせいかもしれないが、渡瀬のどこか怪しげな雰囲気と相まって、なんとなく薄気味が悪い。
それ以来、ヘヴンフィールドに赴くときには、尾行されないよう注意するようになった。
渡瀬が姿を現すときは、大橋が持ってきた棋譜に目を通すことがある。さして将棋に詳しいわけでもないのに、渡瀬は赤津の棋譜を見て目を細めた。
「赤津という人の将棋はいいですねえ」
「渡瀬さんにわかるのですか?」
渡瀬は眼鏡のフレームを触ると、顎を突き出した。
「ええ、よくわかりますよ。この人の将棋は実に人間的でいい。他の棋士の将棋は黒柳七冠の将棋のスケールを小さくしたようなつまらない将棋ですが、彼の将棋はそれとはまったく違っている」
アマチュア初段の棋力もない渡瀬が意外に鋭いことを言ったので、大橋は意外に思った。
「この赤津という人は僕の研究材料として実に貴重な存在だ。一見理にかなっていないような手を指すが、その実よく考えられている。彼の将棋を『宗歩』に組み込めば、『宗歩』はもっと強くなりますよ」
「黒柳七冠の将棋のほうが、実際に負けませんし、役に立つんじゃないんですか?」
渡瀬はかぶりを振った。
「彼の将棋はコンピュータ的な将棋です。いくら頑張っても、ミスをしない本物のコンピュータにはいずれ負けます。その点赤津さんは違う。彼の将棋はコンピュータ的な正確さを凌ぐ構想力がある。彼の将棋が確立されれば、究極の手に近づくのかもしれません」
渡瀬自身の棋力はプロ棋士にははるか及ばないが、いつもプロの棋譜を見ているせいか、目だけは肥えているのだろう。
棋士を根本的に見下している渡瀬が、これほど一人の棋士を絶賛するのは、いままでにはないことだった。
「まあ、究極の手を解明するのは、そんな簡単なものではないですけどね」
大橋の視線を感じたのか、渡瀬は少し喋りすぎたとでも言いたげに、顔を背けた。
「金をもらってファンに見せる将棋を指すのが専門棋士なら、赤津さんのように身を削るような手を指して欲しいものです。どの棋士も黒柳七冠の真似をしているのが、すでにおかしいと僕は思いますよ。あれじゃまるで金太郎飴ですからね。大橋さんのようにソフトウェアを使って将棋を指したほうが、ミスをしない分だけ、ファンに対してまだ良心的だと僕は思いますけどね」
最後に渡瀬は吐き捨てるように言った。

〔13〕

月に一回の「宗歩」のバージョンアップの日。
その日は雑誌「現代将棋」で新四段シリーズの撮影があったので、大橋は背広姿だった。将棋連盟で撮影したあと、大橋は小雨の中をヘヴンフィールドに向かった。
大橋は「宗歩」の入った例の小箱をバッグに入れていた。「宗歩」はバージョンアップを重ねるごとに強くなっていく感じがした。大橋が送った棋譜や大橋の実戦譜が役立っているのだろうか。
古ぼけたビルののろいエレベーターに乗ると、バッグと傘で手がふさがっていたので、肘で三階のボタンを押した。
大橋は渡瀬のことを考えていた。彼は将棋に精通しているわけでもないのに、妙に鋭い発言をすることがある。妹の玲子の存在もどことなくミステリアスな感じがした。

渡瀬は自分のプログラムを強くすることだけに興味があるようで、将棋界にはあまり関心を示さない。大橋が新四段になったときも、さも当然のような顔をして「じゃあ来年は名人になれますね」と言った。
新四段になったからといって、すぐには名人にはなれない。最初にC級2組に所属し、よい成績を修めた棋士が上のクラスに昇級する。それから、C級1組、B級2組、B級1組、A級と一年ごとに昇級し、A級で一番の好成績を修めた棋士が、名人位に挑戦する。最短でも、五年経たないとタイトルに挑戦できないのが名人位なのだ。
名人位の仕組みを渡瀬に説明すると、彼は目をしばたたいた。
「じゃあ、黒柳七冠とは五年経たないと対局できないんですか?」
「いえ、将棋界には他にもタイトルがあります。他のタイトルなら、勝ち上がれば、プロ一年目でも黒柳に挑戦することが可能です」
「そうは言っても、将棋界じゃ名人位は一番権威があるんじゃないんですか?」
「竜王位も名人位と並んで権威のあるタイトルと定められています。序列や賞金では竜王位が一番になっています」
渡瀬は眼鏡のフレームを触ると、決めつけるように言った。
「それならば、今年はぜひとも竜王位に挑戦してください」
「もちろんそのつもりですけど……」
「いいですか。他の棋戦では自分の力で戦って負けても結構です。でも、竜王戦だけは『宗歩』を使って勝ちあがってください」
大橋自身の力で戦っても勝てないと遠まわしに言われている気がしたが、渡瀬の真剣な口調に大橋は頷くしかなかった。
おそらく渡瀬はできるだけ大舞台で、「宗歩」と黒柳を戦わせたいのだろう。渡瀬の開発した「宗歩」と、史上最強と認められる黒柳との勝負は、大橋にも興味がある。

エレベーターのドアが開いた。何度乗ってもこのエレベーターの動きの遅さにはうんざりする。
入り口に向かうと、大橋はいつものようにヘヴンフィールドのインターホンを押した。
返事がない。いつもは玲子がドアを開けて出迎えるのだが、留守なのだろうか。大橋は再度インターホンを押した。
相変わらず返事はなく、扉の向こう側には人の気配も感じられない。
大橋はいつもこの時間に来て、「宗歩」をバージョンアップしてもらっていた。玲子も渡瀬もいないのは初めてだ。
不在なら仕方がない。出直すか。一瞬そう考えた。しかし、神経質そうな渡瀬の顔を思い浮かべ、思い直した。大橋がここで帰ったら、あとでまた、彼にねちねちと嫌味を言われるに決まっている。あまり彼を刺激するようなことはしたくない。
大橋はドアノブに手をかけ、おそるおそる回してみた。ドアノブはなんの抵抗もなく回った。半回転ほど回ったとき、軋む金属音と同時にドアが向こう側に開いた。大橋は首を伸ばして中を覗いてみた。
玲子はいなかった。ほのかな香水の残り香はわずかに感じられるが、オフィス内は静寂だった。
中の様子を窺っているうちに、いやな予感が大橋を襲った。漠然とした根拠のない、動物の本能のような感覚だった。不吉な予感を振り払うように、大橋はヘヴンフィールドの中に足を踏み入れた。
書籍が持っている埃っぽい匂いと同時に、コーヒーの香りが大橋の鼻腔を刺激した。そのコーヒーの香りは奥の渡瀬の部屋から漂ってくる。
「渡瀬さん?」
奥の部屋に向かって扉越しに声をかけるが、なにも返答がない。
扉の向こうからからパソコンのキーンという音が聞こえる。コーヒーの香りがしたり、パソコンの電源がついているということは、少なくとも休みではないのだろう。大橋がドアノブに手をかけると、入り口と同様に扉が開いたので、部屋の中を覗いてみた。
渡瀬が机の横にうつぶせになって倒れている。机の上にはコーヒーカップが転がっていて、キーボードにこぼれたコーヒーがかかっている。苦悶してあたりの書類を掴んだと見えて、渡瀬の周辺には紙片が散らばっている。
大橋はおそるおそる渡瀬に近づき、しゃがみ込むと、渡瀬の耳元で再び問いかけた。
「どうしたんですか?」
渡瀬はうつぶせになったまま微動だにしない。大橋は意を決して渡瀬の体を揺すってみた。
渡瀬の顔がだらりと上を向いた瞬間、大橋の心臓が跳ね上がった。彼の顔にはまったく生気がなく、不気味なほど青白い。口元には泡のような涎が流れている。
渡瀬の手を触ると、無機物のように冷たかった。大橋は喉の奥で悲鳴を上げて、反射的に後方へ飛び上がった。
救急車、いや警察を呼ぼうかとの考えが頭をよぎった。だが警察に事情を聞かれたら大橋はなんと答えたらいいのか。
大橋はバッグと傘を手に持ち、渡瀬の部屋を飛び出すと、ヘヴンフィールドのオフィスを出た。
すぐに思い直して、ヘヴンフィールドに引き返した。オフィスの中に入ると、ハンカチで自分の指紋を丁寧に拭き取った。ここに大橋の痕跡を残してはならない。
ヘヴンフィールドを出ると、非常階段口に向かった。エレベーターのボタンに指紋はつけていないはずだ。それに、エレベーターでだれかに出会う可能性もある。大橋は非常階段の扉を開け、狭い非常階段を駆け下りた。
幸いだれにも見つからなかった。大橋はビルを背にすると、何事もなかったように駅に向かって足早に歩き始めた。

いつしか雨はやんでいた。
大橋は急ぎ足で改札を抜けた。ホームに上るとすぐに電車が来たので、それに飛び乗った。電車が動き始めると、少し落ち着いた。
まさか自殺ではないはずだ。あの渡瀬が自殺をするとは考えにくい。だとしたら病死なのか?
たまたま玲子がいないときに渡瀬がなにかの発作を起こして亡くなったのだろうか。しかし、それにしても玲子がいないのは不自然だし、渡瀬がなにかの病気を患っているようには見えなかった。
まさか渡瀬は殺されたのではないだろうか。
渡瀬は前の会社から将棋ソフトのソースコード(人間がプログラミング言語を用いて記述したソフトウェアの設計図)を盗んだと言っていた。ソースコードを盗まれた人間が渡瀬に恨みを抱いているとは考えられないだろうか。
おそらく警察は渡瀬の死を不審死扱いし、死体は司法解剖されるだろう。単なる病死ならいいが、彼が殺されていた場合、殺人事件として警察は本格的に動き出すはずだ。
おそらく大橋は死体の第一発見者だろう。大橋はテレビに何度も出演しているプロ棋士だ。もし大橋がだれかに目撃されていたとして、その人物が将棋ファンだった場合、大橋の顔を知っている可能性も十分にある。
そうなった場合、警察は大橋を重要参考人として扱うだろう。それどころか渡瀬殺害の第一容疑者として考えるだろう。
渡瀬の死体を発見した段階で、警察に通報すればよかったのだろうか。
しかし、大橋と渡瀬の関係を聞かれたときに、大橋はなんと答えればよいのか。
まさか渡瀬の開発したソフトを使っているとは言えない。そんなことをしたら、大橋の不正が発覚して、大橋は将棋界から放逐されてしまうだろう。
あの段階では証拠を消し去り、逃げるという選択肢が最も正しかったのだ。
だが、もし大橋がなんらかの痕跡を残していれば、大橋に容疑がかかるのは間違いない。
動悸が収まらず、体は小刻みに震えていた。
電車は平日の昼間とあって、さほど混雑はしていなかったが、大橋は中でもひときわ目立っていた。汗を流して呼吸を荒げている大橋を見て、不審そうな顔をする乗客もいたが、人目を気にしているどころではなかった。
古ぼけたビルだったので、防犯用のカメラは設置されていないだろう。エレベーターには指紋はつけていないはずだし、オフィスの指紋は全部拭き取った。それとも、どこか忘れたところはあっただろうか。大丈夫、全部消したはずだ。大橋の思考はしばらくのあいだ、指紋のことで堂々巡りをした。
渡瀬が大橋と接触した事実をパソコンにデータとして保存している可能性もある。そのときには、大橋も警察から事情聴取を受けることになる。
ただ、渡瀬は大橋との関係が発覚すると、前の会社からノウハウを盗んだことが発覚するので、なるべく記録は取らないようにしていると言っていた。彼の言葉が本当ならば、大橋と渡瀬の関係は知られず、大橋が疑われることはない。
大橋は、渡瀬という人物など知らない。大橋に無関係の人間が死んだ。ただそれだけのことだ。
渡瀬は病死かもしれないのだ。あれこれ気に病むのは渡瀬が殺されたと判明したあとでもいい。大橋はそう自分に言い聞かせた。

事件があった次の日、新聞をくまなく探したら、「IT企業社長 オフィスで毒殺」という記事があった。住所はヘヴンフィールドのオフィスだったので、渡瀬の事件に間違いない。
ある程度予測していたこととはいえ、まずいことになったと思った。殺人事件ならば、警察も渡瀬の人間関係を徹底的に調べるではないか。
記事には、生命保険勧誘のセールスマンが会社を訪れて死体を発見したと書かれてあった。コーヒーに毒物が混入されていたため、警察は殺人事件として捜査し始めたらしい。
渡瀬は人工知能の有能な技術者だそうで、T大で講師をしていたが、民間の企業に勤め、会社を設立した変り種だそうだ。彼の研究は国内外で評価されているらしい。
記事を見て二三日のあいだは、大橋のところにも捜査の手が伸びるのではないかと、戦々恐々と日々を過ごした。
しかし大橋の元には警察からなんの連絡もなかった。やはり渡瀬は大橋との接触について、なにも証拠を残していないのだろう。だとしたら大橋が疑われることはない。
だれが渡瀬を殺したのだ、という当然出てくる疑問は、しばらく経ってから、やっと大橋の思考の俎上に載せられた。
犯人が渡瀬を殺す動機はなんだろう。やはり将棋ソフト「宗歩」に関係しているのだろうか。
たったひとりの社員である玲子の存在を警察は知っているのだろうか。
いつもヘヴンフィールドのオフィスで応対していた彼女はあの日いなかった。第一発見者にもなっていない。
記事には玲子についてなにも書かれていなかった。社員が失踪したとも書かれていなかったし、容疑者についての記述ももちろんなかった。
あの日玲子はたまたま外出していただけなのだろうか。第一発見者が警察に通報したあと、用事を済ませてオフィスに帰ってきたのだろうか。
玲子は大橋のことを、渡瀬の将棋ソフト作りに協力してくれていたプロ棋士だと思っているはずだ。大橋が「宗歩」を使っていたことは、渡瀬と大橋しか知らないのだ。それに彼女は大橋の存在をさほど重要だと考えていないはずだ。
仮に彼女が大橋の存在を警察に喋ったとしても、大橋は渡瀬が玲子に説明した通り、ソフト作りに協力していただけだと答えればよい。大橋が渡瀬を殺す理由など、客観的に見て、まったくないのだ。
大橋はあの場を逃げ出してよかったと思い始めていた。渡瀬には気の毒だが、これで大橋が「宗歩」を使っていることを知っている人間はいなくなる。
「宗歩」は充電器を家庭用電源につなげば充電できる仕組みになっていたし、別段バージョンアップしなくても、一流棋士の実力は有している。
利己的な考えだとは思うが、これで大橋の栄達は保障されたようなものだ。考えようによっては、渡瀬がちょうどよいときに殺されたとも言える。
渡瀬には同情したが、それ以上の感情が湧き起こったわけではない。大橋に「宗歩」を使わせたのも、自分の研究のためで、別に大橋を助けてくれるためではなかったのだし、渡瀬に特別恩義を感じているわけではない。
ヘヴンフィールドに行って、玲子がいるのか確認したかったが、いま大橋が動いてはやぶへびになる。
それに玲子は大橋のことをさほど重要な存在だとは思っていないだろう。
大橋は殺人現場も目撃していないし、渡瀬とも単なる将棋上の知り合い。そういうことにしたほうがいいのだ。
 
(続く)