〔41〕

黒柳の自殺は将棋界に大きな衝撃を与えた。赤津のとき以上に黒柳の死は取り上げられ、テレビのワイドショーは連日黒柳の死について報道した。
黒柳のマンションからは遺書が発見され、警察は自殺だと断定した。しかし自殺の原因についてはなにも書かれていないようで、彼の死はマスコミに面白おかしく取り上げられた。
大橋は事件の日、将棋連盟に行ってすべてを話したが、まったく相手にしてもらえなかった。将棋連盟会長の鳴海は渋い顔で、「君も竜王としての自覚を持ってくれなくては困る」と繰り返すだけだった。師匠の平畑にも話したが、まったく取り合ってはくれなかった。
そのときになって大橋は、黒柳が大橋から「宗歩」を持っていった理由がわかった。黒柳は最初から、自分がすべての罪を被るつもりだったのだ。そうして「宗歩」を闇に葬り去ろうとしたのだ。
「宗歩」のことを話せば、将棋連盟にも迷惑がかかると黒柳は考えた。だから大橋から「宗歩」を借りて、密かに処分したのだ。
だが、平畑までもが大橋の告白をまったく信じないのを見て、大橋は悟った。
将棋連盟は真相を知っているのではないか。知ったうえで、大橋の言うことを無視しているのではないだろうか。
A級棋士の赤津が死に、六冠の黒柳まで自殺し、大橋までもが「宗歩」を使って勝った事実が判明したら、将棋連盟始まって以来の不祥事になることは間違いない。
しかも人間よりも強いプログラムが存在するという事実は、将棋連盟として絶対に認めてはいけないことだったのではないか。
結局大橋の訴えはまったく無視され、大橋にはなんの処罰もなかった。
思い余った大橋が棋士を辞める意思を平畑に伝えると、平畑は大橋に何度も頭を下げて懇願した。
「いま宗坊がタイトルを返上して、棋士を辞めると言ったら、将棋連盟は壊滅的なダメージを受ける。お願いだ、考え直してくれ」
さんざんお世話になった師匠に頼まれては大橋に断ることなどできなかった。
それに平畑の言うことも痛いほどわかった。大橋の責任とはいえ、いま大橋が棋士を辞めたら、タイトルはすべて空位となり、将棋連盟の存続が危ぶまれる事態を招くのは間違いない。
事件のほとぼりが冷めたときに、引退しよう。大橋はそう決心した。
志半ばで死んだとはいえ、渡瀬の復讐はほぼ成功したといってもいいだろう。将棋界のスターになるべき人物を二人も葬ったのだ。渡瀬はあの世で大橋たちをあざ笑っているのかもしれない。
結局「宗歩」に勝った棋士は、赤津だけではなかっただろうか。黒柳は「宗歩」を使って勝つうちに、次第に宗歩に頼り切って、実力を低下させてしまった。おそらく大橋もあのまま「宗歩」を使っていたら、そうなっていただろう。
赤津だけが、「宗歩」を攻略する方法を編み出し、「宗歩」を完膚なきまでに叩きのめした。渡瀬の陰謀に真っ向から立ち向かい、序盤の構想力で彼のプログラムを打ち破った。将棋に無限の可能性があることを、身を削るようにして知らしめてくれたのだ。やはり赤津は将棋の鬼だったのだ。
大橋は改めて赤津という偉大な棋士の死を悼んだ。

〔42〕

将棋連盟がやっと落ち着いてきたある日のこと、病院から大橋に電話がかかってきた。
師匠の平畑が倒れて病院に担ぎ込まれた。平畑が大橋に会いたがっている。若い声の看護士は淡々とした口調でそう伝えた。
大橋が病院へ駆けつけると、平畑はベッドに横たわっていたが、弱々しく半身を起こした。
「先生、大丈夫ですか?」
平畑がうすく笑った。
「もう私も八十に近い。体なんてがたがただ。大丈夫なところが少ないくらいだ。宗坊や進藤たちが気にならないと言えば嘘になるが、私はもういつ死んでも満足だよ」
「まだまだ先生は元気ですよ」
大橋の気休めめいた言葉に苦笑すると、平畑は心配そうに呟いた。
「気懸かりは猫のゴローだ。あいつは私がいないと餌をやる人間がいなくなってしまう。私が入院しているあいだは、ゴローに餌をやりに通ってもらえないだろうか?」
「もちろんです、先生。ゴローの件は任せてください」
大橋がそう言うと、平畑は満足そうに微笑んだ。
「これでなにも思い残すことはなくなった」
大橋は平畑の顔を見つめ、静かに言った、
「それは渡瀬龍一という禍根を断ったからですか?」
平畑は大橋の言葉になにも返事をしなかった。代わりに目を瞑ると、疲れたように体を横たえた。
「渡瀬龍一を殺したのは先生ですね?」
大橋の問いには答えず、平畑は目を閉じたままで呟いた。
「亡くなった塚本八段には汚名をかぶせて申し訳なかった……」
「渡瀬重太郎と対局した塚本八段とは、本当は先生のことだったんですね?」
平畑は目を開いて、驚いたように大橋を見た。
「なんだ。そのことも知ってたのか?」
「ええ、あれから塚本八段について調べてみました。塚本八段の棋風は、序盤が下手でしたが、終盤で巻き返す力将棋を指す方で、『即詰みの塚本』と呼ばれていたそうです。先生の話では塚本八段は終盤に弱かったことになっていました。終盤に弱かったのは、先生のほうです。渡瀬重太郎と将棋を指したのは先生だったんですね?」
「さすが宗坊は将棋指しだな。読みが深い。その通りだ」
平畑は満足そうに笑みを浮かべた。
「塚本君は当日責任の重さに耐えかねて、体調を壊した。体が弱かったこともあるのだろうが、アマチュアとの対局、とりわけ、勝って当たり前、絶対に負けてはならない勝負はだれでも辛いものだ」
「そこで渡瀬を紹介した先生がやむなく対局したんですね?」
平畑は黙って頷いた。
「先生は渡瀬重太郎との一件を、ずっと気に懸けていたんですね。あるとき、息子の渡瀬龍一のことを知り、彼が将棋ソフトを開発していると聞いて、不安を感じていたんでしょう。だからアルゴリズム技研について調査していた。彼が会社を辞めて、ヘヴンフィールドを興したことも、先生は知っておられたんですね」
大橋はひと息つくと、続けた。
「やがて私が渡瀬と接触をしたことを知り、先生は愕然とされた。その直後に私が新四段になったので、私が不正をしていたことを確信したんですよね?」
平畑が再び目を閉じた。
「そのうちに先生は、渡瀬が黒柳と私に自分の開発した『宗歩』を使わせている事実に気づきます。以前ヘヴンフィールドを訪れたとき、尾行されているような気がしたことがありましたが、あれは先生だったんですね」
平畑は眉間に皺を寄せ、瞳を閉じたまま、なにかを考えているようだった。
「このままでは将棋連盟の棋士たちに累が及ぶと考えた先生は、渡瀬に電話をしました。先生は、受付の杉本玲子が外出するように仕向けてから、渡瀬を訪ねた。先生は、渡瀬に『ぎょくや』の団子を頼んだはずです。渡瀬も玲子には話を聞かせたくなかったでしょうから、玲子を使いに出したんでしょう。渡瀬は先生を知っていたはずです。父親の重太郎にさんざん聞かされていたでしょうからね。先生のことを、『恋人』と皮肉交じりに呼んでいたそうです」
平畑は目を瞑ったままだった。
「先生は、将棋ソフトを棋士たちに使わせるのを止めてもらうよう、渡瀬に頼んだのでしょうが、渡瀬は聞き入れなかった。そこで先生は渡瀬が目を離した隙に、コーヒーの中に毒物を入れました。先生はコーヒーを飲んだ渡瀬が死んだのを確認すると、ヘヴンフィールドから出ていきました」
平畑はあたかも眠っているように表情を変えなかった。
「先生は自らが残した災いの種を、ご自分で刈り取るつもりだったんでしょう。だから私が『宗歩』を使っていたことを知りながら、忠告めいたことはなにもおっしゃらなかった。そうですね?」
平畑の頬がかすかに動いたような気がした。
「先生は最初から私が『宗歩』を使って四段になったことを知っていたから、進藤にわざと渡瀬重太郎の話を漏らしたのではないでしょうか。だって進藤の口がさほど固くないことは先生もご存知でしたよね」
大きく息を吐くと、大橋は低い声で言った。
「私は事件のほとぼりが冷めたら棋士を引退します」
平畑が半身を起こすと、両目を見開いた。
「それはいけない」
凛とした平畑の声だった。
「宗坊が将棋指しを辞めたら、私は死ぬに死ねない。それだけは師匠として絶対に許さない」
「でも、私は渡瀬が開発した『宗歩』を使って四段になったんですよ。そんな私が将棋指しとして残っていたら、他の棋士の方々にも申し訳が立ちません」
「実は渡瀬龍一が亡くなったあと、女性の声で将棋連盟に密告があったんだ。宗坊が機械を使って不正をしていると」
それは玲子だろう。玲子は大橋がソースコードを奪ったと誤解していた。将棋連盟に密告すれば、大橋が現れると考えていたのかもしれない。
「だから宗坊の対局のとき、将棋連盟は宗坊の動きを密かに監視していたんだ。でも宗坊が機械を使った様子はまったくなかった」
おそらくそのときはすでに「宗歩」の使用をやめていたのだろう。
「でも、師匠は私が四段昇段時に『宗歩』を使っていたことを、ずっと前に知っていたんでしょう?」
平畑は自分に言い聞かせるように呟いた。
「将棋連盟では、宗坊は不正などしていない、という結論が下された。鳴海会長も納得済みだ。だから宗坊が棋士を辞める必要などない」
「そんな……」
平畑が大橋を見つめた。
「赤津君との挑戦者決定戦、黒柳君との竜王戦での将棋、あれは間違いなく竜王にふさわしいものだ。宗坊は棋士として残れることになっている。これは私が命を賭けてやったのだ。師匠として、宗坊が将棋指しを辞めることは絶対に許さない」
平畑は体中の力をふり絞って喋っているようだった。
平畑を興奮させると容態が悪化するかもしれないと思うと、それ以上強くは言えなかった。
「そうか、わかってくれるか」
大橋が黙っているのを納得したと思ったのか、平畑は安堵の表情を見せた。
「いいか宗坊、コンピュータはしょせんコンピュータだ。一時的に人間に勝ったとしても、それは人間の指し手の後追いに過ぎない。人間が考え続ける限り、将棋には無限の可能性があるんだ。その無限の芽をここで潰さないでくれ。頼む」
平畑が真剣な目で大橋を見つめていた。
「たとえコンピュータが将棋の必勝法を編み出したとしても、人間は将棋のルールを変えることさえできるのだ。決して人間の力に絶望しないで欲しい」
平畑の言葉は大橋に対する最後の訴えのように感じられた。平畑の遺言のような言葉に、大橋は頷くことしかできなかった。
平畑はすべての精力を使い切ったかのように再び体を横たえ、静かに目を閉じた。
大橋は平畑の顔を覗き込んだ。
「先生は渡瀬重太郎との対局で、共同研究の手を指したのですか?」
平畑は黙ったままだった。まるで眠っているかのように表情を変えず、動きもしなかった。その後、大橋がなにを聞いても、平畑はなにも喋らなかった。
一週間後、平畑は病院で息を引き取った。

〔43〕

平畑が亡くなったあとも、大橋は平畑の家に通っていた。
ゴローは主人の平畑が帰ってこないので寂しそうだった。一度、大橋の家に連れて行こうとしたが、ゴローが嫌がったのでやめた。
その日大橋が家の中に入ると、ゴローは縁側で眠っていた。眠そうに薄目を開けて大橋の顔を見上げたが、大橋とわかったのか、再びゆっくりと目を閉じた。
初冬にしては暖かい日だった。ガラス越しの柔らかな陽光がゴローを優しく照らしている。大橋はそっとゴローの頭を撫でた。
渡瀬龍一を殺したのは、平畑だ。平畑は自分のせいで将棋連盟が陥れられるのを、どうしても見逃せなかったのだろう。おそらく大橋が「宗歩」を使っていることを感づいて、いっそう渡瀬への殺意を固めたに違いない。
平畑が渡瀬重太郎との対局で共同研究の手を指したのは間違いないだろう。だが、平畑はそのことを隠したまま亡くなった。
大橋も師匠の事件をこれ以上暴く気にはなれなかった。平畑が共同研究の手を指していたところで、将棋連盟にはもう記録さえ残っていないのだ。
天才プログラマ渡瀬の開発した「宗歩」は従来の将棋ソフトとは比べ物にならないほど強かった。それどころか、「宗歩」を使った黒柳を七冠王にさせるほどの実力があった。
赤津に弱点を発見されるまで、「宗歩」は勝ち続けたのだ。復讐のためとはいえ、渡瀬は将棋プログラムを飛躍的に発展させたとも言える。
渡瀬の開発した「宗歩」はもうどこにも残っていない。ソースコードも何者かの手によって抹消されていたようで、警察がいくらコンピュータを調べても「宗歩」のソースコードは見つからなかったと玲子が言っていた。
いったいだれがソースコードを持ち去ったのか……。
そのとき大橋ははっと気づいた。もしかすると、「宗歩」のソースコードを消したのは赤津ではないだろうか。
赤津は渡瀬が殺される前日に渡瀬と会っている。そして次の日、平畑に渡瀬が殺されたあと、赤津はヘヴンフィールドを再び訪問している。
ヘヴンフィールドで渡瀬が殺されているのを発見した赤津が、コンピュータの中のファイルを消し去り、バックアップと思しきメディアを持ち去ったと考えれば、一番辻褄が合う。
赤津はパソコンには詳しい。パソコンの中のファイルを検索して消すことくらい簡単にできるだろう。ファイルを抹消してヘヴンフィールドを出たところを、玲子に目撃された。
それならば赤津は、なぜ兄の城山にそのバックアップメディアを渡さなかったのだろう。
将棋ソフトが名人を凌駕する。赤津はそのことを危惧していたのだろうか。
コンピュータが名人に勝つようになると、プロ棋士の存在価値は半減するかもしれない。お金を出してプロ棋士の対局を観戦するより、安価の将棋ソフト同士を戦わせたほうがレベルの高い将棋が観戦できるからだ。赤津は棋士という職業の存在意義がなくなることを憂えていたのだろうか。
いや、そうではない。名人にも勝てる将棋ソフトが開発されたときに、将棋界がどう変わるのかは、本当のところは、だれにも予測できない。チェスの世界でも、コンピュータが人間に勝ったためにチェス人口が激減したという話は聞かない。
しかし、ひとつだけ気懸かりなことがある。プロ棋士が究極の手の探求を、コンピュータに委ねるようになってしまう、ということだ。
それはコンピュータに対局で負けたというような単純なものではない。棋士がコンピュータに完全降伏したことを意味する。
赤津は棋士が一時的にコンピュータに負けることによって、棋士が究極の手を追求しなくなることを、最も恐れていたのではないだろうか。だからこそ赤津は人間にしか指せない手を指し続けた。赤津は将棋界が孕んでいる危険性を察知し、回避しようとした。赤津は棋士の創造力が決してコンピュータに負けないことを証明しようとしたのだ。
いつの日か、コンピュータが人間を凌ぐようになるかもしれない。
しかし、それはあくまで人間の無限の発想力に基づいて作られたものであり、真に棋士が敗北するものではない。人間は豊かな発想力を武器にいずれはコンピュータに打ち勝つだろう。
赤津の遺志を引き継がなければならない。将棋の必勝法が解明されるのは、まだずっと先のことだ。いや、究極の棋譜を作るなど、永久に無理かもしれない。けれども大橋は将棋を指し続けるのだ。究極の指し手にわずかでも近づく新しい定跡を考案する。これはプロ棋士にしかできないではないか。
眠っていたゴローが、起き上がって体を震わせながら伸びをすると、大橋に体を摺り寄せてきた。
「よしよし」
大橋が平畑の口真似をして背中を撫でてやると、ゴローは気持ちよさそうに目を細め、喉をゴロゴロと鳴らした。
ふと縁側の片隅に置いてある将棋盤に気づいた。将棋盤の上には、水無瀬書体の黄楊の駒と、平畑の著作の「序盤の構想力」という本が置いてあった。
立ち上がって将棋盤の前に正座すると、大橋は棋書を開き、駒を並べ始めた。
ゴローがゆっくりとした足取りで近寄ってきた。ゴローは大橋のひざに飛び乗ると、大橋を見上げ、安心したように目を閉じた。

(了)