〔39〕

渡瀬が殺されて、数ヶ月が過ぎた。
大橋と赤津の竜王挑戦者決定戦の第三局が終わり、赤津が勝負をものにした。
その日、黒柳は自宅のマンションにいて、後輩棋士に二人の対局の棋譜を電子メールで送ってもらっていた。赤津は最近めきめきと実力をつけている。黒柳は一抹の不安を感じた。「宗歩」の強さは間違いないが、赤津や大橋の強さは、他の棋士たちに比べると、一歩抜きん出ている。まさか「宗歩」が負けることはないだろうか。
だが黒柳はいまや「宗歩」を信じるしかない。「宗歩」の読みは並みの棋士をはるかに凌ぐ。それは「宗歩」を使っている黒柳がよく知っている。赤津がどれほど実力をつけていたとしても、「宗歩」には勝てないだろう。黒柳は自分にそう言い聞かせることで、不安感を解消しようとしていた。
しかし「宗歩」を信じようとすればするほど、不安な気持ちは募ってくる。赤津が第三局で大橋を破った将棋は、「宗歩」の得意戦法である穴熊に対抗する有効な戦法だ。黒柳との対局でもあの戦法を出してくるかもしれない。
赤津の穴熊対策の棋譜を宗歩に学習させるのが最もよい対策だが、宗歩の学習機能を操作できるのは渡瀬しかいない。渡瀬が生きていればなんとか対策も立てられるのだが、いまとなってはそれもできない。
突然オートロックマンションの共同玄関のインターホンが鳴った。黒柳が受話器を取ると、ぶっきら棒な声が聞こえてきた。
「赤津だ。ちょっと話がある」
赤津が黒柳のマンションを訪れるのは初めてなので、黒柳は驚いた。
「どうしたんだ? おまえが来るなんて珍しい……」
黒柳の言葉を途中でさえぎると、赤津は感情のない声で言った。
「ここを開けてくれ」
いぶかりながらも、黒柳は共同玄関のオートロックを解除した。赤津が十五階の部屋に来るまでのあいだ、黒柳は考えた。
赤津は黒柳を毛嫌いしていて、一度もここを訪れたことがないではないか。悪い知らせではないかと黒柳の直感がそう囁く。
玄関のインターホンが鳴り、黒柳がドアを開けたとき、黒柳のいやな予感は確信に凝固した。
赤津はドアの前で怒ったように黒柳を睨んでいた。瞳は真っ直ぐに黒柳に向けられており、引き締まった口元はなにかの決意を感じさせる。頬骨のあたりがうっすらと赤らんでいた。
「どうしたんだ? 今日は第三局が終わったばかりじゃないか?」
黒柳は無理に笑うと、赤津を部屋にいざなった。しかし赤津は硬い表情のまま、その場から動こうともしなかった。
「おまえ、渡瀬龍一の将棋プログラムをずっと使って勝ってたんだな?」
赤津がそう言ったとき、黒柳の心臓が跳ね上がった。なぜ赤津はそのことを知っているのだ。
「なんのことだ?」
赤津は汚いものでも見たように顔を背けると、吐き捨てるように言った。
「おまえはいま持っているタイトルをすべて返上しろ。それから速やかに棋士を辞めろ」
「赤津、おまえ、なにを言ってるんだ?」
赤津は黒柳の問いには答えずに、横を向いたままで言った。
「おまえが将棋連盟を去れば、このことはだれにも喋らないでおく。これはおまえへの唯一の温情だ」
赤津の目は心なしか寂しそうな光を宿していた。
「なんでおれが将棋連盟を辞めなければならないんだ?」
赤津は鎌をかけているだけなのかもしれない。うかつになにか喋って言質を取られるのは避けたかった。
赤津は哀れんだような目を黒柳に向けると、判決を下す裁判官のような表情で、決めつけるように言った。
「一週間以内に辞めろ。そうしないとおれは洗いざらいすべてを連盟に話すつもりだ」
赤津は踵を返すと、立ち去っていった。

赤津が立ち去ったあと、黒柳はぼんやりとドアを眺め、しばらくのあいだ放心状態に陥っていた。
赤津は黒柳の最大の秘密を知ったのだ。赤津がどういう手段で事実を掴んだのかわからなかったが、黒柳にとって、そんなことは重要ではない。赤津は黒柳が「宗歩」を使って勝っていたことを知った。その事実が重要なのだ。
黒柳は必死で対処策を考えた。赤津の確信したような表情から鑑みて、黒柳の不正の事実をかなり詳しいところまで知っていそうだ。だとしたら、黒柳に残された道は二つだけだ。
ひとつは、赤津の言う通り、すべてのタイトルを返上し、速やかに将棋連盟を辞めることだ。将棋を指す気力がなくなったとでも伝えて、将棋連盟を立ち去るのだ。そうすれば赤津は、黒柳が「宗歩」を使っていたことは黙ってくれるだろう。赤津は変わった男だが嘘はつかない。黒柳が将棋連盟を去れば、それ以上追求しようとはしないだろう。
いや、それはできない。将棋連盟を辞めるということは、いままで黒柳が手に入れたものをすべて捨て去るということだ。プロ棋士としての地位、収入……なにもかも投げ出さなくてはならない。
幼いころから遊ぶのを我慢して、ひたすら将棋に邁進してせっかく手に入れた地位を、黒柳は手放したくなかった。たしかに黒柳が七冠まで獲ったのは「宗歩」のおかげかもしれない。だが、「宗歩」がなくてもタイトルのひとつや二つくらいなら、いつかは獲れたはずだ。
黒柳が棋界の代表としてマスコミに露出したおかげで、将棋人口が増加し、将棋人気が高まったではないか。容姿の醜い地味な棋士がタイトルを獲ったところで、マスコミは騒がない。あくまで華やかなルックスを持つ黒柳がタイトルを獲ったから、マスコミだって注目したのだ。それは黒柳の功績ではないか。
だいいち、いま黒柳がタイトルを返上して将棋界を去るなど、将棋連盟が許してくれるわけがない。すべてのタイトルを持った棋士が、いきなりプロ棋士を辞めるなど、将棋界にとって前代未聞の出来事になるに決まっている。七冠を達成した将棋界のプリンスである黒柳が、自分だけの一存で将棋連盟を辞められるわけがない。
もうひとつ。黒柳には第二の選択肢が残されていた。赤津の要求をいっさい無視することだ。赤津が将棋連盟に訴えたとしても、しらを切りとおすのだ。
黒柳が「宗歩」を使ったという証拠はどこにもない。黒柳が否定すれば調べようがないはずだ。黒柳は社交的で礼儀正しいので、連盟理事には受けがよい。
一方、赤津は棋士のあいだで、はなはだ評判が悪い。赤津の告発を黒柳が全面否定すれば、だれも赤津の言葉を信用しないのではないか。それどころか、黒柳を陥れようとする赤津に、将棋連盟から処罰が下される可能性だってある。
そこまで考えて黒柳はいくらか平静を取り戻した。黒柳がうまく動けば、少なくとも棋界追放という事態は逃れられそうだ。
黒柳が「宗歩」を使って勝っていたことを打ち明けるのは、自分のためにも、将棋界のためにもならない。「宗歩」なんてソフトなど、見たことも聞いたこともないと言い続けるのだ。
ただその場合、はっきりさせたいことがある。黒柳が「宗歩」を使っていることを、赤津がどのような手段で知ったのかということだった。
まさか渡瀬が赤津に黒柳の秘密を教えたのだろうか。渡瀬と赤津、最も相容れないような関係だが、黒柳に何度も負けて絶望した赤津が黒柳に勝つため、コンピュータの力を頼ろうとしたと考えられないだろうか。
もし彼がなんらかの証拠を握っている場合、黒柳が将棋界に居座り、赤津の言葉を否定するのは最も愚策になる。赤津に証拠を突きつけられ、黒柳は棋界追放になる。それどころか悪あがきをした人間として、永遠に蔑まれるだろう。
赤津が証拠を持っているかどうかによって、黒柳の最善の行動は変わってくる。
赤津に会って確認してみよう。赤津が黒柳の不正の証拠を持っているようであれば、赤津の言うことを素直に聞いて、棋士を引退する。赤津が証拠を持っていないようであれば、ひたすら否定する。
あれこれ考えているうちに、黒柳は居ても立ってもいられなくなった。黒柳は身支度を整えると、赤津のアパートに向かった。

赤津の部屋の郵便ポストには督促状と思われる封筒が溢れていた。
こんな劣悪な環境でも生活できるのだろうか。黒柳は子供のころ、借金取りが家に来たことを思い出して、陰鬱な気持ちになった。
黒柳が部屋のドアをノックすると、ほどなくしてドアが開き赤津が顔を出した。
黒柳の姿を見た赤津は露骨に嫌な顔をすると、冷たい目をして言った。
「まだ用事があるのか?」
「さっきの件なんだけど……」
「その話はもうしたくない。早く棋士を辞めろ」
とりつく島もない赤津の態度だったが、諦めるわけにはいかない。黒柳は素早くドアの内側へ入り込んだ。
「いったいだれからそんな突拍子もない話を聞いたんだ?」
赤津は口元に軽蔑したような笑みを張りつかせた。
「おまえはまだしらばっくれるつもりか。おれにはすべてわかっているんだ」
「いったいなにをわかっているんだ?」
「おまえが渡瀬の開発した将棋ソフトを使って、公式戦で勝ち続けてきたことをだ」
「なにを根拠にそんなことを言っているんだ?」
赤津が黒柳をぎろりと睨んだ。
「証拠を出せと言ってるのか?」
「そういうことを言ってるんじゃないんだ。でも、どうしておまえが渡瀬という人物を知ってるんだ?」
「渡瀬はおれの兄貴の会社から人工知能の思考アルゴリズムの研究成果を盗んだ。そのアルゴリズムを使って、やつは将棋ソフトを開発していたんだ。おれがやつに直接会って確認したから間違いない」
「その渡瀬という男がなんでおれと関係があるんだ?」
「おまえの棋譜を見れば一目瞭然だ。おまえの将棋は感情を持ってないまがい物の将棋だ。人間が指した将棋じゃないからだ」
「そんな程度のことでおれを疑うのか?」
「今日の大橋の将棋はおまえとそっくりだった。たぶんやつも渡瀬のプログラムを使っていたんだろう。ただ、あいつの棋譜を調べたが、おまえと違ってある一時期しか使ってないはずだ」
黒柳は慎重に言葉を選びながら訊ねた。
「もしそれが本当だとして、大橋にはソフトの使用を止めさせないのか?」
「言うまでもなく、そうするつもりだ」
「大橋にも棋士を辞めさせるつもりか?」
「大橋はおまえと違って優れた将棋指しだ。おまえのようにプログラムに頼らなくても、素晴らしい将棋を指せる。棋士は辞めさせない」
「じゃあ、なんでおれにだけ棋士を辞めろと言うんだ?」
赤津は黒柳に哀れんだ目を向けた。
「おまえはプログラムに頼りきってるうちに、どんどん弱くなった。いまのおまえの実力はC級2組以下だろう。いても仕方がない棋士だ」
最も痛いところを衝かれたような気がして、思わず強い口調になった。
「ふざけるな。おれの将棋はおまえなんかに馬鹿にされるようなもんじゃない。おれと大橋の将棋が似ていたと言っていたけど、似たような将棋なんてどこにでもあるじゃないか」
赤津は嘲笑した。
「おまえは証拠が残っていなければ、しらを切りとおせると踏んでいるのだろう。おまえがそう思ってるのなら、そうしろ」
黒柳はたまらず赤津の肩を掴んだ。
「なにをするつもりなんだ?」
赤津は黒柳の手を払った。
「おまえがとぼけるつもりなら、おれは将棋連盟やマスコミに不正行為の情報をリークするつもりだ。おまえはただのデマだととぼけるだろうが、噂が広がると将棋連盟もなんらかの対処をしなければならなくなる。そうしたら、おれは機を見て、将棋連盟に対局の際にはボディチェックをするように進言する。そうすることによって、公明正大さを内外にアピールできるからだ。そして、ボディチェックをし始めたと同時に弱くなった棋士のことを、周りの人間がどう思うのか見ものだな」
黒柳ははっとした。そんなことをさせては破滅だ。なんとかして赤津を止めなければならない。このとき黒柳の心の中で殺意が徐々に芽生え始めていた。
「わかった。おまえの言う通りにする。すまなかった」
黒柳が観念したように頭を下げて見せると、赤津は静かに言った。
「わかったなら、帰れ」
「ちょっと待ってくれ。おれの話を聞いてくれないか。こうなったのには事情があるんだ」
「事情?」
「とりあえず中で話そう」
黒柳はドアに鍵をかけると、靴を脱ぎ、赤津の部屋の中に入っていった。
赤津は戸惑っていたようだったが、黒柳のあとについてきた。
黒柳はコタツの脇においてある五寸の本榧の将棋盤に目を止めた。黒柳はおもむろに将棋盤に近づくと、将棋盤を手に取った。
さすがに赤津も異変に気づいたようだった。
「なにをしてるんだ?」
黒柳は振り向きざまに、将棋盤を振りかぶると、渾身の力を込めて将棋盤を赤津の頭に叩きつけた。
割れるようないやな音がして、赤津がその場に崩れ落ちた。
黒柳は将棋盤を斜めに構えると、将棋盤の角を赤津の頭部めがけて叩きつけた。懇親の力で何度も何度も将棋盤を叩きつけた。
断末魔のうめき声のようなものが聞こえたのを最後に、赤津はぴくりとも動かなくなった。
黒柳は将棋盤をその場に投げ捨てると、急いでハンカチを取り出し、自分の指紋を拭き取った。
そうしてすぐに赤津の部屋から逃げ出した。

〔40〕

そこまで話し終わると黒柳は深々と息を吐いた。
気づくと「千駄ヶ谷」の中にはだれも客がいなかった。大橋と黒柳がカウンターの隅で飲んでいるだけで、店の人間はボックス席に座って談笑していた。
黒柳は慣れた手つきで煙草に火をつけると、沈痛な面持ちで口を開いた。
「おれはなに食わぬ顔をして、マンションに戻った。おれと赤津を繋ぐものはなにもなかったからだ。黙っていれば、絶対におれがあいつを殺したとはわからないと思ったんだ」
大橋は黒柳が「宗歩」を使い続け、その呪縛から逃げられないのが痛いほどわかった。それほど「宗歩」は強く、棋士の自信さえも打ち砕くほどの存在だったのだ。
「でも、おれがあいつを殺したのは、決して『宗歩』を使っていたことを隠そうとしたためだけじゃないんだ。あいつはこう言った。大橋は将棋界に必要な人間だけど、おまえは必要のない人間だ。だから棋士を引退しろ、と。おれはそのことが許せなかったんだ。おれは赤津やおまえには負けたくないとずっと思ってた」
黒柳は続けた。
「竜王戦一局、二局と『宗歩』で負けたあと、第三局おれは自分の力でおまえに挑んだ。結果はあの通りの惨敗だ。まったく将棋にもならなかった。でもあれがおれの実力だったんだ。結果として、赤津の眼力は正しかったということになる」
黒柳の片頬には見たことのないようなゆがんだ笑みが張りついていた。
「第四局、おれは再び『宗歩』を使った。ところが、おまえに必至をかけられた局面で、『宗歩』が突然動かなくなった。おれは懸命に手を考えたが、即詰みにはできなかった」
「あれは渡瀬が作ったプログラムの最大の罠だったんだろう。七冠王でさえ、あの局面で即詰みに討ち取れなかった。だから父親の重太郎は共同研究によって負けたに違いない、と」
「おれは渡瀬龍一にまんまと嵌められたわけだ」
黒柳は自嘲気味に頬をゆがめた。
渡瀬は将棋連盟への恨みをずっと抱き続けていて、復讐の機会を狙っていた。そして赤津に脅威を抱く黒柳と奨励会でくすぶっていた大橋が復讐の材料として選ばれたのだろう。
黒柳が大橋の顔を見つめた。
「でも、だれが渡瀬龍一を殺したんだろう?」
まったく心当たりがないわけではなかった。それは赤津だ。玲子は事件当日赤津らしき人物を見かけている。赤津は将棋を冒涜した渡瀬を許せなかったのだろうか。
だが赤津が渡瀬を殺したとは大橋には思えなかった。それにもうひとり気になる人物がいた。
「心当たりでもあるのか?」
大橋はかぶりを振った。
「いや、まったくわからない」
黒柳は失望したように声を落とした。
「そうか……」
「明日おれは将棋連盟に行ってすべてを話すつもりだ。おまえも警察に自首してくれるか?」
大橋の言葉に、黒柳が頷いた。
「その前に、おまえの『宗歩』を貸して欲しい。おれの『宗歩』は動かなくなったきりだ。警察に行ったとき、証拠になりにくい。おまえのをちょっとだけ貸してくれると助かる」
大橋はバッグから「宗歩」を取り出すと、黒柳に手渡した。
「明日必ず自首してくれ。おれも将棋連盟にすべてを話して棋士を辞めるつもりだ」
黒柳は充血した目を大橋に向けた。
「田舎のおふくろが去年の冬死んだんだ。彼女は最後までおれが七冠王であることを信じたまま逝ってくれた。おれにとってそれだけが唯一の救いだ」
そのとき黒柳の様子がおかしかったことに、大橋は気づかなかった。

翌朝、進藤からの電話で大橋は叩き起こされた。
「大橋さん、黒柳六冠が自殺しました。いま将棋連盟はシャレにならないほど大騒ぎになってますよ」
大橋は息を呑んだ。
「もしもし、大橋さん聞いてますか? 黒柳さんが自殺したんですよ」
進藤の言葉をぼんやりと聞きながら、大橋はしばらくのあいだ、思考のまとまりがつかずに放心していた。
電話を切ると、大橋は混乱した頭で考え始めた。
黒柳は最初から自殺するつもりだったのだ。だからすべてを大橋に打ち明けたのだ。
それならば、なぜ黒柳は大橋から「宗歩」を借りていったのだろうか。
いくら考えても、思考は虚しく空転し、底なし沼のような深い喪失感だけが大橋に残っていた。
(続く)