●第四章

〔36〕

──五年前──。
順位戦でB級1組に昇級した黒柳は嬉しい反面、これからもっと厳しくなるであろう順位戦に、不安を抱かずにはいられなかった。
十九歳で新四段になり、それ以来、黒柳は比較的順調に順位戦を昇級し、今年はB級1組になった。もう今年で二十五歳になる
ただ自分の力に限界を感じ始めているのも事実だった。小さなころ黒柳は自分の才能に疑問を抱いたことなどなく、自分は名人になる器だと信じていた。
しかしもともとプロ棋士を目指すような人間たちは、みな天才なのだ。黒柳ほどの才能を持った棋士など、プロの世界では珍しくない。
まだC級やB級2組に所属しているあいだは、運良く勝ち進むことができた。だが来年から「鬼の棲家」と呼ばれるB級1組を勝ち上がり、さらにトップ棋士のいるA級で、過酷な順位戦を戦わなければならない。
先輩棋士たちにはまだ勝つ自信があった。将棋のスタイルも旧態依然としており、黒柳にとってはさほど脅威ではない。しかし、黒柳がどうしても勝てないと思っている棋士が二人いた。
ひとりは大橋だった。大橋はよく冗談で、おれは大橋宗桂の末裔だと言っていたが、本当にそうではないかと思うほど、バランスの取れた将棋を指す。序盤の発想力は素晴らしく、指し手はいつも論理的だ。勝負弱さゆえか、いまはまだ三段リーグでくすぶっているが、彼が新四段になったときには、黒柳にとって大きな脅威になるだろうと思っていた。
もうひとりは赤津だった。黒柳にとって、赤津が最も恐ろしい棋士だった。一見理論を度外視するような将棋を指しているように見えるが、彼の将棋はスケールが非常に大きい。さほど勝率は目立たないが、本気になったときの彼の実力は並大抵のものではない。
赤津は今年C級1組に昇級を果たした。すさんだ私生活を送っているのと、むらっ気があるため、なかなか結果に結びつかなかったが、静かに着実に黒柳に忍び寄ってきている。
だからこそ二人よりも先にタイトルを取って、棋界の第一人者を目指さなければならない。
黒柳は今年初めて棋聖位に挑戦する。もしこれに勝てばタイトルホルダーとなり、第一人者の仲間入りができるのだ。勝てば収入はぐんとアップする。
基本的に将棋指しになれば、最低限の生活は保障される。だが、C級2組で悪い成績を取り続けると、プロ棋士の資格を失う。そのことが一番怖い。歳を取れば、必然的にいつかは将棋が弱くなっていく。若いうちにどれだけ稼げるかが重要なのだ。黒柳の家庭は貧しかったので、金銭に対して人一倍執着があった。
ある日、黒柳が将棋連盟での対局を終えて近くの食堂で食事をとっていると、見慣れない男が隣に座った。
その男は渡瀬龍一と名乗り、黒柳に言った。
「僕と一緒に名人を目指しませんか?」
黒柳はあっけに取られた。彼は将棋界における「名人」の持つ言葉の重みを知っているのだろうか。
「失礼ですが、あなた将棋はご存知ですか?」
「いえ、まだルールは知りません」
「将棋を知らないあなたが、なぜ名人を目指すのですか?」
「将棋界では名人が一番強いんでしょ?」
「現在ではタイトルが七つあって、名人が一番強いとは言い切れません。まあ、一番有名なタイトルであるのは間違いないですが」
渡瀬はまったく関心がなさそうに、黒柳の説明を聞いていたが、「ああ、そうですか」と面倒くさそうに呟いた。
「だいたいあなたは気軽に名人などと口走るが、将棋を知らないあなたがどうやって名人を目指せるのですか?」
「僕は将棋のルールと勝ち方さえわかればいいんですよ」
渡瀬はわけのわからないことを言って、からからと笑った。
「どういう意味ですか?」
渡瀬は不器用に片目を瞑り、意味ありげに笑った。
「僕の開発した将棋ソフトを使うんですよ。いまはまだアマチュア名人クラス程度の実力しかありませんが、あなたと一緒に名人クラスの将棋ソフトを作ろうと思っているのです」
「ソフトを使う? それは不正行為ではないですか」
プロ棋士に将棋ソフトを使って勝てなど、失礼極まりない。黒柳は強い調子で言ったが、渡瀬は気にもしていないようだ。
「あれ? 黒柳さんはそんな些細なことを気になさるんですか?」
渡瀬の人を見透かしたような物言いが、癪に障る。
「プロ棋士として当たり前でしょう。そんな用件なら、私はこれで……」
黒柳が立ち上がろうとしたとき、渡瀬は懐から四角形をした黒色の機械を取り出した。大きさは掌に収まってしまうほど小さく、液晶画面に将棋の升目が表示されている。
「これが僕の開発した『柳雪』というプログラムなんです」
「柳雪というと、大橋柳雪のことですか?」
「そう、天野宗歩が師と仰いだ大橋柳雪です」
将棋を知らないくせに、天野宗歩や大橋柳雪を知っている渡瀬に、黒柳は少し興味を持ち始めていた。
渡瀬は黒柳の耳元で囁いた。
「これくらいの大きさなら、ポケットに入れても大丈夫でしょ? 振動で次の手を教えるので、使い方はすぐに慣れますよ。僕が使ってみますので、ちょっと対戦してみませんか?」
黒柳は渡瀬の申し出に興味を持った。どうせ今日は対局がない。少々変わったこの男の酔狂に付き合っても悪くない。
将棋連盟の道場で二人は対局した。渡瀬の手つきは、将棋を覚えたての初心者のようにぎこちなかった。そればかりか升目を指で数えながら、駒を置いていた。
その割りに、やたらと粘り強い将棋を指した。棋力はたしかにアマチュア名人クラスの強さで、プロ棋士と比べてもあまり遜色ない。さすがに黒柳が勝ったが、「柳雪」の強さに舌を巻いた。しかも、彼がソフトを使用しているようにはとうてい見えなかった。
「市販の将棋ソフトよりもワンランク強いじゃないですか」
黒柳が感嘆の声を上げても、渡瀬は冷静な顔をしたままだった。
「この程度で驚いちゃいけません。こいつは現段階でのプログラムを小さなハードウエアに組み込んだだけのものです。僕がこれから開発する『宗歩』の強さは、おそらく名人クラスですよ」
「このプログラムはだれが作ったんです?」
「僕が働いてる会社の製品で、『アルゴ将棋』という製品です。しかし、このプログラムでさえ、終盤の力はプロ以上です。いまのあなたが持って指すと、計り知れない威力を発揮できると思いませんか?」
「それはそうですが……」
たしかに最近市販されている将棋ソフトは、終盤の詰むや詰まざるやといった局面では大いに手助けになる。終盤では考えられる手の選択が少なく、コンピュータがすべての手を探索しやすいからだ。すべての手を探索して、そこに即詰みの筋があった場合、コンピュータは間違いなく相手を即詰みに討ち取ることができる。
「あなたは将棋のことを、たかがゲームとして考えているんでしょう。人間がゲームをしようが、コンピュータがゲームをしようが、別に大差ないとは思いませんか?」
どうやら渡瀬は黒柳の性格までも調べているようだ。この男の目的はなんなのだろうか。
渡瀬がにたりと笑った。
「あなたは僕がなんのためにこんな話をしているか不安なんでしょう」
渡瀬は財布から古ぼけた名刺を取り出して、黒柳に渡した。名刺には「アルゴリズム技研 技術部長 渡瀬龍一」と書いてあった。
「僕はこの会社から、いままでの僕の研究結果を盗み出し、最強の将棋ソフトを作ります。僕のほうは働いていた会社からノウハウを盗み出すわけですから、見つかった場合には刑事告訴されます。あなたの場合は、ゲームを使っただけですから犯罪にまではならないでしょう。それに現行犯じゃない限り、いくらでもしらばっくれることができる。おいしい提案だとは思いませんか?」
「要するに、私にこのプログラムを利用して勝てとそそのかしているわけですか?」
渡瀬は不敵な笑みを浮かべた。
「まあ、はっきり言えばそういうことです。でも、そそのかしているわけではない。僕はあなたに提案をしているんですよ」
「私にこんなものを使わせて、あなたにはどのようなメリットがあるんですか?」
「僕の目標は将棋の必勝法の探求です。そして最強のプログラムを開発して、ひと儲けすることです」
「最強のプログラム? たかだかアマチュア名人程度の実力しかないじゃないですか?」
「ですから言ったでしょう? 僕がこれから最強のシステムを開発するんです」
渡瀬の自信満々な態度に、黒柳は鼻白んだ。
「日本中のプログラマたちが必死で開発して、アマ高段者程度の実力を出すのが精一杯なんですよ。たしかにこのソフトはそれらよりワンランク強いようですけど、それがいまのところの限界でしょう。あなたひとりでそんな強いプログラムを作れるわけがない」
「たしかに普通の人間では無理でしょうね。でも、僕は天才ですから……」
これ以上渡瀬と話しても無駄だろう。それに胡散臭い彼の言葉を全面的に信じるのは危険すぎる。
「そういう話なら、だれか別の人にしてください。この機械はお返しします」
黒柳が「柳雪」を返そうとすると、渡瀬は手を上げて押し止め、笑顔で言った。
「ああ、『柳雪』はあなたに差し上げますよ。実際に使って対戦してみてください。ものすごい効果がありますから」
渡瀬が含み笑いをすると、落ち窪んだ瞳で黒柳を見つめた。
「まあ、いきなり僕を信じろといっても、無理かもしれません。あと一年待ってください。僕はいまの会社を辞めて、新しく会社を設立します。『柳雪』を超えるソフトウェアを開発して、一年後に持ってきます。そのときにまた僕と対戦しましょう」
渡瀬の自信に満ちた表情が、黒柳の心に小さな棘が刺さったように引っかかった。
渡瀬と別れたあと、黒柳は練習将棋で「柳雪」を使ってみた。黒柳が思っていた通り、「柳雪」は終盤では絶大な威力を発揮した。コンピュータだけあってミスがまったくなかった。終盤でミスがないと、つまらない負けがなくなる。特に黒柳は終盤があまり得意ではない。このソフトを使えば勝率がアップするのは間違いない。
しかし、公式戦では一度も「柳雪」を使わなかった。渡瀬という男がいまひとつ信用できなかったし、なによりもプログラムを使って対局したことがばれたら、将棋連盟をクビになるくらいでは済まないからだ。
日々に忙殺されるうちに、黒柳は渡瀬のことを次第に忘れていき、やがて一年が過ぎた。

〔37〕

一年後、黒柳は無冠のままだった。
タイトルには何度か挑戦したが、いつもここ一番で負けてしまう。順位戦も七勝五敗と振るわず、現状維持にとどまった。
赤津のほうは好調のようで、全勝でC級1組を勝ち上がり、B級2組に昇級を果たしていた。赤津は黒柳の背後まで迫ってきている。
何度も「柳雪」を公式戦で使おうと考えたが、恐ろしくて使えなかった。練習将棋では終盤に「柳雪」を使って対局してみた。結果黒柳の弱点の終盤を「柳雪」がカバーし、勝率が目に見えて上がった。
そのため公式戦より勝率が高くなり、親しい棋士仲間からは「本番に弱い男」とからかわれるようになった。次第に黒柳は「柳雪」を使用することに抵抗を感じなくなっていった。
そんなある日のこと、対局を終えた黒柳が将棋会館を出ると、渡瀬が外に立っていた。
驚いて声を上げた黒柳を見つけると、渡瀬は親しげに近づいてきた。
「やあ、黒柳さん。約束通り『宗歩』が完成しましたよ。さあ、僕と対戦しましょう」
有無を言わせない感じだった。虚を衝かれた黒柳はつられるように頷き、一年前に対局した道場へ向かった。
八十八手の短手数で、黒柳はあっという間に負けた。
「信じられない……」
茫然とうめき声を漏らす黒柳に、渡瀬は微笑み、ポケットから「柳雪」そっくりの機械を取り出した。
「ね? 僕の言った通りでしょ。これで僕を信用してもらえますか?」
黒柳は無言で頷いた。
「じゃあ、『宗歩』を使ってくれますか?」
「でも、こんなことをして、あなたにとってなにかメリットはあるんですか? こんなに強いプログラムができたのなら、これを売り出せば滅茶苦茶売れますよ」
「おや、あなたは僕が一年前に言った内容を覚えていないんですか? 言ったでしょう。将棋の必勝法をコンピュータで実現するのが僕の夢だと。それにこのシステムは以前僕がいた会社のソースコードをかなり使っています。訴えられたら、非常にまずいことになるんです。もう少し改良して、オリジナルのソースコードに修正してから販売しなければなりません。そのためにも黒柳さん、あなたに協力して欲しいんです」
意味がわからず、黒柳は小さく呟いた。
「協力、ですか?」
「簡単なことです。『宗歩』で対局するだけでいいんです。あなたが『宗歩』を使って経験値を上げてくれれば、おのずから『宗歩』は強くなっていきます。一ヶ月に一度だけ、僕の会社に『宗歩』を持って来てください」
渡瀬は名刺を取り出して、黒柳に渡した。「株式会社ヘヴンフィールド 代表取締役 渡瀬龍一」と書いてあった。
渡瀬は名刺を指差した。
「毎月十日に、『宗歩』を僕のオフィスに持って来てくれればいいだけです。次に来るとき、『宗歩』と『柳雪』を持って来て下さい。『柳雪』はもう必要ありませんから、僕が処分しておきます」
「しかし……」
「心配はいりません。僕自身、以前勤めていた会社からシステムを盗んだのではないかと疑われているので、派手な動きはできないんです。だいいちあなたを陥れても僕にはなんのメリットもない。この一年間、僕はあなたにいっさい干渉しなかったでしょう。僕の興味はプログラムを強くすることだけなんです。黒柳さんには僕のお手伝いをして欲しいだけです。ただ、なんのお礼もなしにお手伝いしてもらうのは図々しい話ですよね。でも、あなたが『宗歩』を使って勝ってくれれば、そのお礼ができるわけでしょ」
渡瀬は顎をしゃくった。
「とりあえず『宗歩』をお貸しします。使わなくても結構です。決断したら使ってください。僕は将棋界についてはよく知りませんが、これはあなたにとって非常に魅力的な提案だと思いますよ」
自信ありげに渡瀬はそう言うと、唖然としている黒柳を尻目に、素早く立ち去っていった。
家に帰ると黒柳は渡瀬について、インターネットで調査した。彼はT大学で人工知能を研究し、博士号を取得していた。業界内ではそれなりに名が売れている男らしい。
「宗歩」の強さは並大抵のものではない。おそらく名人クラス以上だろう。しかも渡瀬のT大学博士号というブランドが黒柳を安心させた。
加えて渡瀬は本当に将棋プログラムの開発だけに興味があるように思えた。ことが表面化すると、渡瀬の立場も悪くなるという安全弁が、最後に黒柳の背中を押した。
次の日から黒柳は「宗歩」を使い、公式戦を勝ちまくった。

〔38〕

「宗歩」を使い、黒柳は七冠の偉業を達成した。
黒柳は押しも押されもせぬ将棋界の第一人者になった。マスコミは七冠を達成した棋界の新星をこぞって取り上げた。CM出演依頼が来るようになり、黒柳は将棋指しとして国民に広く認知されるようになった。
「宗歩」は強かった。黒柳も「宗歩」と数多く対局したが、勝率は二割を切っていた。それほど強い「宗歩」に黒柳は心底驚き、渡瀬の才能に驚嘆した。
あれから渡瀬の会社を毎月十日に訪れていた。できるだけ顔を隠して欲しいと言われていたので、サングラスをかけて帽子を深々とかぶってヘヴンフィールドに行った。受付の女性と話すときにも声色を使い、顔を伏せて接した。
黒柳は棋士の中では、性格が明るいことで有名だったうえに、テレビCMに出演の際には、いつも陽気な笑顔を見せていた。世間の黒柳に対する評判は、明るいさわやかな将棋指しというイメージだ。受付の女性も「ヘヴンフィールド」に来ている男が、まさか黒柳だとは気がつかないだろう。
渡瀬は最初の言葉どおり、黒柳にはなにも要求しなかった。棋界の情報にも疎く、黒柳が名人になったときでさえ、「ああ、そうですか」とつまらなそうに答えるだけだった。彼の無関心な態度が、黒柳をさらに安心させた。いたずらに将棋界に関心を持たれて、報酬を請求されたら堪らない。
渡瀬は黒柳が莫大な収入を得るようになったことを知っても、たいした興味は持っていないようだ。それどころか、黒柳が「宗歩」を使って収入を得ていることを喜んでいるようだった。
その一点に於いて、渡瀬はお金が目的ではないとわかった。おそらく彼のような優れた技術があれば、生活するに困らないだけの金は稼げるのだろう。
渡瀬は金銭への執着は希薄だったが、『宗歩』の勝敗結果に対しては異様なほど執着した。将棋の必勝法を本気で編み出そうという渡瀬の執念で、「宗歩」は日増しに改良されていった。
渡瀬は技術者としては信頼できるパートナーだった。黒柳が時間をかけ、能力の限りを尽くして指し手を考えるより、「宗歩」のほうが短時間で素晴らしい手を考え出した。
「宗歩」のお陰で、最も脅威を感じていた赤津にはほとんど負けなくなった。さすがの赤津も「宗歩」の正確さにかかっては苦労しているようで、「宗歩」の冷静な指し手に翻弄された。順位戦はかろうじてA級に昇級したようだが、もはや「宗歩」の敵ではなかった。
やがて大橋は年齢制限ぎりぎりで新四段になった。黒柳は純粋に友人として喜んだ。いままでの黒柳であれば、大橋の昇段や赤津の活躍にあせっただろう。だが、いまは史上最強の棋士「宗歩」がいる。「宗歩」さえいれば黒柳が負けることはないのだ。
各方面に引っ張りだこの黒柳は次第に自分の頭で指し手を考えなくなり、「宗歩」に頼りきりになっていった。そのことに一抹の不安はあったが、いまさら苦しい思いをしてまで自分の棋力を向上させる気にはなれなかった。
将棋はたかがゲームなのだ。人間が考えても、コンピュータが考えてもいいではないか。実際に黒柳は素晴らしい指し手でファンを魅了しているのだ。なにも悪いところはない。
黒柳の将棋は面白くないとの批判の声もあるにはあったが、気にも留めなかった。しょせん勝負は結果がすべてであり、面白い将棋など指す必要はない。現に黒柳が有名になることで、日本の将棋人口は着実に増えている。これは黒柳の功績にほかならないではないか。
黒柳は、自分の将棋の実力が確実に低下していることに、このときは気づいていなかった。

ある日、新聞の三面記事を見た黒柳は驚いた。渡瀬龍一が何者かによって毒殺されたと新聞に書いてあったからだ。
「宗歩」のことが一瞬頭をよぎった。
黒柳が渡瀬と関係しているという資料が、会社に残ってはいやしないだろうか。そうなったら黒柳は破滅ではないか。
ただずっと前、渡瀬が言っていたことがある。
「あなたと僕との関係が外部に漏れることはないですよ」
「でも、私の棋譜や奨励会の棋譜など、外部には絶対に知られない棋譜を、私はあなたに渡しています。その棋譜を見つけられたら、渡瀬さんと私との関係がばれてしまう」
渡瀬は鼻先で笑い、黒柳の持っている「宗歩」に人差し指を向けた。
「棋譜は全部その中に入っています。その中の棋譜データは暗号化されているので、どんな優れたプログラマでも解析できませんよ。それにこの僕が証拠を残すような、間抜けなことをすると思いますか?」
渡瀬は煙草の煙を鼻から出すと、椅子の背もたれによりかかり、胸を反らせた。
渡瀬の得意気な態度に滑稽さを感じながらも、黒柳はほっとした。
あのときの渡瀬の言葉が本当なら、黒柳と渡瀬をつなぐ線は、渡瀬の死と共に切れたはずだ。黒柳の存在はだれにも知られない。
しかし、別の不安も頭をかすめた。
渡瀬がいなければ「宗歩」はどうなるのだろうか。これ以上強くならなくても大丈夫だろうか。バグがあったときに渡瀬がいないのではまずいではないか。いろいろな考えが頭を駆け巡った。
さんざん思い悩んだあと、黒柳は考え方を変えた。
別に「宗歩」はこれ以上強くならなくても十分だ。一般家庭の電源からも充電できるようになっているので、さしあたり「宗歩」の稼動に関しては心配ない。いままで操作していてバグなどひとつもなかった。バグはこれからも見つからないだろう。
なによりも渡瀬が死んだので、黒柳が「宗歩」を使用していることを知っている人物は、だれもいなくなったのだ。つまり黒柳は秘密が漏れることを恐れる事もなく、「宗歩」を使って栄耀栄華を欲しいままにできるのだ。これは非常に幸運な話ではないか。
黒柳は密かにほくそえんだ。

(続く)