〔33〕

竜王戦が終わり、東京に戻るなり、大橋は玲子の消息を追った。
まず始めに、大橋は渡瀬の会社、ヘヴンフィールドがあったビルを訪れた。
渡瀬が殺されてからもう半年以上が過ぎている。いままでは関係者と見られるのを恐れて、ヘヴンフィールドには絶対に近寄らないようにしていたが、いまの大橋にはそのリスクを冒してでも、玲子の消息を追う必要があった。
電車を乗り継いでヘヴンフィールドに着き、看板に目をやると、「3F ヘヴンフィールド」の文字が見える。少なくともまだ新しい会社は入っていないようだ。
エレベーターに乗り込むと、大橋は三階のボタンを押した。
こうして遅いエレベーターに乗っていると、あの事件が夢のように感じられる。三階の扉を開けると、渡瀬は生きていて、「どうして連絡をよこさなかったんですか?」と詰問されそうな気すらした。
三階に着いた。ヘヴンフィールドがあった場所は昔と変わらず、入り口に大きくヘヴンフィールドと書かれていた。中に人の気配がある。
何度か迷ったのち、大橋はおそるおそるインターホンを押した。
「はい、ヘヴンフィールドです」
玲子の声だった。
大橋は深呼吸をして自らを落ち着かせると、ゆっくりと言った。
「すみません。大橋ですが……」
大橋が切り出した瞬間、扉の向こうで息を呑んだような音が聞こえた。
しばらくしてドアが開き、玲子が顔を見せた。彼女は怒ったような表情で大橋を睨んでいた。それと同時に、なぜ大橋がここに姿を見せたのか、図りかねている様子にも見て取れた。
「無事だったんですね。ずっとここにいたんですか?」
大橋が部屋に入ろうとすると、玲子が大橋の前に立ちはだかった。
「なにをとぼけてるのよ?」
「とぼけてる?」
「あなたでしょ、渡瀬を殺したのは?」
大橋は強く首を振った。
「私じゃないですよ。私はなにも知らない」
玲子は猜疑の眼差しで大橋の顔を見つめ、断言するように言った。
「しらばっくれないで。事件当日、私はあなたの行動を見ていたのよ」
「どういう意味ですか?」
「事件当日、私がエレベーターを待っているとき、三階からエレベータが下りて来るのが見えたの。あのエレベーターは遅いから、私は階段を使って三階まで行ったのよ。そうしたら渡瀬が殺されてた。急いで階段を駆け下りて三階から降りた人間を追った。遠くにそれらしい人影を見つけたから走って追いかけたけど、見失ってしまった。あの日、渡瀬はあなたに会うって言ってたのよ。あれはあなたでしょ?」
「私じゃありません」
「じゃあ、あなたはあの日ここに来なかったって言うの?」
「それは来ましたけど……」
「いつ来たのよ?」
「渡瀬さんとの約束の時刻の午後二時です。でも、私が行ったとき、すでに渡瀬さんは死んでいたんです」
玲子がせせら笑った。
「どうして警察に通報しなかったのよ」
「それは……」
「ほら、やっぱりあなたも事件に関係あるんじゃない」
「私は死体を発見したあと、恐ろしくてエレベーターは使いませんでした。エレベーターが遅いとわかっていたからです。一刻も早くその場を逃げ出したくて、階段を使ったんです」
「嘘に決まってる」
「嘘じゃありません。あなたは、その男が私だって思い込んでただけじゃないんですか?」
「思い込みなんかじゃないわ。あのときあなた、黒っぽいジャンパーを着ていたでしょう?」
「いえ、その日私は背広姿でした。『現代将棋』という雑誌の新四段シリーズの撮影があったからです。撮影日はわかっていますから、雑誌社に問い合わせればすぐにわかりますよ。その人影をよく思い出してください。本当に私でしたか?」
玲子は自信なさげな顔になった。
「絶対っていう自信はないけど……」
「よく思い出してください。私とは特徴も一緒でしたか?」
「そう言われてみたら、あのときの男は髪の毛がもっとぼさぼさで、あなたとは雰囲気が違ってたかもしれないけど……」
「あなたの見た男は私とは別人です。おそらく私は、あなたがその男を追っているあいだに、ここに来て渡瀬さんの死体を発見したんでしょう」
「じゃあ、なんで渡瀬のソースコードがどこにも見つからないのよ?」
「なんのことを言ってるんでしょうか?」
「男を見失ったあと、『宗歩』のソースコードを調べたの。渡瀬のコンピュータやバックアップメディアの類を調べてみたけど、どこにもソースコードは見つからなかった。警察に通報しようと思ったけど、変に疑われてはいやだから、そのまま会社を出たのよ」
「私は渡瀬さんに『宗歩』というプログラムをお借りしただけです。その他のことはまったく知りません」
玲子はしばらく大橋の表情を探るように見つめていたが、やがて深い溜め息をついた。
「本当にあなたは渡瀬の事件に関係がないの?」
「私は渡瀬さんに頼まれて『宗歩』を使っていただけです。それ以上の関係はありません」
「あなたが渡瀬のソースコードを盗んだわけじゃないのね?」
「私は単なる将棋指しで、コンピュータの素人です。そんなものを手に入れてもなにもできません」
玲子は諦めたように肩を落とした。
「じゃあ、ソースコードはどこに……?」
玲子が思いついたように顔を上げた。
「私が見失った人影が、渡瀬を殺して、ソースコードを盗んだ犯人なのかもしれない」
「殺したかどうかまではわかりませんけど、間違いなく事件に関係していた人物だと思います。そのことは警察に話しましたか?」
「私はあなただとばかり思ってたの。だから警察にはなにも話してない。いつかあなたからソースコードを取り戻そうと思ってたから」
「あなたが追った男の特徴で、なにか思い出すことはありませんか?」
玲子はしばらく考えていたが、やがて首を横に振った。
今度は大橋が彼女に聞く番だった。
「私のあとをつけていましたね?」
玲子が表情を隠すように顔を背けた。
「なんのこと?」
「私を金属バットで襲ったのもあなたです。私が腕を掴んだとき、かすかに香水の香りがしました。いまのあなたの香水と同じ匂いです」
玲子は押し黙った。大橋は重ねて言った。
「あれから私も渡瀬龍一さんについて調べてみました。渡瀬さんには妹などいないそうですよ。あなたの本当の名前はなんと言うんですか?」
玲子が諦めたように息を吐いた。
「よくそんなことまで調べたわね。そうよ、私は渡瀬の妹じゃないわよ」
「もしかして、あなたが杉本さんですか?」
彼女が驚いたように目を見開いた。
「なんでそれを知ってるのよ?」
「アルゴリズム技研の小嶺さんから聞いたんです。渡瀬さんが会社を辞めるとき、杉本という女性社員を引き連れて辞めたって」
”杉本玲子”は軽蔑したように鼻を鳴らした。
「まったく小嶺も口が軽いわね。色気と口と態度だけは一人前のくせに、仕事がちっともできないから、渡瀬にも馬鹿にされてたわ。あんな馬鹿男より渡瀬のほうがよほどましね」
「どうして名前を騙ったりしたんですか?」
「別に騙ったわけじゃないわよ。ちょっと名前を借りただけよ。外部の人には彼の妹だと言っていたの。だって、私と彼が同じオフィスにいるなんてどう見ても不釣合いでしょ。でも、妹だということにしたら、私がここにいても不自然じゃないもの。だからそういうことにしただけ」
「杉本さんはどうして渡瀬さんと一緒に仕事をしたんですか?」
「渡瀬のソースコードを盗むために決まってるじゃない。彼は性格的には最悪だったけど、プログラミング能力だけは素晴らしかったわ。アルゴリズム技研にいたときから、人工知能の研究をしていて、それを将棋ソフトに実用化するって言ったの。それで私は彼についてきたのよ」
「渡瀬さんのことが好きだったんですか?」
玲子は大橋の顔を驚いたように見たあと、うすく笑った。
「別に。彼とは仕事上の付き合いだけ。彼の技術は尊敬していたけどね。私は彼のソースコードに興味があったの。実際彼の作った将棋プログラムは強かったでしょ?」
大橋は無言で頷いた。
「渡瀬は用心深い男だったわ。私にプログラミングを手伝わせる一方で、一番重要なアルゴリズムの部分は、決して見せてはくれなかった。なんとかしてコア部分のソースコードを知りたいと思ってるうちに彼が殺されたのよ。でも、ソースコードは彼のマシンから見つからなかった」
「それで私がソースコードを奪ったと思って、私を襲ったんですね?」
玲子はかすかに表情をゆがめたが、ゆっくりと言った。
「そう、ちょっと脅かすつもりだったの。そうすればあなたは必ずここに来ると思ってた。ソースコードさえ返してくれるなら、渡瀬を殺したことなんか警察に言うつもりはなかったわ。私はソースコードが欲しかっただけ」
「私はソースコードなんて知らない。あの日ヘヴンフィールドで、すでに渡瀬さんは死んでいたんです」
「じゃあ、だれが渡瀬を殺したのよ?」
「それは私のほうが聞きたいくらいです。杉本さんには心当たりはないんですか?」
「ないわよ」
「アルゴリズム技研の社長とトラブルを起こしていたようですけど」
「そういうことはあったみたいだけど、かといって渡瀬を殺すほどのものではないと思うわ。それに向こうは城山工業の跡取り息子なんだから、そんな危険を冒すわけがないでしょ」
「ほかに渡瀬を殺しそうな人間に心当たりはありませんか? その人間がソースコードを持ち去った可能性もあるんです」
玲子が首をかしげた。
「一時期渡瀬を頻繁に訪ねてくる男がいたわ。いつもサングラスに帽子をかぶってたから、顔はよくわからなかったけど、鼻筋が通ってて綺麗な顔立ちだったような気がする。陰気な男だった」
「名前は聞かなかったんですか?」
「その男は自分の名を名乗らなかったの。いつも『渡瀬さんいますか?』って小声で聞くだけで」
「渡瀬さんはその男をよく知っていた様子でしたか?」
「もちろんよ。毎月十日に来る約束をしていたようだった」
「その人物がなにをしていたかわかりますか?」
玲子はしばらく考えていたが首を振った。
「さあ、そこまでは聞けなかったし、渡瀬も絶対に言おうとはしなかった。ただ……」
「ただ?」
「あなたと同じプロの将棋指しじゃないかしら」
「どうしてそう思われるんです。杉本さんはプロ棋士のことに詳しいんですか?」
「私はプログラムに興味があるだけで、将棋の世界なんて興味ないわよ」
「それならなんで?」
「直感的なものよ。あなたとはなんとなく雰囲気が似てたから」
それから玲子が思い出したように大きく頷いた。
「渡瀬が殺された前日に、会社に男が訪ねてきたわ。ひょっとしたら、その男が犯人かもしれない」
「どんな男でしたか?」
「目つきが鋭くて髪の毛がぼさぼさの男。近づくと臭かったから、何日も風呂に入っていないんだなあと思ったわ」
「その男が怪しいとは思わなかったんですか?」
「だって渡瀬ったらその男に会うのを楽しみにしてたみたいだったし、男が訪ねてきたとき、笑顔で出迎えてたわ。なんだかとても仲のよい間柄のようだったし」
そこまで言って、玲子は叫び声を上げた。
「私が見失った男はきっとその男よ。だって髪の毛がぼさぼさだったもの。ぼさぼさの男と、陰気な男も同一人物かもしれない。ねえ、そいつに心当たりはある?」
大橋は少しの間のあと、ゆっくりとかぶりを振った。
「いえ」
玲子は明らかに失望した様子だった。悔しそうに顔をゆがめると吐息をついた。
大橋は玲子に訊ねた。
「いったい渡瀬さんはなぜ将棋ソフトなんかを作ったんでしょうか?」
「復讐って言ってたわ」
「復讐?」
「ええ、私がなんの復讐なのって聞いても、皮肉っぽく笑うだけで、それ以上答えてくれなかった」
大橋はバッグから「宗歩」を取り出すと、玲子に手渡した。
「どうしたのよ?」
「もう私には必要ないものだから、あなたに差し上げます。もしかしたら、なにかヒントになるようなものがあるかも……」
大橋からひったくるように「宗歩」を取ると、彼女は「宗歩」の中を調べていたが、やがて首を振った。それから「宗歩」を大橋に突き返した。
「駄目。やっぱりこの中にソースコードはないわ。実行ファイルだけしかないみたい。こんな物をもらっても、なんの価値もないわ」
玲子は失望した表情で呟いた。
「考えてみれば、事件当日男性から電話があったの。渡瀬さんいるかって。私が渡瀬に取り次いで、彼の電話が終わったとき、渡瀬が私に使いを頼んできた。たいした用事じゃなかったから、どうしてその日に限って、そんなつまらない使いを頼むのか不思議に思ったの」
「なんの用事だったんですか?」
「単なるお使いよ。その男への手土産だって言って、わざわざ千駄ヶ谷駅の近くにある団子屋の団子を買いに行かされたの。でも、わざわざ千駄ヶ谷まで買いに行かせるのは不思議でしょ」
「千駄ヶ谷……」
声が凍りつくのが自分でもわかった。
「不思議だったから、だれからの電話だったのか、渡瀬に訊ねたの」
「なんと言ってましたか?」
「恋人だ、って答えて笑ってたわ」
「恋人、ですか?」
大橋はうめくように呟いた。
「ええ、渡瀬はそうやって人をからかうところがあったから、気にならなかったけど、五日だったからあなたのことだと思ったわ」
「渡瀬さんは私のことを『恋人』なんて言わないでしょう。たぶん別人です」
「じゃあ、『恋人』って、だれのことなのよ?」
「その電話の男の声は、髪の毛がぼさぼさの男の声でしたか?」
「そこまではわからないわ。ただ、電話の声がしわがれてて年配の男性にも思えたから、臭い男とは別人だと思う」
「電話でわざと老人のように声色を遣う可能性もありますよね」
「それとはちょっと違うとは思うけど、そう言われたら自信ないわね」
「そうですか……」
玲子が諦めの表情で呟いた。
「でも、考えてみれば、その男からの電話が渡瀬の運のつきだったわけね。だってその男からの電話がなかったら、私も千駄ヶ谷まで使いを頼まれないはずだし、渡瀬だって殺されなかったわけだし……」
玲子はすべての思いを断ち切るように、強く息を吐いた。
「いずれにしろ、『宗歩』のソースコードがないなら、私も長くここにいるつもりはないの。彼の開発したソースコードが欲しかったけど、もう諦めるしかないもの。思いっきり徒労だったけどね」
彼女はそう言うと、冷めた目でうすく笑った。
渡瀬は毎月十日に、陰気な男に会っていた。その男は鼻筋が通っていて綺麗な顔立ちの男だった。
渡瀬が殺される前日、髪の毛がぼさぼさの男が渡瀬を訪れている。渡瀬はその男と会うのを楽しみにしていた。髪の毛がぼさぼさの男は渡瀬が殺された日に、玲子に後ろ姿を見られている。
さらに当日渡瀬は「恋人」と呼んだ男と会う約束をした。玲子は千駄ヶ谷に使いを頼まれ、留守をしたあいだに、渡瀬が殺された。
陰気な男と髪の毛がぼさぼさの男は同一人物なのだろうか。それとも別人なのだろうか。
「恋人」と呼ばれた男は、陰気な男、髪の毛がぼさぼさの男と関係があるのだろうか。それともどちらかと同一人物なのだろうか。
まさか三人は同一人物なのだろうか。

〔34〕

赤津の兄、城山泰男は応接室に入ってくると、人懐っこそうな笑顔を見せた。
「やあ、お待たせしました」
大橋はアルゴリズム技研を再度訪問していた。受付で名乗り、社長に会いたいと単刀直入に告げた。受付嬢は怪訝な表情をしていたが、電話だけは取り次いでくれた。
意外にもすんなりと応接室に通された。重厚な皮張りの茶色のソファに座り、落ち着かない気持ちで待っていると、ほどなくして城山が現れた。
城山はソファに腰掛けると、明るい声で言った。
「竜王のタイトルおめでとうございます。大橋さんが竜王位を獲ってくれて、死んだ隆介もきっと喜ぶでしょう」
城山は整った顔立ちをしていた。目が二重で大きく、口元は引き締まっていて、一見して有能なビジネスマンに見えた。かといって冷たい印象はなく、どちらかと言うと、人のよさそうな感じのする人物だった。
「私のことはご存知だったんですか?」
大橋が訊ねると、城山は頷いた。
「ええ、弟からよく伺っていましたよ。いまの将棋界で一番強い棋士だって」
「強いのは黒柳でしょう。彼は竜王位を失ったとはいえ、いまだに六冠王です」
「いえ、弟ははっきり言っていましたよ。大橋さんのほうが強い、ってね」
赤津の不敵な笑みが大橋の瞼にまざまざと浮かんだ。なんとなく懐かしいような気持ちになった。
「お兄さんは、赤津とはよくお会いになっていましたか?」
「いえ、あいつはめったには姿を見せませんでした。でも、会うたびにあなたのことを楽しそうに話していましたよ」
大橋の心が錐で刺されたようにきりきりと痛んだ。
「でも、赤津にお兄さんがいることや、お父さんが城山工業の社長さんだなんて、つい最近まで知りませんでした。赤津は自分のことをあまり喋りませんでしたから……」
「あいつは親からの援助はいっさい受けなかったんです。あいつに多額の借金があることを知って、私が肩代わりしようとしたときにも、はっきり断られました。隆介は私たちからは絶対に援助を受けたくなかったんでしょう」
「どうしてなんでしょうか?」
城山は微笑した。
「あいつはうちの両親の子じゃないんです。私が幼いころ叔父夫婦が事故で亡くなり、一人残された息子の隆介を引き取ったんです。あいつは小学校高学年のときに、その事実を知ったみたいですけど。中学になって、隆介が奨励会に入りたいと親父に言ったとき、親父は激怒しました。三人兄弟の中では、実の子じゃないあいつが一番優秀だったんです。親父は自分の息子だからと言って情に流されるような人間じゃないので、隆介を城山グループの総帥にしたかったんだと思います」
城山は昔を懐かしむように目を細めた。
「隆介は息子ではない自分が城山グループの長になるのは、私たち兄弟に申し訳ないと思ったんでしょう。親父がいくら言ってもかたくなに拒み続け、絶対に将棋指しになると言い張りました。将棋指しになるくらいなら勘当だ、と親父が言ったときも、むしろほっとした表情をしてました。あいつは城山家に波風を立てるのを嫌ったのでしょう。ああ見えて、隆介は神経の細やかな男でしたから」
赤津がそうした複雑な家庭の事情を話さなかったのは、将棋にはまったく関係のないことだと考えていたからに違いない。赤津らしいような気がした。
「隆介は父にとても感謝していましたけど、早く家を出たいようでした。父にはなついていましたが、母とはそりが合わなかったようでしたから。あの家では隆介なりに肩身の狭い思いをしていたのでしょう。しばらくして親父の勘気も解けましたが、将棋指しになってからは、家にはまったく寄りつかなくなりました。たぶんあいつは事実を知ったときから、家を出るつもりだったのでしょう。叔母さんの名字の『赤津』を名乗ったときに、そう確信しました」
大橋は赤津の気持ちが少しだけわかるような気がした。だから、親には勘当されたと嘯いて、すべて自分の力でやっていこうとしたのだろう。
城山が大橋の顔を見つめた。
「あいつが最後に私のところに来たのは、竜王戦の挑戦者決定戦第一局が終わった日です。ひさしぶりでした。開口一番『すごい将棋を指したよ』って嬉しそうに言うんです。私が勝ったのかと聞くと、負けたと言います。負けたらなんにもならないではないかと言うと、目を輝かせて言いました。『大橋とすごい将棋を指したんだ。究極の棋譜に近づいているのかもしれない』、と」
「『究極の棋譜』ですか?」
「ええ、隆介はいつも言っていましたよ。将棋指しの仕事は最善手だけの究極の棋譜を作ることだ、と。それだからこそ、このあいだの大橋さんとの対局が嬉しかったのでしょう」
大橋はあのときの赤津の悔しそうな、しかし充実したような顔を思い出した。
「私にはなんのことかよくわかりませんでしたが、満足できる将棋を指したのだろうと思いました。あいつは大橋さんにだけは負けたくないと常々言っていましたが、今回の勝負は負けたけど悔いはないと言っていました。『でも、兄さん。次は絶対に負けないよ。やっぱりあいつにだけは負けたくない』と言っていました。あいつは小学校のときから成績がずば抜けてよく、同級生の中で浮いた存在になっていました。友達もまったく作ろうとせず、いつもひとりでいました。そんな隆介ですが、大橋さんの話をするときは、いつも目を輝かせていました。よほど大橋さんが好きだったのでしょう」
「私は彼の気持ちを裏切ってしまいました」
城山が怪訝そうに見つめた。
「隆介となにかあったのですか?」
「私は彼との勝負に耐えかねて、勝負を投げたんです。それほど彼は恐ろしい棋士でした。多分私が知っているどんな棋士よりもすごいと思います。彼はまさに将棋の鬼でした」
「将棋の鬼……将棋の鬼か……」
城山は大橋が言った言葉を口の中で繰り返した。
「ええ、おそらく彼は史上最強の棋士だったと思います」
城山は顔をほころばせた。
「そう言っていただけると、隆介も浮かばれますよ。あいつは本当に将棋が好きでしたから。昔から他のことじゃめったに怒らないのに、将棋に関しては絶対に譲ろうとしなかったほどの将棋バカなんです。大橋さんに『将棋の鬼』って呼んでもらって、あの世で飛び上がって喜んでいると思います」
首を傾けて懐かしそうな顔をしていた城山は、ふと大橋に顔を向けた。
「ところで、今日いらしたのはどういったご用件でしょうか?」
大橋は軽く頷くと慎重に言葉を選びながら訊ねた。
「城山さんは、渡瀬龍一という技術者をご存知ですね?」
大橋が渡瀬の名前を口に出すと、城山の顔が曇った。
「どうして大橋さんがあいつの名前を知っているんですか?」
「将棋ソフトに関することで、知り合ったのです」
「将棋ソフト?」
城山が驚きの表情で身を乗り出した。
「するとやっぱり渡瀬は将棋ソフトを開発していたんですね?」
「ええ。渡瀬龍一は信じられないほど強いプログラムを作っていました」
城山は大きく息を吸い込んで、背もたれに寄りかかった。
「やっぱり、あいつはうちの技術を盗んでいましたか」
「と言いますと?」
「渡瀬は我が社が極秘で進めていたプロジェクトの責任者でした。簡単に言えば、将棋のプログラムが名人並みの手をさせるようにするためのプロジェクトです。彼が長いあいだ研究していた人工知能の技術と将棋ソフトとの融合を図ろうとしたんです。かねてから彼の強い希望もあったので、私は彼にすべてを任せました。有能な技術者を彼の元で働かせたので、プロジェクトは順調に進みました。あとはソフトウェアの学習部分の調節だけでした。そしてそれが一番難しかった」
城山は憎々しげに口をゆがめると、吐き捨てるように言った。
「ところが渡瀬は突然退社すると言い出したんです。いままで研究した部分を、部下に引き継いでくれと言っても、肝心の学習アルゴリズムの部分はまったく見せてはくれなかった。それどころか、プログラムはなにも完成せず、プロジェクトは失敗したって言い張ったんです」
「城山さんは信じてなかったんですね?」
「もちろんです。渡瀬龍一はとても優秀な男です。彼に限ってプロジェクトが失敗したなんてありえない。しかし渡瀬は慎重な男で、肝心なソースコードの部分を部下にさえ公開していませんでした。そのうちに渡瀬は逃げるようにして我が社を辞めたんです。しかも彼の後を追って有能な女性技術者が辞めました。事実上極秘プロジェクトは空中分解しました」
「会社を辞めたあと、彼はすぐに会社を設立したんですね?」
「ええ、そこで私も法的措置を考えました。会社の経費を使ってさんざん研究しておいて、その技術を使って金儲けをするなど、私にはとうてい看過できませんでした。でも、彼は私よりずっと狡猾でした。彼の興した会社で、将棋とはまったく関係ない業務用のソフトを開発し始めました。将棋プログラムをすぐに販売したら、我が社から告訴されるとわかっていたんでしょう。ほとぼりが冷めてから商品を大々的に売り出す予定だったかもしれません」
だから渡瀬は、大橋に「宗歩」を使わせたことを、だれにも口外しなかったのだ。
それに渡瀬の目的は、将棋ソフトの販売をすることではなく、開発した将棋ソフトを大橋に使わせることにあった。
「赤津はその事実を知っていたのですか?」
「ええ、ずっと前に私が愚痴のように漏らしました。とんでもない社員がいたと世間話のように話したんですが、あいつは興味深くその話を聞いていました。しかも妙に関心を持って、現在の渡瀬の会社名と住所を聞いてきました。あまりにしつこく食い下がるので、教えてやりましたけど。でも、結局あのあと渡瀬は死んでしまって……」
赤津は大橋が「宗歩」を使っていることを知っていたのかもしれない。
だから大橋の棋風の違いに気づき、大橋を責めたのだ。竜王戦の挑戦者決定戦第三局は「宗歩」が指したものだと赤津はわかっていたのだろう。
玲子が言っていた、渡瀬が殺された前日にヘヴンフィールドを訪ねた、黒いジャンパーに髪の毛がぼさぼさの男とは、たぶん赤津のことだ。赤津は城山から話を聞いて、渡瀬を訪れたのだろう。
渡瀬が殺される前日、髪の毛がぼさぼさの臭い男が渡瀬に会いに来た。そしてその男と会うときの渡瀬はとても嬉しそうだったという。
赤津はただの将棋指しとして渡瀬と接触していたはずだ。赤津の指し手に興味があった渡瀬は、まさか赤津が城山の弟だとは思わずに、赤津と会った。そして彼に持ちかけたはずだ。僕と一緒に「宗歩」を開発しましょう、と。
それを知った赤津はどんな行動を取ったのだろうか。

〔35〕

スナック「千駄ヶ谷」のカウンターはひっそりとしていた。まだ時間が早いためか、店内に客は数人しかおらず、ママも一度顔を出したきり、奥に引っ込んでいた。
約束の時刻になって黒柳が姿を見せた。黒柳は店内を一度見渡して、大橋の姿を認めると、ゆっくりとした足取りでカウンターに歩いてきた。
「すまないな、呼び出して」
大橋が声をかけると、黒柳は無言で大橋の隣に座った。奥から現れたママにビールを注文し、大橋のほうを向いた。
「気にするな。それよりどうしたんだ? おれから竜王位を奪っておいて、飲みながら感想戦でも始めるつもりか?」
黒柳がからかうように言ったが、大橋はにこりともしなかった。
「竜王戦第四局、本来ならあれはおまえの勝ちだったな?」
黒柳は露骨にいやな顔をした。
「なんだ? 最後の即詰みの局面か? たしかにあの局面には△9九角の鬼手があったことが判明した。でも、検討陣のあいだでも、あの場面でその手を考えつくのは難しいと言っていただろう」
「切迫した局面で△9九角を思いつくのは、たしかに難しかっただろう。だが、七冠王のおまえならあの手を考え出さなくてはならなかったんだ」
「なにをわけのわからないことを言ってるんだ?」
「あの局面で、棋界第一人者のおまえがおれを即詰みに討ち取れなかったということは、たったひとりの人物に将棋連盟の棋士全員が敗北したことになるんだ」
黒柳は眉間に縦皺をくっきりと浮かび上がらせ、大橋を睨んだ。
「おまえはいったいなにが言いたいんだ? たったひとりとは、だれのことなんだ?」
大橋は静かに言った。
「渡瀬龍一だ。いや、渡瀬重太郎かもしれない。おまえ、渡瀬龍一を知っているだろう?」
黒柳の頬が引きつったように動いた。
「おまえは渡瀬龍一に『宗歩』を使うよう頼まれていたはずだ。おまえは渡瀬の話に乗り、『宗歩』を使って七冠を手にした」
それが大橋の下した結論だった。
黒柳は、大橋よりもずっと先に「宗歩」を使っていたはずだ。黒柳の棋風と「宗歩」の棋風が酷似していたのは気づいていたが、黒柳が「宗歩」を使っているという考えには、なかなか思い至らなかった。
黒柳が大橋の顔をこわばった表情で見つめていたが、大橋は続けた。
「おまえはあるときから和服を着るようになり、連勝し始めた。それは『宗歩』を袂に隠すためだったんだな。『宗歩』を使うには背広よりも和服のほうがずっとやりやすい。序盤戦で早指しをして、終盤で時間をかけたのも『宗歩』を使っていたからだ。もし持ち時間がなくなると、操作に時間が取られて困るからな。おまえがテレビ棋戦で振るわなかったのも、『宗歩』を使えなかったからだ。テレビカメラに写されたまま『宗歩』を使うのは至難の業だからな。『黒柳の終局トイレ』もトイレで『宗歩』の画面を確認するためだったんだろう」
黒柳は大橋が喋り終わると顔を背け、首を傾けて押し黙った。しばらく二人のあいだに重苦しい沈黙が流れた。
やがて黒柳が静かに口を開いた。
「おまえ、知ってたのか?」
「ああ、『宗歩』とずっと練習将棋を指していたおれだ。『宗歩』の独特の棋風は知っていた。しかも『宗歩』の弱点までわかっていた。おまえは『宗歩』と瓜二つの将棋を指していたよ」
黒柳が大橋の顔を見ると、嘆息した。
「やはりおまえも『宗歩』を使っていたんだな」
「ああ。でも、竜王戦では『宗歩』は使っていない。おれは死んだ赤津が編み出した『宗歩』破りの新手を指しただけだ」
「飛車が繰り出してくる戦法か?」
「そうだ。『宗歩』は赤津の戦法に手も足も出なかった。なぜならあの戦法は赤津が『宗歩』対策として編み出した戦法だからだ。赤津の戦法は人間でないと指しこなせない。おまえは『宗歩』を使うことで連戦連勝し、次第に自分の頭で将棋を考えなくなっていた。対局はいつも『宗歩』に頼っていた。そのうちにおまえ自身の力はすっかり衰えた。だから△9九角の妙手に気づかなかったんだ」
「あの手は難しい。限られた時間内で思いつくのは不可能に近いよ」
「たしかに難しいのかもしれない。でも、七冠を獲るほどのおまえなら、あの手を指さなければならなかったんだ。どうして『宗歩』を使っていたおまえがあの手を指せなかったのか。それはあの局面で『宗歩』が動かなくなったからだろう?」
黒柳が息を呑んだ。
「なんでそこまで知ってるんだ?」
「おれが指したあと、おまえが不自然にうろたえたからだ。『宗歩』が故障したから、あんなにあわてたんだろうという考えに思い至った。だからあのときおまえは指し手を自分で考えるしかなくなった。そうして考えた結果が、あんな平凡な手だった」
「大橋は『宗歩』が故障した理由を知ってるのか? それにどうしてあの局面にそこまでこだわるんだ?」
「おれたちが指した将棋はずっと前に将棋連盟で指されていたんだ」
「まったく同じ将棋がか? ありえない。同一将棋が起きる可能性は限りなくゼロに近い」
「それはまったく作為がなく将棋を指したときだろう。あの将棋は『宗歩』を開発した渡瀬龍一が企てた復讐だったんだ」
「なにを言っているのかよくわからない。なぜ渡瀬龍一がおれたちに復讐をしなければならないんだ?」
「彼が復讐したのはおれたちではなく、将棋連盟にだ。あれは渡瀬龍一の父親の渡瀬重太郎と亡くなった塚本八段が指した将棋なんだ」
「なんだって?」
大橋は、渡瀬重太郎のプロテストのこと、塚本が逆転の鬼手で渡瀬玉をしとめたこと、塚本に共同研究の疑いがあったことを黒柳に説明した。
大橋の話を聞き終わった黒柳の顔が次第にこわばってきた。
「そんな事件があったのか……」
「おれは、あの対局で塚本八段が指した指し手は、当時の棋士たちが共同で考えた手ではないかと思う。もちろん渡瀬重太郎もそのことを疑っていたはずだ。奥さんにもずっと言っていたに違いない。重太郎が自殺したあとで、奥さんは息子の龍一にも言い続けていたはずだ」
「しかし、渡瀬重太郎の話とおれたちの将棋に、なにか関係があるのか?」
「息子の渡瀬龍一はずっと疑っていたに違いない。自分の父親は将棋連盟の陰謀によって陥れられたと。渡瀬龍一は父親の棋譜をなんらかの方法によって手に入れていた。たぶん重太郎が棋譜を書き残していたのだろう。しかし、彼は当時のプロ棋士たちが共同研究をしたという確証をつかめなかった。だからおれとおまえに『宗歩』を使わせて、タイトル戦でおれがおまえに挑戦するように仕組んだんだ」
「渡瀬の狙いは、おれとおまえをタイトル戦で対局させることだったのか?」
「そうだ。タイトル戦でおれたちが『宗歩』を使うとする。『宗歩』同士を対局させることで、『宗歩』は渡瀬重太郎と塚本八段との同一の手を指し続ける」
「どうやって?」
「『宗歩』にプログラミングしておいたんだよ。あの将棋と同じ手が指されているあいだは、局面を再現するよう指し手を進めていくようにな。たとえば、▲7六歩△3四歩と指したあとには必ず▲2六歩、次は△4四歩、次は▲2五歩というように、あのときの将棋と同一手順をなぞっているあいだは、『宗歩』があの将棋を再現するようにロジックが組まれていたんだ。『宗歩』は穴熊の採用率が高かっただろう。あれは別段穴熊が有利な戦法だったからではない。父親の棋譜を再現するため、渡瀬龍一が特別にプログラムを組んでいたんだ」
黒柳ははっとした表情で大橋の顔を見つめた。
「竜王戦第四局、おれは『宗歩』を使わなかったが、異変に気づき、局面を再現しようとした」
「どうして同じ局面を再現したんだ?」
「おまえと勝負してなんの迫力も感じなかったからだ」
「迫力だって? それがなんの関係があるんだ?」
「赤津と挑戦者決定戦をしたときは、こちらが倒れるんじゃないかと思うぐらい、赤津の気迫が伝わってきた。勝負をする人間は対局相手が強いのかどうかを直感的に判断する。まるで動物が自分より強いかどうかを判断するようにな。赤津は常人には絶対に勝てないような匂いがした。でも、おまえからは二流棋士の匂いしかしなかった」
「そうか……」
黒柳は寂しそうに吐息をついた。
「おれはその匂いを信じたくはなかった。だから第四局であの将棋を指したんだ。おまえならきっとおれを即詰みに討ち取ってくれると信じたかった」
大橋はグラスを一気に空けると、大きく息を吐いた。
「史上最強と謳われたおまえですら、△9九角に気づかなかったとしたら、塚本八段の△9九角はおまえですら考えつかなかった手ということになる。つまりは棋士たちの共同研究がなされていたという証明になるんだ。渡瀬龍一はこう思っていたに違いない。おまえが塚本八段以上の将棋指しなら、自分の力であの手に気づくと。もし気づかなかったときには、塚本八段の手は共同研究によるものであることを実証したことになる。そのとき彼は父親の対局を公表し、同時におれたちの不正も暴露するつもりだったんだろう」
「そうか……」
しばらくして黒柳がくぐもった声で独り言のように呟いた。
「赤津だったら、△9九角で詰ますことができただろうか?」
大橋は強く頷いた。
「間違いなくできただろう。あいつは将棋に対してだけは誠実だったからな。きっと将棋の神も味方してくれたことだろう」
黒柳は吐息をつくと、かすれた声で呟いた。
「そうだろうな」
大橋は黒柳の顔を見つめた。
「おまえが赤津を殺したんだな?」
黒柳の眉が痙攣したようにぴくりと動いた。
大橋はカウンターに向き直ると、話を続けた。
「竜王挑戦者決定戦第三局、あの日赤津は、おれとおまえが『宗歩』を使っていたことを確信した。赤津はおまえに殺される直前におれのところにも来て、言っていた。『黒柳やおまえのほうが正しくて、おれが間違っているのかもしれないしな』とな。きっとあいつはすべてをわかってたんだろう。そのあと赤津はおまえと会った。赤津は『宗歩』の使用を止めないと、将棋連盟に訴えるとおまえに言ったんだろう」
大橋は黒柳に目をやったが、黒柳はうつむいたままなにも言わなかった。
「あせったおまえは最初赤津を説得しようと試みた。でも、頑固な赤津のことだ。おまえにすべてのタイトルの返上とプロ棋士を辞めるよう迫ったに違いない。おまえにとって、赤津の要求はとうてい聞けるものじゃなかったはずだ。思い余ったおまえは、口封じのため赤津を殺害した」
黒柳はすべてを諦めきったように暗い目をしていた。
「殺すつもりはなかったんだ」
黒柳は凝然と宙を見つめ、しばらく考えていたようだったが、やがてゆっくりと語り始めた。

(続く)