〔31〕

大橋は黒柳との竜王戦を、第二局、第三局と、立て続けに勝ち、竜王位奪取に王手をかけた。
竜王戦第三局が終わった直後だった。
順位戦の対局のため、久しぶりに将棋会館を訪れた帰り際、弟弟子の進藤が話しかけてきた。
「大橋さん、竜王戦、いよいよ王手ですね」
なんだか嬉しそうな進藤の様子だった。
「ああ、黒柳が珍しく調子が悪いみたいだ」
「そんなことはないと思いますよ。僕も棋譜を並べてみましたが、赤津八段の手を改良した大橋さんの新手で、黒柳七冠をあわてさせたんだと思います。だから、第三局であんなミスを連発させたんです。『棋界の精密機械』も、一応人間だったということですね」
第三局、黒柳は七冠らしくないミスを連発して負けていた。
「竜王戦を盛り上げるために黒柳がわざと負けてるっていう噂もあるくらいだよ」
進藤は鼻で笑った。
「ああ、年寄り棋士連中が言ってることでしょ。彼らは黒柳七冠が登場し始めたころには、スケールが小さいとか面白みに欠けるとかさんざん悪口を言ってたくせに、自分たちが敵わないことがわかったら、とたんに黒柳崇拝を始めたじゃないですか。彼らの頭は古臭くて、いまいち当てにはなりませんよ」
顔に似合わず、ずばずばと物を言う進藤に、大橋は苦笑した。
「ただ黒柳は粘り強いやつだ。三局立て続けに取られても、四局連続して取り返す実力がある。黒柳はこのままでは終わらないだろう」
「そうですか。僕は大橋さんの将棋のスケールは、黒柳七冠を超えてると思いますよ。第一局、第二局と黒柳七冠はミスらしいミスをしてませんよね。序盤の駒組みで負けているような感じじゃないですか。大橋さんも黒柳七冠の粘りにミスせずに、黒柳七冠の玉を仕留めています。絶対に大橋さんが自力で勝ってるんですよ」
「だといいけど」
「そうですって。実際大橋さんは最近負けなしじゃないですか」
進藤の言う通り、大橋は最近「宗歩」を使わないままで連勝していた。今日の順位戦での対局も簡単に勝った。黒柳と竜王位を戦って連勝したことで相手が大橋を恐れて自滅しているように感じる。これで順位戦は六戦全勝だ。
勝負において、自分を強いと相手に認めさせるのは並大抵のことではない。と同時に、いったん強いと認められたら非常に有利になる。こちらが放った単なる悪手を、狙いを持った手なのかと誤解してくれ、長考した挙句こちら以上の悪手で応じることもある。
大橋が最近勝ち続けているのは、黒柳との竜王戦で黒柳を一方的に追い込んでいるのが大きく関係している。対局相手は黒柳と互角に指せる大橋に恐れをなし、勝手に自滅していることが多いのだ。
「頑張ってください、大橋さん。大橋さんは僕ら奨励会員の希望の星なんですよ。僕も奨励会の中じゃ結構年いってますから、大橋さんの頑張りは勇気が出ますよ。それに僕は黒柳七冠の将棋より、大橋さんの将棋のほうが好きです。これは弟弟子だから言うんじゃないですよ」
少し照れくさそうにそう言うと、進藤はぺこりと頭を下げ、去っていった。
黒柳は第二局、第三局と赤津が考案した穴熊破りの新手に翻弄されているようだった。
黒柳が大橋の新手に対していっこうに対策をしてこないので、将棋界では黒柳が手を抜いているのではないかと噂されたほどだった。第三局で黒柳からやっと対策らしき指し手はあったが、その後すぐに悪手を指して投了する羽目になった。
実際赤津の新手は対抗するのが非常に困難だということが棋士たちの研究でわかってきた。受けたとしても難解な局面になり、あまり穴熊に囲うメリットはなくなるため、別の戦法を採用したほうがいいのではないかというのが、トッププロたちの見解であった。
結果として、挑戦者決定戦で赤津が大橋に対して放った手は、従来の将棋界の常識を覆すほど、鋭い指し手だったことになる。竜王戦第三局で黒柳が指した手は、その強烈な手に対してただ謝る(相手の攻めが自分の攻めより厳しいことを認め、仕方なく守ること)だけの、黒柳にしては冴えない手だった。当初は鋭い狙いを秘めた手かと考えたが、結局たいした手ではなく、対策になっていないことがわかった。
大橋が三局を先取したので、三勝〇敗になった。四勝先取りのシステムなので、次に勝てば竜王位を黒柳から奪取できる。
大橋はこのまま終わるとは思ってはいなかった。粘り強いのが黒柳の将棋で、追い詰められたときの黒柳の強さは他の棋士と比べても群を抜いていた。
しかしながら、黒柳と三局戦って、彼の威圧感のなさに拍子抜けしたのも事実だった。赤津と対局したときのように、神経を極度にすり減らし、眩暈がしたり、吐き気を催したりすることはまったくなかった。
最初は黒柳と赤津の棋風の違いかと考えたが、それも違うように思われた。
彼の将棋は無色透明、いや無味乾燥なのだ。指し手のひとつひとつに、魂がこもっていない。最善手を追求するあまり、将棋から人間的なものを徹底的に排除した結果が、黒柳将棋なのだ。
だから、なんの気迫も感じず、恐れも感じない。負けるときも、なんの見せ場もなく、淡々と負ける。黒柳の将棋は、コンピュータゲームでもやっているような感覚があるだけだ。
黒柳に比べ、赤津の将棋は人間心理を上手く衝いている。効果的な場面ではったりをかけて、ひるんだ隙にこちらの虚を衝いて主導権を握る。単なる受けの手を指したかと思っていると、突如としてその手が布石になるような鋭い手を放つ。こちらが優勢になったかと思ってほくそえんでいると、急に妖しげな手を指され、その手の応対を間違えると、あっという間に形勢を逆転される。
対局が終わって考えてみると、赤津の手は好手でもなく、むしろ悪手に近い。上手く対応すれば逆に一気に勝負を決めることができるほどの隙のある手さえある。
ところが絶妙のタイミングでその手を放つので、こちらはまるで魔法にかかったかのように惑わされる。そして赤津の悪手に対して、最も指してはいけない手を指してしまう。
人間同士の勝負において効果的な脅しは、ときとして最善手よりも有効であることが多い。大橋を始めとした他の棋士たちは、赤津の奇抜な手にかき回され、自分のペースを乱してしまうのだ。
この赤津の棋風こそ、渡瀬が「宗歩」に組み込みたかったロジックなのかもしれない。
赤津と黒柳が対局した去年の名人戦の棋譜を見ていると、赤津の挑発や妖しげな手を、黒柳はまったく相手にしていない。赤津の手に惑わされることなく、上手く黒柳の将棋を指している。
そうして黒柳は赤津の手を上手くとがめることに成功し、形勢をゆるぎないものにしている。黒柳は赤津が投げかけた言葉を無視し、赤津の主張を殺した上で自分の主張を通している。
赤津は黒柳の飄々とした手にじりじりし、最終的には根負けし、悪手を連発させている。黒柳は赤津を逆にあせらせていたのだ。そこが、黒柳が「棋界の精密機械」とまで呼ばれた所以でもある。
だが、赤津が「宗歩」に対して放った穴熊破りの鬼手は、はったりなどではない極めて優れた手だ。一見素人将棋のように飛車を繰り出しながら、相手を牽制し、同時に攻撃陣を集中させ、ぎりぎりの攻めを成立させている。
第一局、第二局の黒柳の将棋は取り立てて悪手を指したわけではなかった。それどころか、劣勢の割りにはよく粘っているほうで、大橋が油断すると形勢はいつでも逆転されていた。
あえて黒柳の敗因を挙げるとすれば、序盤の構想で間違っていたとしか言えない。第三局では明らかに悪手を指したが、第一局、第二局では黒柳の敗因を語るより、赤津──指しているのは大橋だが──の序盤の構想力を称えるべきだろう。
黒柳が竜王戦を面白くするために余裕を見せているのだと言う棋士もいたが、それが間違っていることは大橋自身がよく知っていた。対局後の黒柳の狼狽ぶりが尋常ではなかったからだ。
一局目、黒柳は目の前で起こっている現象が信じられないというような顔をしていた。なぜ自分が攻め潰されるのか、納得がいかないようだった。たぶん第二局は納得のいかない将棋を再度確かめたくて、同じように指したのだろう。常に冷静な手を指す黒柳が初めて熱くなった将棋なのかもしれない。
黒柳の思いとは別に、大橋の指し手は黒柳を翻弄した。序盤で失ったポイントは彼が思っているよりも大きく、大橋は素直な手を指すだけで、黒柳玉を追い詰めることができた。赤津のように人間心理を惑わせるような妖しい手を指していれば、勝負がもつれたかもしれないが、黒柳は普通に受けて普通に負けた。
その点も、大橋にとっては物足りなかった。劣勢になったときに赤津が見せたまとわりつくような手は、黒柳からは出なかった。だから大橋も楽に勝負をものにできた。
不利な局面で、まともな手を放っていては局面は打開できない。人間心理の盲点を突くような手のほうが有効だ。
やや形勢が不利だと感じたときに、いったん悪手と思われる手を指して相手をぬか喜びさせる。ところが、実はその手はさほど悪手ではなく、とがめようとした手が逆に悪手になっている。これは思った以上に相手を動揺させる。
いったん勝ったと思った将棋が、実は互角だったと気づいたときの精神的ショックは計り知れない。最初から互角のまま進んだ将棋とはわけが違うのだ。結果、悪手を重ねて勝負をひっくり返されることもある。
赤津は、相手が動揺して指した手をとがめて、形勢を自分に戻す術を知り尽くしていた。ほとんど敗勢のときにも赤津の心理的な手は効果的だった。
勝ったと思っている相手の心の隙を上手く衝いて、悩ましい手を指す。相手は勝ったと勘違いし、とんでもない悪手を指してしまう。赤津は相手の弱い心に絡みついてくるのだ。
それも一度や二度ではない。対局中に何度もそういう手を放つのだ。一喜一憂させ、精神的に疲れさせる。対局相手はたまったものではない。実際に大橋も赤津と指して心身共に疲れきった。
赤津の将棋は黒柳に比べて、やや正確さを欠くものの、二枚腰、三枚腰なのだ。黒柳も粘り強かったが、いつも「宗歩」と対局している大橋にとって、黒柳の粘りは予測できる粘りとも言えた。
赤津に負けた一敗は、実質的には十連敗したほどの痛撃を感じ、棋士にとって思い出したくない対局になる。棋士のあいだで赤津の評判が悪いのは、相手を自己嫌悪に陥らせる手を多用するからだ。
黒柳は赤津とは違っていた。いったん不利になると、地道な手を指して受け続け、相手がミスをするのを待つ。効果的な戦術だとは思うが、コンピュータの「宗歩」を相手に練習将棋を指している大橋には黒柳の粘りは怖くなかった。
どう考えても、黒柳より赤津のほうが強く思えてしまう。
しかし竜王戦以外では、依然として黒柳は強く、他の棋士をまったく寄せつけていない。土壇場になったときの黒柳の強さは群を抜いていて、連敗したあと四連勝し、タイトルを奪ったこともある。大橋が予想以上に好手を連発し健闘しているが、まだまだ勝負はわからないというのが大方の見解だった。
黒柳との勝負はこのままでは終わらないはずだ。大橋は第四局が本当の天王山だと思っていた。おそらく黒柳は死に物狂いで将棋を指してくるだろう。
大橋は手負いの黒柳が暴れるのを恐れる一方で、黒柳が超人的な強さを発揮して、大橋を圧倒することを、心のどこかで期待していた。

〔32〕

竜王戦第四局は、十一月の終わりに静岡県の湖のほとりにあるホテルで行われる。
大橋は前日からホテルの一室に泊まっていた。
空はどんよりと曇り、雪が降りそうなほど寒い。湖を囲むように植えられた木々も葉を落とし、すっかり初冬の景色を呈していた。
寒がりの大橋は外に出て景観を楽しむ気にはなれず、自室でずっと「宗歩」相手に将棋を指していた。
赤津との対局以来、大橋は「宗歩」にあまり負けなくなった。
「宗歩」と指すうちに大橋は「宗歩」の弱点のようなものを掴んでいた。「宗歩」に欠けているものは序盤の構想力だ。コンピュータはあくまで入力された定跡や相手の指し手を学習して駒組みをデータとして保存するしかない。一方、人間には駒組みを作り出す創造力がある。定跡にない手でも、深く変化形を読んでいけば、十分に戦える形に持っていけるかも知れない。結果、その手が新しい定跡の発見になる可能性もある。
人間は無限に駒組みを変化することができる。十五手先はよくなくても三十手先に好手が見えたなら、定跡外の手を指すことをためらわない。一方、大局を睨んだ見通しや新手を編み出そうとする力は「宗歩」になかった。
「宗歩」は新手に弱いのだ。序盤を駒組みの巧みさで「宗歩」を圧倒すれば、優位に立つことができる。中終盤でミスをしなければ、そのまま勝ちに持っていける。
最初はコンピュータの強さに驚いたが、何度も対局するうちに、その弱点は致命的に思えてきた。明らかに人間にはない弱点だった。
渡瀬は「宗歩」の弱点には気づいていたのだ。だから月に一度、「宗歩」をバージョンアップしたのだ。序盤の構想力の弱さを補うために、定期的にプロ棋戦の棋譜をデータとしてインプットする作業が必要だったのだろう。
ベッドに入ってからも、大橋はいろいろなことを考えていた。赤津のこと、玲子のこと、渡瀬龍一のこと、渡瀬重太郎のこと、ひいては渡瀬荘次郎のことまで考えた。
果たして赤津の死は渡瀬龍一の死と関係があるのか。玲子はなぜ大橋を襲ったのか。渡瀬重太郎は本当に将棋連盟の幹部の陰謀によって葬り去られたのか。そんな取り留めのない思考が頭の中を駆け巡り、さまざまな思いが浮かんでは消えた。
黒柳は明日どんな戦法で来るのだろう。黒柳の性格からして、同じ失敗はしないはずだ。彼は感情に泳がされることはなく、合理的な手を指すことを自らに課している。三度も同じ戦法でやられた以上、二度と振り飛車にはしないだろう。
だとしたら相矢倉戦か、横歩取りか、それとも角換わり戦なのか。いや、やはり振り飛車からの穴熊戦法だろうか。そうなった場合、黒柳の新手が出るのだろうか。そこまで考えたところで、大橋は眠気の渦に呑み込まれていった。

対局当日、大橋は早めに起きた。シャワーを浴びて、すぐに和服に着替えた。
カーテンを開けて外を見ると、昨日は暗くどんよりと垂れ込めていた雲が消えて、珊瑚色に輝く陽光が湖に乱反射している。
暖房がやたらと暑く感じられた。対局を控えて気分が高揚しているのかもしれない。大橋は外をひとまわり散歩して、ほてった体を冷やしてから、対局室に向かった。
対局室には黒柳が先に入っていた。彼は正座して瞑想していたが、大橋が部屋に踏み込んだ瞬間、鋭い視線をよこした。
いままでの黒柳には見られない態度だった。いつも飄々としていて常に冷静なのが黒柳だ。対局者はいっこうに動じない黒柳を見てじりじりする。ところが今日は気迫たっぷりに大橋を睨んできた。
いつもの黒柳とは別人のような様子からも、今日の対局に対する彼の気合いが、ひしひしと伝わってくる。
大橋の先手▲7六歩で勝負は始まった。
黒柳が△3四歩と角道を空けたのを見て、予感が走った。黒柳は前局と同じ振り飛車にするつもりではないだろうか。大橋が飛車先の歩を突いたとき、黒柳は△4四歩と角道を止めた。やはり黒柳は振り飛車にするつもりなのだ。
対局が始まると、黒柳の気配は前回と同じように消えた。赤津と対局したときには正対するだけで疲れるほどの威圧感を感じたのに、黒柳相手だとまるでそれを感じない。
何手か指したが、相変わらず黒柳からは、強い者が持っているオーラのようなものが感じられなかった。次第に大橋は黒柳の将棋に対して、ある感想を抱くようになってきた。
黒柳の強さは「宗歩」の強さと大差ないのだ。最初は脅威を受けるものの、対局を重ねるにつれ、一本調子であることに気づく。
常に合理的な手を指すということは、ある意味コンピュータ的で単調なのだ。その先には、究極の指し手は存在しない。黒柳の将棋はそうした袋小路に迷い込んでいるようにも思えた。
駒組みが着々と進んだときに、黒柳が珍しく穴熊に囲わないことに気づいた。いつもは玉を固く囲おうとするのに、今日は美濃囲いで済ませている。
さらに大橋はあることに気づいた。どこかで見たことがあるような展開になっている。それは塚本八段と渡瀬重太郎が対局したときの展開だった。
黒柳はあの将棋を知っているのだろうか。あのときは渡瀬重太郎が先手で、塚本八段が後手だったので、大橋が渡瀬重太郎側で、黒柳が塚本八段側になる。渡瀬重太郎が当時としては斬新な穴熊囲いで、塚本八段から一本を取る駒組みだった。
黒柳は淡々と塚本八段の将棋をなぞっている。大橋にはここから穴熊ではなく急戦を仕掛けるという選択肢もあった。
しかしこのとき大橋には考えがあった。急戦は仕掛けず、あえて渡瀬重太郎の棋譜をなぞった。大橋が香車を上げたとき、第三局までとはまったく逆の展開の将棋に、室内の空気がざわめき立った。
その後も大橋は黒柳に合わせ、渡瀬重太郎とまったく同じ手を指し続けた。渡瀬・塚本戦とまったく同じ手順で、局面は展開した。
もうそろそろ駒組みは終わりに近づいていた。ここらで手を封じてもよいだろう。
大橋は渡瀬重太郎の指した手を封じ手にして立会人に渡した。

対局二日目。大橋の封じ手が読み上げられると、対局室に緊張した空気が漂った。大橋の手は攻撃開始の第一歩になる歩の突き捨てだったからだ。
相変わらず、黒柳は塚本八段とまったく同じ指し手を指した。大橋は過去の棋譜と同じように、黒柳の手をとがめ、序盤で優位に立った。黒柳は劣勢に気づき始めたようで、苦しそうに顔をゆがめた。
だがそこからの黒柳は強かった。黒柳は塚本八段と同じ手を指し続けて、決定打を許さない。黒柳は渡瀬対塚本の対局は知らないはずだ。それなのに黒柳は塚本八段と同じ指し手を辿っていく。
塚本八段の指し手は、当時のプロ棋士たちの研究結果だ。黒柳は、プロ棋士たちが導き出したその手を、たったひとりで考え、指し続けた。以後もも大橋と黒柳は、塚本八段と渡瀬重太郎の対局との同一局面を再現し続けた。
終盤になり、問題の局面になった。実戦譜では渡瀬重太郎が桂馬を渡して塚本玉に必至をかけている。だが、桂馬渡しは悪手で、桂馬を渡したことで渡瀬玉は即詰みに討ち取られる。大橋の研究によれば、金を渡して必至をかければ大橋玉は詰まない。
大橋はおもむろに桂馬を取り出すと、その桂馬をただで捨て、数手指し、黒柳玉に必至をかけた。それは大橋玉に即詰みの筋が出てくる手で、渡瀬重太郎が指した手だ。大橋はあえて渡瀬の実戦譜をなぞる展開にした。
黒柳が目に見えて狼狽し始めた。そわそわと落ち着きがなく、視線もどこか定まっていない。黒柳は着物の袂に手を入れて、しばらくのあいだ宙を凝視していた。
やがて黒柳は扇子で自分をあおぐと小さく吐息を漏らし、長考に入った。
持ち時間は残り二十分あった。黒柳は時間をフルに使って即詰みを読むだろう。おそらく最後の考慮時間になる。
塚本八段が指したように△9九角と打ち込めば黒柳の勝ちだ。
黒柳は目を血走らせ、盤面を凝視している。呼吸も心なしか荒くなっている。盤面を見つめ、考えている黒柳からは一流棋士が持つ凄みのようなものは微塵も感じられない。追い詰められて怯えた小動物のような瞳で、ひたすらに盤面を見つめていた。
時間は二十分ある。本来の黒柳なら塚本八段が指した鬼手を思いつくはず。黒柳は棋界を代表する棋士なのだ。当時のプロ棋士が考えた手を黒柳が思いつかないはずはない。
十分が過ぎたが、黒柳は指そうとはしない。ただひたすらに盤面を睨んで、即詰みの筋を読んでいるようだった。黒柳は苦悶の表情で額に汗を滲ませている。
二十分が過ぎた。黒柳の呼吸が再び荒くなってきた。もうあと一分しか時間がない。黒柳はもの凄い形相で盤面を凝視している。
記録係の青年が残り時間を読み上げだした。
「五十秒……五十五秒、六、七、八、九……」
時間切れ寸前で、黒柳が駒台から素早く駒を取り、盤上に置いた。
黒柳の指し手を見た大橋は失望した。黒柳の指し手は、なんの変哲もない王手だったのだ。
なぜ竜王戦に限り、第一局から第三局まで黒柳が弱かったのか。なぜ黒柳は塚本八段と同じ手を指したのか。なぜ黒柳が即詰みに討ち取れないのか。そして、なぜ「宗歩」の穴熊採用率が高かったのか。大橋の疑問は、黒柳の指し手によって、すべてが氷解した。それは大橋が最も考えたくなかった結論だった。
大橋はノータイムで玉を上部に動かした。黒柳は王手、王手と大橋の玉を追い詰めた。大橋は玉を上部へ逃がし始め、しばらくのあいだ黒柳の王手が続いた。やがて大橋の玉は黒柳陣をかいくぐって、上部脱出を果たした。
黒柳は絶望の気持ちを隠そうともせず、盤面を未練がましく見つめていたが、やがて静かに駒台に手を置いた。
「ありません」
震える唇から出た消え入るようなその声が、大橋竜王の誕生の瞬間だった。とたんに対局室へ報道陣が流れ込み、大橋は眩いばかりのフラッシュを浴びた。
大橋が歓声と賞賛に包まれているとき、黒柳は青ざめた顔で茫然と宙を見つめていた。

(続く)