〔6〕

家に帰ると、大橋は早速「宗歩」と対局してみた。このあいだ負けたのはたまたまではないかと思ったからだ。
「宗歩」の使い方は渡瀬に聞いたので、ある程度わかっていた。
まず大橋が▲7六歩と指したい場合、上段の左から七番目のボタンを押し、次に下段のボタンの左から六番目を押す。最後に上段の右から一番目の黒いボタンを押すと、初形から先手が7六歩と指した形に画面が表示される。
大橋が上段の黒いボタンを押してしばらくすると、「宗歩」は八回、四回、一回振動する。ディスプレイを覗くと、△8四歩の地点が点滅している。ここが最善手と示しているのだ。下段の黒いボタンを押すと、その手で確定され、先手が再び指し手を入力することになる。
再び大橋は次の手を指し、上段の黒いボタンを押す。するとコンピュータが次の手を教えてくれる。大橋は下段の黒いボタンを押して、その手で確定する。そして次の手を指す。この繰り返しで局面が進んでいく。
画面を始終見ていられるので、さほど難しい操作手順ではない。ある程度慣れると、大橋は本気で「宗歩」と対局してみた。
結果は十局勝負して、大橋の全敗だった。惜しい将棋は少なく、ほとんどの対局が短手数で攻め潰されて負けた。
大橋は対局が終わったあと、しばらくのあいだ放心していた。
やはり「宗歩」の実力は本物だ。A級八段どころか、それ以上の実力を有しているのかもしれない。少なくともいまの大橋の勝てる相手ではない。たぶん現名人の黒柳と対局しても、ひけをとらないだろう。
渡瀬の言葉に嘘はなかった。この装置を使えば三段リーグを突破することはおろか、タイトルにも挑戦できるのではないか。
大橋は「宗歩」のスイッチを切り、コンピュータ将棋について書いてある専門誌を手にとった。
もともとコンピュータを使ってゲームの必勝法を見つけ出すやり方は、将棋以外のゲームでもさかんに行われている。
世界で最初に有名になったゲームプログラムはチェッカーで、IBMの研究者のサミュエルが1950年代に作ったものだ。
サミュエルのプログラムは人間の一流レベルにまで到達していたので、コンピュータでの研究の余地はないといった風潮が当時強かった。そのためサミュエルのあとには、チェッカーのプログラムはほとんど作られなかった。サミュエルのプログラムは人間の一流のレベルまでは達したものの、世界チャンピオンレベルまでにはまだかなりの差があった。
1992年になって、シェファーが「Chinook」というプログラムを開発した。「Chinook」は当時の世界チャンピオンと戦って、僅差で負けたが世界チャンピオンと同レベルになっているとの世間の認識を強くした。シェファーは世界チャンピオンに勝てば、チェッカーの必勝手順の解明を目指すと言っている。
それでもチェッカーは10の30乗程度の手を読むだけで済む。10の220乗の手を読まなければならない将棋よりははるかに単純なのだ。
オセロは1970年代に日本人によって発明されたゲームで、8×8の升目に白黒の円盤を置いて相手の色の円盤をはさむゲームである。オセロは指し手の総数が(60=8×8─4)に限られていて、当初からコンピュータ向きのゲームとして考えられていた。オセロは10の60乗の手を読む必要があるが、すでに必勝法まで考案されている。現在はオセロゲームも人間の世界チャンピオンの実力に近づきつつある。
チェスは世界中で最もプログラム作りが盛んなゲームだ。ゲームに関するアルゴリズムのほとんどはチェスの強いプログラムを作る試みの中で生まれてきたといっても過言ではない。ルールが非常に似ているので、将棋のプログラムもチェスのアルゴリズムが利用されている。チェスも将棋と同様に、理論上必勝法は存在することになる。チェスは、10の120乗の手を読む必要がある。
チェスのプログラム化を試みたのは、シャノンという研究者だ。彼は理論上考案しただけで、実際にプレーできるプログラムができたのは1958年だった。その後、初めて初級者のレベルに達したのは1967年のグリーンブラッドが作った「Machack」だ。
1980年代に入って、コンピュータチェスもハイレベルになっていった。1980年代後半になり、米国カーネギーメロン大学のグループが「Deep Thought」を開発してコンピュータチェスの世界選手権を制した。「Deep Thought」は超一流のプレーヤーの域に達していて、このシステムに勝てる人間は世界に百人いるかどうかと噂された。
1990年には人間の世界チャンピオンであるカスパロフと「Deep Thought」のあいだで対戦が行われた。カスパロフは史上最強と呼ばれるほど強いプレーヤーで、当時は無敵だった。結果はカスパロフの二戦二勝だったが、コンピュータチェスが人間の世界チャンピオンと堂々と渡り合ったことは当時の話題を呼んだ。
1997年、IBMがチェス用に開発したコンピュータ「Deep Blue」がカスパロフと対決し、無敵を誇っていたカスパロフがとうとう敗れた。
さらに2003年、イスラエルのプログラマが開発したチェスソフト「Deep Junior」がカスパロフと対戦して一勝一敗の成績を修めた。以前対戦した「Deep Blue」はIBMのスーパーコンピュータだったが、このときカスパロフが対戦した「Deep Junior」は国内では二万円程度で購入できるプログラムで「Windows OS」で動作する。パソコンのプログラムがチェスの世界チャンピオンと同等の強さになった瞬間だった。
囲碁に関してはまだまだこれからのようである。手が10の360乗と将棋より複雑なため、必勝法を見つけ出すのは将棋よりずっと難しい。一辺に置ける数が十九個なので(19×19=361)、(361!=10の760乗)といった見積もりもあるくらいだ。囲碁は世界中で一番複雑なゲームと言えるだろう。
囲碁の場合、すべての手の可能性を調べていくのは物理的に不可能で、見込みのありそうな手だけに絞ってコンピュータが考えなければならない。そのため盤面の中で重要な部分だけに注目する方法や、盤面の一部を効率的にパターンとして認識する方法などを工夫する必要がある。形勢判断も非常に難しく、ゲームプログラムの研究者にとっての究極の課題が、囲碁の世界チャンピオンに勝つことになるだろう。
ただ囲碁は将棋と違って、日本だけではなく韓国、中国、台湾でも盛んなゲームで、将棋のように漢字が必要になるわけではないので、西欧人も取っつきやすい。囲碁のソフトウェアの開発は西欧で始まったくらいで、これから研究が進んでいく可能性が強い。
もとより囲碁も将棋と同様、「二人・零和・有限・確定・完全情報」ゲームなので、理論上は必勝法が存在する。
最初に囲碁ソフトを作ったのはゾブリストで、1969年だ。強さはアマチュアの30〜40級程度だったと言われている。1979年、ライトマンによって「Interim.2」というプログラムが作られ、強さは20級を超えた。
1980年代後半からはコンピュータ囲碁の世界選手権が開かれているが、優勝したプログラムはすべて外国製である。オランダで作られた「Goliath」というゲームが事実上世界一と言われた。
最近ではコンピュータ囲碁の棋力が向上し、アマチュア初段認定の囲碁ソフトも市販されている。だが、客観的な評価はまだ発表されていない。人間用の囲碁専門誌の棋力認定問題を用いて、市販対局囲碁ソフトの評価を行ったところ、4〜6級程度だったといった研究結果も発表されており、実際のところはまだまだ初段にはほど遠いのかもしれない。
将棋のプログラムは日本人の手によって進められた。
将棋のコンピュータ化のアイデア自体はチェス同様にコンピュータ出現の直後からあった。実際に初めてプログラム同士が対戦したのは1979年で、大阪大学と玉川大学のプログラムが電話連絡で戦い、一局に二ヶ月以上もかかっている。
1983年には初めてパソコン用の市販ソフトウェアが登場したが、まだコンピュータにも将棋が指せるといった程度にとどまっていた。
1984年に登場したのが「森田将棋」だった。これはオセロのプログラムで有名だった森田氏が作ったプログラムで、従来のプログラムとは比べ物にならないほど強かった。このプログラムはアマチュアの10級程度の実力があったと言われているので、将棋を覚えたての初心者よりもずっと強かった。
1987年にはコンピュータ将棋協会が発足し、「森田将棋」を脅かすソフトが次々と登場してきた。1990年前後にはアマチュアの4、5級にまで実力は上昇した。
1999年には二段程度、2000年には三段程度、2002年には四段程度、2004年には五段の実力があるのではないかと言われるソフトウェアも市販された。
玉を詰ます「詰め将棋」に関しては、この時点ですでにトッププロの実力に迫っていて、当時棋士の中には冗談で「ソフトの持ち込みは厳禁だ」と言う者もいたくらいだった。
2005年10月14日、日本将棋連盟理事会は、すべてのプロ棋士と女流棋士に、公の場で許可なく将棋ソフトと対局しないよう通知したと発表した。
きっかけは2005年9月に石川県小松市であった公開対局だ。五段の棋士が途中まで不利な戦いを強いられた。危機感を持った理事会は「企画がある場合は必ず事前に申し出をお願いします」と10月6日付の会報で通知。会見で米長邦雄会長(当時)は「破った者は除名」と強い決意を示した。
2007年3月、将棋イベントとして渡辺明竜王(当時)とコンピューター将棋ソフト「Bonanza(ボナンザ)」との対局が行われた。Bonanzaはタイトルホルダーの渡辺相手に大健闘をし、終盤の一手の読み違いがきっかけとなって敗れはしたものの、高い評価を受けた。この対局は人間が近い将来、機械に勝てなくなることを予見させる接戦で、多くの将棋ファンの関心を呼んだ。
2008年5月、「第18回世界コンピュータ将棋選手権」のエキシビションマッチで、朝日アマ名人の加藤幸男氏(26)とアマ名人の清水上徹氏(28)のアマチュアトップ二人が、「激指(げきさし)」という将棋ソフトと対戦し、ついに将棋ソフトが公開の場で、アマのタイトル保持者に勝ってしまった。
アマチュアのトップクラスは、しばしばプロ棋士を負かすことがある。この実力関係を考えると、プロ棋士がコンピュータに公開対局で敗れるのも、時間の問題ではないかと言われている。それほどコンピュータはプロの力に肉薄してきたのだ。
特にある局面において『詰み』を見つける作業は、コンピュータが最も力を発揮する分野で、すでに人間を凌駕する実力を備えている。
詰将棋の作成にあたり、コンピュータを用いて検算することは、もはや常識となっていて、プロ棋士のタイトル戦でも、終盤の詰むか詰まないかの展開においては、控え室でコンピュータ将棋を使って詰み筋を探すのが見慣れた光景と化している。
大橋も市販の将棋ソフトと対局した経験があるが、思ったより強くて驚いた記憶がある。特に時間の短い将棋では負け越すのではないかと思えるほどだった。しかし本気になれば、まだまだコンピュータ将棋には負けない自信はあった。
ところが「宗歩」はそれらの将棋ソフトよりさらに優れていた。なによりもコンピュータ将棋の弱点になっている序盤、中盤での強さが際立っていた。渡瀬が自慢しているように、新しい理論が組み込まれているのは間違いない。
コンピュータ特有の序盤の構想力不足を解消するために、玉を早々と固め、十分な体制を整えて攻撃を開始する。コンピュータの弱点を補うような戦術を採用しているため、序盤、中盤で人間は差をつけられない。そうして最も得意な終盤になって、トッププロも顔負けの読みを展開する。
渡瀬が言っていたとおり、「宗歩」の実力は名人クラスを凌駕するのではないか。

突然、大橋の携帯電話が鳴った。電話を取ると陽気で大きな声が聞こえた。
「大橋か? 実はいま近くで飲んでいるんだ。おまえも出てこれないか?」
黒柳七冠だった。以前は黒柳も大橋、赤津と一緒に研究会を開いて、毎日のように将棋を指していた仲だ。
黒柳からの連絡は久しぶりだった。彼がタイトルホルダーになってから、研究会には姿を現さなくなったが、個人的に大橋とは親交があった。
電話の向こうで賑やかな声が聞こえる。黒柳は派手なところがあり、酒を飲みに行くのにも大人数で行くのを好む。七冠になってから、彼のスケジュールは多忙を極めているはずだが、相変わらず飲み歩いているようだ。
「いまどこで飲んでいるんだ?」
「『オルフェ』という店だ。一緒に飲んでいる人間がつまらなくてな。おまえも来いよ」
無性に飲みたい気分だった。大橋は二つ返事で黒柳の誘いに乗った。
大橋は店の住所を聞くと、自宅を出た。

〔7〕

「オルフェ」はすぐに見つかった。
銀座の中心に店を構えていて、テーブルに着くだけで十万円も取られそうな雰囲気の店だ。もちろん大橋はそんな高級な店に行ったことはない。しばらく逡巡したあと、大橋は店の中に入っていった。
店に入るなり、あでやかな着物を着た年配の女性が出てきた。若作りをしているが、五十歳を超えているようだ。厚めの化粧と赤い口紅が毒々しい印象を受ける。
彼女は値踏みするような目で大橋を見て、意外そうな顔をしたが、大橋が黒柳の名前を口にすると、すぐに愛想のよい笑みを浮かべた。
大橋が案内されたテーブルには、黒柳を中心に二人の背広姿の男が座っていた。黒柳はテーブル席でつまらなそうに飲んでいたが、大橋の姿を見ると、首を伸ばして大きく手を振った。
「おう、ここだ。ここだ」
大橋が背広姿の二人の男に目礼すると、頭の禿げ上がった男が、ぎょろりとした目つきで大橋に一瞥をくれたあと、黒柳に言った。
「それでは先生、私たちはこれで」
そう言いながら、隣の爬虫類に似た若い男に目配せをすると、立ち上がった。老けて見えるがこの禿頭はまだ三十代、爬虫類は二十代だろう。男たちの顔はにこやかだったが、よく見ると瞳は笑っていない。油断がならないような、癖がありそうな感じの人物だった。黒柳がスターになって以来、彼の周りにはこうした類の人間が増えたような気がする。
黒柳は男たちの挨拶には返事もせずに、手を挙げて追い払うような仕草をした。
「ここの勘定はお連れ様の分もお支払いしておきますので、例の件はよろしくお願いします」
自分の勘定も払ってもらえると聞いて、大橋は安堵した。安堵したあと、自分の考えのさもしさに気づき、自己嫌悪に陥った。
男たちが帰ると、黒柳は大きく息を吐いた。
「まずい酒を飲んだ。いまから飲み直しだ」
「あの人たちを帰してしまっていいのか?」
「あいつらは俗物中の俗物だ。七冠のおれに恩を売りつけて、利用しようと企てている寄生虫みたいな野郎どもだ」
黒柳は吐き捨てるように言った。
黒柳は昔から派手好きだった。酒を飲みにいっても、常に話題の中心になりたがり、自分が一番ではないと気が済まないところがある。
ただ、黒柳の飲み方が若干変わったような気がした。昔はもっと酒を楽しく飲んでいたが、最近はどこかやけになって飲んでいるような印象を受けた。
黒柳はほとんどミスをしないことから、「棋界の精密機械」と呼ばれ、「勝つ将棋」よりも「負けない将棋」を指した。彼の考慮時間は主に終盤に使われ、終盤の指し手は正確無比だった。
序盤の研究にも熱心で、先輩棋士の棋譜は必ず目を通した。彼は穴熊が一番有利な戦法と結論づけ、相手が振り飛車ならば居飛車穴熊、居飛車なら振り飛車穴熊に囲った。
早指しのテレビ棋戦ではさほど振るわなかったが、持ち時間の多いタイトル棋戦では抜群の強さを誇っていた。
ところが赤津は黒柳の指す将棋をいっさい認めなかった。とりわけ黒柳の緻密だが面白みのない棋風が赤津には許せなかったようで、二人は練習将棋中によく衝突した。大橋は二人が言い争うのをよく仲裁したものだ。黒柳との対局中に、赤津が「そんなのは将棋の手じゃない」と吐き捨てたこともある。
赤津と喧嘩しながらも、自分の将棋観を語っていた昔は、将棋が好きでだれよりも強くなりたい気持ちが黒柳からは感じられた。
しかし、いまはどこか刹那的になったような気がした。七冠という途方もない名誉を手に入れると、人間は達観して、黒柳のようになるものなのだろうか。
黒柳が大橋に目を向けた。
「奨励会はどうだったんだ?」
大橋がかぶりを振ると、黒柳は身を引いて残念そうに嘆息した。
「またも負けたか八連隊か……」
「なんだ、そりゃ?」
「さあ、うちの爺さんが将棋で負けたとき、よく言っていた言葉だ。またも負けたか八連隊、それじゃ勲章くれんたい(九連隊)ってな 。西南戦争がなんたらとか言ってたな。よくは知らんが、その八連隊って、よっぽど弱かったんじゃねえのか」
黒柳に他意はないようだったが、大橋は自分のことを言われているような気がして、いっそう暗い気持ちになった。
「ところで黒柳、また連勝記録を伸ばしたんだって」
大橋が黒柳に話を振ると、彼は顔を背けた。
「別に。他の棋士たちが弱いだけだ。どうしておれに勝てないのかと腹が立つくらいだ」
「おまえはすごいよ。昔はおれにも勝てるチャンスがあると思ってたけど、最近の将棋を見ると、とうてい勝ち目がない気がする」
褒められると、いつもは素直に喜ぶ黒柳が、あまり嬉しそうに見えなかった。
「おまえもおれの将棋なんかに感心しているから、いつまで経っても四段昇段ができないんだ。なんでおまえは肝心なところで負けるんだ?」
今日の黒柳はやけに突っかかる。大橋は苦笑した。
「おれの腕が未熟なんだろうな。そもそも、おれには将棋の才能がないんだよ」
「おまえは強いぞ。おまえが勝てないのは、将棋が下手だからじゃない。精神的に弱いんだ。おまえは昔からここ一番の勝負に弱かったからな」
「それも含めておれの実力だよ。実はいま奨励会を退会しようと考えているんだ。どうせプロ棋士になったとしても、たいして活躍できそうにないし……」
大橋が呟くと、黒柳は大橋の顔をまじまじと見つめた。
「本当におまえはそう思っているのか?」
「ああ、このあいだもアマチュアと将棋を指して負けた。おれは根本的に将棋に向いていないのかもしれない」
どこかで黒柳が止めてくれるのを期待していたところもあった。ところが黒柳は横を向いて静かに言った。
「そうか。おまえがそう思うのなら、そうしたほうがいいのかもな。しょせん将棋なんかゲームだ。人の役に立っているわけでもなく、なにか有益なものを生み出しているわけでもない。ゲームなんかが上手くても、自慢にもなんにもならないしな」
将棋、ひいては、一生懸命やっている自分を馬鹿にされたような気になった。
「将棋なんか、とはなんだ。おまえは将棋を馬鹿にするつもりか?」
「馬鹿にしてはないさ。ただ、単なるゲームだと言っているんだ。単なるゲームに人間の一生を賭けることのほうが不自然だとは思わないか?」
「いくら七冠のタイトルを持っているといっても、言いすぎだよ。おまえの言い方は、将棋だけじゃなく、プロの将棋指し全員を軽く見てることになるんだぞ」
「だったら将棋をたかだかゲームと考えているおれから、だれかひとつでもいいからタイトルを獲ってみろよ。いくら将棋が好きでも、負ければただのカスだ。だれもおれに勝てないくせに、言うことだけは一丁前だ。うんざりするよ」
「なあ、黒柳。おまえはいつからそんな考えを持つようになったんだ? 昔はもっと将棋に対して純粋な気持ちを持ってたじゃないか。おまえは将棋を単なるゲームだと言うけど、そのゲームに一生を捧げるつもりでやっていたんだろう? 自分の将棋で新しい将棋観を確立する。以前はそう言っていたじゃないか」
黒柳はうすく笑った。
「だからいま確立しているじゃないか。おれの穴熊将棋でな」
なんとなく黒柳の言い方が捨て鉢のような気がした。
「おまえは将棋が嫌いになったのか?」
「好きだよ。だからこそけなしているんだよ」
黒柳の瞳に暗い翳がよぎった。黒柳は顔を背け、口をつぐんだ。
黒柳は頂点に達する者だけが持つ孤独感に苛まれているのかもしれない。対局に勝ちはしても、だれも自分のレベルに到達していないため、心のどこかで満たされない気持ちを抱いている。いつか自分を倒してくれる相手が現れるのを、黒柳は心の奥底で待ち望んでいるのではないだろうか。
しばらくの沈黙のあと、黒柳が大橋を見て気遣うように言った。
「おまえは将棋の才能は十分にあると思う。おれが棋界で認めているのは、おまえと赤津だけだ。おまえが辞めると決心したのなら、おれにはなにも言えないけど、せめてあと一年頑張ってみないか?」
黒柳は人一倍繊細だ。大橋の心情を慮って、わざと乱暴な物言いで大橋を慰めてくれていたのかもしれない。だから、わざと将棋を貶めるような言い方をして、大橋の気持ちの負担を軽くしようとしてくれたのだ。
大橋は黒柳の乱暴だが不器用な友情に、心の中で感謝した。

〔8〕

次の日、自分の部屋で寝そべって詰め将棋を解いていると、父親の信夫が入ってきた。
「ちょっといいか?」
返事をしようと振り向いた大橋は声を上げた。
「先生」
信夫の後ろには師匠の平畑もいた。大橋は弾かれたように起き上がった。
「どうしたんですか?」
大橋が訊ねると、信夫がゆっくりと答えた。
「おまえに話があってな」
いやな予感がした。信夫がこうした言い方をすることはめったにない。しかも今日は師匠の平畑までいるのだ。いつもは目を細めてにこやかな顔をしている平畑の表情も、心なしか硬い。
「どうしたんでしょうか?」
平畑は信夫の顔を見て軽く頷くと、世間話でもするようにさりげなく言った。
「宗坊、今回は惜しかったな」
師匠の平畑は、大橋を小学生のころから知っていて、宗坊と呼んでいた。大橋が平畑に弟子入りしても、呼び名は変わらない。平畑には子供がいないせいか、大橋を孫のように可愛がってくれる。
優しげな瞳と額の横皺が平畑を人のよさそうな人物に見せている。若いときには真剣師とも渡り合い、ずいぶんと危ない真似をやったとも聞くが、歳をとったいまでは、すっかり好々爺然としている。
「期待に沿えずにすみませんでした」
大橋が頭を下げると、平畑は手を振った。
「勝負は時の運だ。仕方がないさ」
平畑の優しい慰めがいっそう大橋の心に堪えた。
平畑は大きく息を吸い込むと、ゆっくりと吐き出し、白髪頭をかいた。
「どうだ、宗坊、もう専門棋士になるのは諦めないか?」
やはりその話か、と大橋は思った。信夫が平畑を連れてきて、改まって話があると言ったときから、だいたい想像はついていた。
平畑は、落ち着かない様子で首を小刻みに揺らしながら続けた。
「宗坊に専門棋士の素質がないと言っているわけではないんだ。宗坊は私から見ても、専門棋士としてやっていける実力は十分あると思っている。ただ、物事にはいろいろな運がある。実力のある宗坊が何度も昇段のチャンスで負けたのは、宗坊にはもっと別の道がある。そう神様が言っているのではないかと、私は思うんだよ」
大橋は平畑の顔をじっと見ながら、黙って聞いていた。平畑のいたわるような表情が、いっそう大橋をみじめにさせた。
「お父さんとも話し合ったんだが、たとえ宗坊が来年四段に昇段したとしても、年齢的にいささか遅い。こう言っちゃ悪いが、いくら頑張ってみたところで、ある程度先が見えている。そんな夢のない道にこだわるより、もっと他に道があるんではないかと思うんだ。宗坊は二十代だ。世間的に見れば、まだまだ若い。これから別の人生を歩いても、十分に間に合う年齢だ。どうだろう、ここは私の助言に耳を傾けてくれないだろうか?」
横から信夫が平畑を援護した。
「宗角、これはお父さんとお母さんで話し合った結論なんだ。父さんが、うちの家系は将棋家の流れを引くなんて言ったもんだから、おまえにもいろいろとプレッシャーをかけていたと思うし、だからこそおまえは専門棋士になろうとしたのかもしれない。おまえにはもっと普通の家庭のように、好きなことをやらせてもよかったんだと思う。もしおまえが父さんを恨んでいるなら、仕方がない。でも、おまえは小さなころから聡明で、将棋を指せばすごい棋士になると、父さんは本当に思っていたんだ。そのせいで、おまえに過大な期待をかけて、逆にプレッシャーを与えてしまったのかもしれない」
信夫はいつになく饒舌だった。信夫の舌の滑りがいいときは、叱るときか、弱っているときかのどちらかだ。たぶん宗角の身を案じて、母の和子とも話し合っていたのだろう。
信夫は大橋がいままでに見たことがないような困り果てた表情を浮かべていた。大橋がどんなに将棋に負けても、大丈夫だ、大丈夫だと励ましてくれていた父の顔が、いまはどうしようもないほど弱々しかった。
いつのまにか白髪は増えて、顔にはたくさんの皺が刻み込まれている。大橋が幼いころは無口で怖かった父の姿とは思えないほど、力がない。
たしかに大橋は、信夫に将棋を無理矢理教えられたことを恨みに思っていた時期があった。将棋家にちなんだ名前までつけられ、子供のころから将棋の相手をさせられ、宿題の代わりに詰め将棋を解かされた。将棋家に関係のない家柄だったらよかったと何度も思った。
しかし、いまではそのことを恨みになど思ってはいない。いくら信夫が勧めたとしても、自分の人生くらい自分で決められる。大橋が将棋指しになろうと思ったのは、あくまで大橋の意思だ。将棋指しへの道は、大橋が決めたことなのだ。信夫が気に病む必要などない。
大橋が押し黙っているのを見かねて、平畑が口をはさんだ。
「お父さんは宗坊に将棋を教えたことを後悔していらっしゃるようだが、私はそんなことはないと思っている。たとえ宗坊が新しい人生を歩んだとしても、将棋を指した経験は必ず宗坊のためになるはずだ。宗坊は頭も切れるし、人から好かれる性格だ。優しい性格が災いして、大事なところで勝負を落とし、昇段を逃し続けたのだろう。宗坊の性格のよいところは、勝負師には不向きだが、社会では強い武器になる。宗坊はもっと人と接する職業のほうが向いていると、私は常々考えていたんだよ」
信夫が補うように言った。
「もしおまえがどうしても将棋に携わっていたいと言うのなら、平畑先生が将棋に関係する就職先を見つけてくれるとおっしゃっている。うちの店を手伝ってくれるのでもいい。ひとまず将棋指しになる道を考え直してみてはどうだろうか?」
大橋よりも、信夫のほうが辛いのではないだろうか。自分の果たせなかった夢を息子に託し、その夢さえついえようとしている信夫の気持ちを考えると、たまらなくなった。
重苦しい空気を破るように、大橋は絞り出すような声で言った。
「あと……」
信夫と平畑がいっせいに大橋の瞳を見つめた。
「あと一年だけ、やらせてくれませんか? このままプロ棋士への道を諦めたんじゃ、どうしても納得がいかないんです」
信夫が大橋の顔を意外そうに見つめた。
「でも、おまえこのあいだ、棋士になるのはもう無理かもしれないと言っていたじゃないか」
「あのときは負けた直後で、弱気になってたんだ。このまま終わったんじゃ、中途半端になってしまうに決まってるよ。どっちにしろ、おれのチャンスはあと一年。勝っても負けてもそれで最後だ。最後の一年を納得のいく形で終わらせたいんだ」
平畑が大橋の顔を見つめた。
「たとえ来年昇段したとしても、宗坊はもう三十歳前だ。順位戦を勝ち上がっていくのは並大抵のことではないぞ」
「承知の上です。でも人にはそれぞれの全盛期があると思うんです。いまは成績が低迷していますが、私はまだまだ強くなれる自信はあります。なんとしてでも来年昇段します。私はA級八段への道をいまこの段階で諦めたくないんです」
大橋は渡瀬に借りた「宗歩」を使うことを考えていた。このままくすぶっているよりも、ソフトウェアを使ってでも勝ちあがりたい。信夫の申し訳なさそうな顔を見ているうちに、決意が固まっていった。
いずれにしろ、来年負ければプロとしての道は断たれるのだ。「宗歩」を使って将棋界を永久追放になるのとあまり変わりがないではないか。
不正行為だという自覚はあった。しかし、何年も両親の期待を裏切り続けるよりも、どのような手段を使ってでも、勝ち上がったほうがいいのではないだろうか。
大橋は信夫に向き直った。
「父さん、おれは父さんに将棋を教わって本当によかったと思っているよ。父さんを恨んでなんていない。でも、ここで棋士になる道を断たれたら、おれは本当に父さんを恨むと思う。あと一年、あと一年だけ、おれにチャンスをくれないか」
しばらく黙って考えていた信夫は、平畑の顔を窺った。
「どうでしょう、先生。こいつがここまで言ったのは初めてです。先日こいつが弱音を吐いたとき、専門棋士の夢を追い続けさせるのは無理だと思いましたが、どうやらまだ望みを捨てていない様子です。意思表示をはっきりさせたこいつに免じて、あと一年面倒を見てもらえないでしょうか?」
信夫はそう言いながら、畳にこすりつけるほど、頭を下げた。
信夫の姿を見ているうちに、大橋の胸に抑えていた感情があふれ出してきた。大橋は涙を堪えながら、信夫と一緒に頭を下げて師匠に頼み込んだ。
「お願いします、先生」
平畑は恐縮したように身を引くと手を振った。
「お父さん、そんなに頭を下げないでください。宗坊がそこまで言うのなら、私になんの異存もありません」
平畑は大橋の顔をじっと覗き込んだ。
「宗坊、チャンスは来年だけだ。あと一年、納得いくまで頑張ってみなさい」
「ありがとうございます」
大橋の代わりに、信夫がぺこぺこと何度も頭を下げた。
父の必死の姿が大橋の良心をちくりと刺す。大橋がこれからやろうとしていることが発覚したら、棋士になるどころか、将棋界から永久に追放される。それどころか社会的に抹殺されるかもしれない。
だが、このままなにもせずに、父親を失望させるよりは、リスクを冒してでも勝ち上がるほうが、はるかによいように思えた。それが親孝行をする唯一の選択肢ではないだろうか。
大橋は「宗歩」を使用することを決断した。もう後戻りはきかない。大橋は自分の心を奮い立たせた。

平畑が帰ると、大橋は渡瀬に電話をした。
大橋が「宗歩」を使用する意思を電話で伝えると、渡瀬は当然のような声で「ま、そうでしょうね」と小馬鹿にしたように言った。
「じゃあ、いまから僕の事務所に来ていただけますか?」
電話を切ると、大橋は急いでヘヴンフィールドのオフィスに向かった。

〔9〕

ヘヴンフィールドの最寄り駅までは電車を乗り継いで、一時間ほどかかる。電車に乗っている時間はさして長くもなかったが、乗り継ぎで思ったより時間をとられた。
陽光が優しく降り注ぐ天気のよい日だった。見上げると、うす雲でほんのりと白みがかった青空が広がっていた。冬のどんよりとした灰色の空が、春になると、徐々に青々とした鮮やかな空に変貌を遂げる。
ビルの三階に着いてインターホン越しに名乗ると、女性の声がした。
「大橋さんですね。承っております」
このあいだの美人社員だ。大橋の胃が緊張で締まるような感じがした。
ドアが開いて彼女が姿を現した。ベージュのツイードのジャケットの中から覗く薄緑色のシャツが洗練されていて、とても華やかに見えた。こうして見ると、古ぼけたビルのオフィスと彼女とは、どう考えても似つかわしくない。
彼女は渡瀬の部屋に入り、すぐに出てくると、申し訳なさそうな表情で、大橋に告げた。
「すみません。いま渡瀬は電話中で、しばらくお待ちくださいと言うことです」
彼女は古ぼけたパイプ椅子を持ってくると、微笑みながら大橋に勧めた。大橋は落ち着かない気持ちで、椅子に腰掛けた。
彼女が奥に戻ると、大橋はあたりを見渡した。渡瀬と同じように、この部屋もいたるところにコンピュータの書籍がある。書籍が入りきれないので、渡瀬の部屋からこちらの部屋にまで書籍が進出してきたような感じだ。
彼女はコーヒーカップを持ってきて、しなやかな仕草で大橋の前に置いた。
「ここ、汚いんでびっくりされたでしょ?」
「いえ、決してそんなことは……」
大橋があわてて首を振ると、彼女は優しげに笑った。
彼女が笑うと、少し気の強そうな顔がほころんで、双頬にえくぼができる。澄ましたときの整った顔立ちと、笑ったときの可愛らしい表情のギャップに、大橋の胸はざわめき立った。
「あの人、コンピュータ以外に興味がないみたいで、部屋なんて散らかし放題なんです。私が片付けようとしてもやめろって怒られるし。それで、お客様がいらっしゃるたびに、びっくりされてしまうんです」
彼女は弱ったように首をかしげてそう言った。
「もしかしたら、渡瀬さんの奥さんですか?」
彼女はあっけに取られた顔をしていたが、やがて愉快そうに笑い出した。
「そんな風に見えるんですか?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど、とても親しそうなので……」
彼女はくすりと笑った。
「渡瀬は兄なんです。いままで勤めていたコンピュータ会社を辞めたとき、ここで働かないかって言われて、それでアルバイトをするようになったんです」
「そうなんですか」
「私は渡瀬玲子といいます。兄より二つ下の二十七歳なんです。兄は子供のころから他の人と違うところがあったんですけど、一緒に働いてみてやっぱり変わり者だとよくわかりました。大橋さんも兄が偏屈だから、驚かれたでしょ?」
思わず大橋は口ごもった。
「いえ、そんなことは……」
玲子はいたずらっぽい顔でくすくすと笑った。あどけなさの残るその笑顔は、いつもシニカルな笑みを口元に浮かべている渡瀬とは似ても似つかなかった。
彼女は真面目な表情になると、口に人差し指を当てた。
「でも、私が喋ったことは兄には言わないでくださいね。兄は公私混同にうるさい人で、妹の私が同じ会社で働いていることを外部に知られたくないんですって。もう、ほんと偏屈でしょ?」
そう言うと、彼女は困ったように形のよい眉をひそめた。
奥の部屋で電話の受話器を激しく叩きつける音がすると、渡瀬の怒鳴り声がした。
「くそっ」
電話の相手と交渉がうまくいかなかったようだ。渡瀬がカリカリしているのが部屋越しからもわかる。渡瀬はしばらく黙っていたようだったが、やがてこちらのほうに向かって大声を発した。
「大橋さん、待たせました。部屋に入ってください」
玲子は肩をすくめると、大橋に目配せした。
「いつもあんな感じなんです」
玲子との会話で、いくぶん落ち着いた気分になった。玲子と渡瀬が兄妹であることが、渡瀬の胡散臭さを若干かき消しているのかもしれない。
大橋が奥の部屋に入るなり、渡瀬はいきなり切り出してきた。
「『宗歩』を使う決心をしてくれたそうですね?」
かすかに頷くと大橋は渡瀬の顔を見つめた。
「私の不正行為については、本当に黙っていてもらえるんでしょうか?」
渡瀬は不機嫌そうに頬をゆがめ、甲高い声を上げた。
「不正行為? 不正行為なんかじゃありません。将棋必勝法を解明するためのれっきとした研究と言ってください」
「でも私がソフトを使って勝っている事実を将棋連盟に知られたら、私は将棋界から永久追放になってしまうんです。もし渡瀬さんが黙ってくださらないのなら、私にはそんな危ない橋は渡れません。不正行為を絶対に外部に漏らさないという大前提を守っていただけなければ、この話はなかったことにしてください」
渡瀬は大仰に両手を挙げ、仕方がなさそうに溜め息をついた。
「まあ、あなたの立場はわかっているつもりです。僕のほうはデータがあればあるほどありがたいのです。あなたの邪魔をするつもりはありません。もちろん将棋連盟にあなたが『宗歩』を使っていることなど、喋るもんですか。そんなことをしたら、僕の首を絞めるようなものではないですか」
「本当ですね?」
「ええ。それは確実にお約束します。ただ、あなたは少々認識が誤っているようだ。あなたは江戸時代に将棋家がどんなことをやっていたか知っていますか? 彼らは名人の面目を保つために、不利になると指し掛けをして共同で研究したり、対局を中止したりしていたんですよ。それに比べれば、あなたのやろうとしている行為は大した問題ではない」
将棋の歴史など興味がなさそうな渡瀬が大橋将棋家について言及したので、大橋は意外に思った。
「江戸時代の将棋家についてはそうかもしれませんが、現代のプロ棋士は自分の頭で考えて将棋を指しています」
渡瀬は小馬鹿にしたように、下を向いて含み笑いをした。
「それが意味のない行為だと言っているんですよ。ミスだらけのつまらない棋譜を増やすだけでしょう。くだらない棋譜をこれ以上増やして、なにか意味がありますか?」
大橋を上目遣いに見上げると、渡瀬は続けた。
「例えば、現在では棋士よりも優秀な終盤力を持った将棋ソフトがあります。それなのに対局では人間が考えて指し、ミスを連発させている。あんなことはなにも意味のない行為だ。コンピュータが得意なところはコンピュータにやらせればよい。コンピュータのほうが読みが深いなら、終盤はコンピュータを使えばいいじゃないですか」
「コンピュータを使って将棋を指すってことですか? それだと人間が将棋を指す意味がなくなるじゃないですか」
渡瀬は口元に薄笑いを浮かべた。
「もともと人間が将棋を指す意味など、ないんですよ。将棋は単なるゲームです。たかがゲームに興じるより、棋士たちの頭をもっと有益な目的のために使ったほうが、よほど生産的だと思いますよ。この局面は詰むだとか詰まないだとか、人間が生きるために、どうでもいいことなんです。将棋指しになるくらいだから、棋士のIQは一般人より高いのでしょう。彼らの優秀な頭脳を将棋ごときで使うのはもったいないことだと思いませんか?」
大橋は首を捻った。
「それはあまりにも偏った意見だと思いますが……」
「偏ってなんかいません。プロ棋士なんて、なにも社会の役には立っていません。ただ将棋を指してるだけじゃないですか。まあ、せめて究極の棋譜を残す努力をしてくれたら、まだましなんですけどね。そうでなきゃ単なるゲーム好きのオタクとなんら変わりがないですね。プロ棋士たるもの、将棋の必勝法を解明するのが、本当の仕事だと僕は思いますよ」
「ですから、どの先生方も一生懸命指しているじゃないですか」
「ひとりひとりが勝った負けたといってやる将棋ですか? しょせんひとりの力なんてたかが知れている」
「じゃあ、あなたはどうすればいいと言うんですか?」
「例えば、究極の棋譜を作るために、将棋連盟のプロ棋士を総動員して対抗戦をやらせれば、もっと面白い棋譜ができるでしょう。そうしたら、品質の高い棋譜だけを提供できることになる。つまらない棋士のつまらない棋譜を量産する必要もない。僕はそれをやらないほうが不自然だと思いますよ。将棋連盟が素晴らしい棋譜を残さない代わりに、僕らがそれをやろうとしているんです」
渡瀬は「僕ら」と大橋もすでに仲間であるかのような言い方をしたが、大橋はどこか納得がいかなかった。
「将棋は意地の張り合いで、勝負が面白くなったり、いい手が指せたりする場合もあります。将棋は知的ゲームである反面、人間対人間の勝負なんです。単純にゲームとして捉えるのはどうかと思いますが」
「それが勘違いだと言っているんです。あなたたちは将棋指しという職業を、なにか特別な存在に考えていませんか? 将棋指しなんて、ゲームが強いだけのごくつぶしのような存在ですよ」
大橋は語気を荒げた。
「そういう言い方は失礼じゃないですか?」
渡瀬は驚いたように目をしばたたくと、大橋の顔をまじまじと見つめた。
「将棋はしょせんゲームには変わりないんですよ。必勝法を探求するために、コンピュータを使ってもいいはずだ。あなたが『宗歩』を使い、実際にプロ棋士と対局することによって、徐々に必勝法が解明されていくんですよ」
「あなたの言う通りにすれば、将棋というゲームがなんの面白味もなくなりそうな気がしますが……」
渡瀬はすかさず訊ねた。
「あなたがたの言う面白味とはなんですか? 究極の棋譜を残すことより面白いことなどあるのですか?」
渡瀬とは根本的に話が噛み合わない。彼の言を借りれば、はなから人間は将棋を指す意味などない。いや、将棋というゲームの存在すら不要になるではないか。
「それならば、いっそのことソフト同士を戦わせたらいいだけじゃないですか?」
皮肉のつもりで言ったのに、渡瀬は大真面目に頷いた。
「ええ、いずれはそうするつもりです。でも『宗歩』はまだ完全ではありません。人間より優れているとは言え、まだまだ人間に学ぶべきところがある。ですからあなたにお願いしているんですよ。僕にとってはまったく意味のない将棋のタイトルもあなたにとっては貴重なものなのでしょう? ましてやあなたはまだプロじゃない。僕はあなたに棋士の座を提供する代わりに、データが欲しいと言っているだけなんですよ。つまり持ちつ持たれつってわけだ。大橋さん、僕とあなたは運命共同体なんですよ」
渡瀬の話を聞いて不愉快になる一方で、極端なまでの考え方の相違が、大橋の安全弁になっていると思い始めた。彼は本当に「宗歩」のためのデータを集めたいだけなのだろう。それに渡瀬が大橋を陥れたとしても彼にメリットはない。
それでもいざ決断するとなると、二の足を踏んだ。ひと通りの説明は聞いたが、渡瀬がどのような男か、まだほとんどわかっていないからだ。
とりあえず、優秀なコンピュータ技術者ということはわかったが、将棋界については詳しいのか詳しくないのか、いまいちわからない。江戸時代の大橋将棋家について知っていたりするわりには、現代将棋界についてはあまり知らないようだった。
やはりその無関心さが逆に信用できると考えていいのだろう。渡瀬は本当にコンピュータ将棋を強くしたいだけなのだ。だとしたら、大橋にとって千載一遇のチャンスということになる。
渡瀬は、大橋が躊躇しているさまを、面倒くさそうに見ていたが、やがて突き放すような口調で言った。
「やっぱり、使うのを止めますか?」
いったん渡瀬に突き放されたことによって、大橋の心は固まった。
「や、やります」
大橋の声が少し震えていた。
「溺るる者は藁をも掴む」の言葉どおり、いまの大橋にとって、渡瀬はたった一本の藁に思えた。結局このままでは奨励会を退会する羽目になるのだ。最後にこの藁を掴んでひと勝負してみる価値はある。
渡瀬は大橋の答えがわかっていたようだった。すぐに説明し始めた。
「僕にはデータを提供してくれるだけで結構です。対局した棋譜を電子メールで送ってくれればいい。ただ、一ヶ月に一度、五日に僕の事務所を訪れてください。新しいデータを組み込んだ『宗歩』にバージョンアップしますので」
たまに訪れたり、棋譜を電子メールで送ったりするなど、大橋にとってはたやすいことだ。大橋が頷くと渡瀬が言葉を重ねた。
「使用するメールアドレスはあとで教えます。そのメールアドレスを使ってください。そして電子メールを送ったあとはそのメールを削除してください。うちのサーバーには痕跡を残さないようにしますので」
大橋は無言で頷いた。
「必要なとき以外は、なるべく僕と接触しないようにしてください。あなたと僕が接触しているのを、外部の人間に知られるのは、あまり好ましくない。ああ、それはあなたのほうがよくわかっていますよね」
渡瀬が含み笑いをした。
「ちなみに隣の彼女はあなたが『宗歩』を使うことをまったく知りません。人間の将棋の思考ロジックをコンピュータに組み込むため、協力をしてもらっているということにしています。彼女にはなにも喋らないようにしてください」
渡瀬からメールアドレスや、連絡方法を聞きながら、大橋は渡瀬の真の目的について、思考を巡らせていた。
やはり渡瀬は本当に究極の棋譜を作りたいだけなのかもしれない。
大橋が「宗歩」を使うことに関しても、渡瀬は汚い行為とは微塵も考えていないようだ。そもそも渡瀬にとって将棋界のことなど、なんの興味もないようだった。彼にとって将棋とは単なるゲームのひとつに過ぎないのだろう。
大橋も渡瀬と同じように割り切ろう。彼の言う通り、大橋の行為は究極の棋譜を作るための手助けになるではないか。コンピュータを使ってでも、素晴らしい棋譜が残せるのなら、それはそれで価値あることなのかもしれない。
偽善やごまかしであることは重々承知していたが、「宗歩」を使って勝つという罪悪感を解消するには、そう思い込むしかなかった。

〔10〕

その日、大橋は朝からそわそわしていた。
今日公式戦で「宗歩」を使って対局する予定だった。あれから家で何度も練習したが、実際に対局で使うのは今回が初めてだ。
いくら目立たない大きさとはいえ、背広姿では隠す場所に困ったので、思案の末、大橋は和服を着ることにした。長襦袢の袂に薄いポケットを縫いつけ、その中に「宗歩」を隠した。それならば考えている振りをして袂に何度も手をやることもでき、まったく怪しまれずに済む。もちろん着物の色は暗めの紺色を選んだ。
ポケットを縫いつけてもらうよう、母親の和子に頼んだとき、怪訝な顔をされたが、財布を入れるためだとごまかした。
画面を見なくても操作できるよう、家で何度も試した。渡瀬が言っていたように、慣れれば操作は簡単だった。あとは振動の数を間違えないようにするだけだ。もし画面の様子がわからなくなれば、トイレに入って局面を再構築すればよい。早指しのテレビ棋戦とは違い、持ち時間はたっぷりあるのだ。
今日までにやるべきことはすべてやった。良心の呵責は感じたが、奨励会を追放になるよりはるかにましだと考えた。
対局相手の野村三段は大橋よりも十歳近くも若く、まだ三段リーグに入ったばかりだ。大橋の対面に座ると、軽く頭を下げてから言った。
「着物だなんて珍しいですね?」
大橋は努めて冷静に答えた。
「ああ。おれも今年で最後だ。気合を入れるために着物を着ることにしたよ」
「それじゃあ、今日の大橋さんは怖いですね」
野村は肩をすぼめて笑った。別段怪しまれずに済んだようだ。
振り駒の結果、大橋が先手になった。
もう後戻りはできない。心臓の鼓動が次第に速くなっていく。大橋は何度も深呼吸すると、▲2六歩と突いた。
袂に手をもぐりこませると、「宗歩」の上段の左から二番目、下段の左から六番目、最後に上段右端の突起のあるボタンを押して確定させた。だれかに気づかれないかと大橋はひやひやした。
野村は大橋の様子を不審がるわけでもなく、しばらく考えてから△8四歩と突いた。
大橋は腕組みをする振りをして、「宗歩」の上段の八番目、下段の四番目、上段の一番目のボタンを押し、最後に下段の右端の突起のある黒いボタンを押した。
「宗歩」はすぐに二回、五回、一回振動した。▲2五歩を指せという指示だ。振動は小さなものだったが、プロ棋士は静かな環境で将棋を指すので、微弱な振動でも十分にわかる。この程度の振動なら相手にも気づかれずに済むはずだ。
大橋は上段のボタンを押して確定させ、おもむろに袂から手を出して、2筋の歩に手をかけてひとつ前に進めた。
袂に手をやるとき、大橋はなるべく自然に見えるように留意した。見つかったら破滅だ。もし見つかれば棋界追放どころか、犯罪者扱いをされる。大橋将棋家最大の恥と蔑まれるかもしれない。
呼吸が苦しく、心臓が喉から出そうな感じだった。背中を冷たい汗が流れ、手はじっとりと濡れている。駒を盤面に置くときには手がかすかに震えていた。
局面が進んだ。なんとかばれずに済んでいる。局面もうまく辿っている。大橋は少しずつ落ち着きを取り戻してきた。
野村が歩を突き捨てて仕掛けたとき、大橋はいったんトイレに立った。いままでの進行がうまくいっているかどうかの確認だ。
トイレの個室に入り、画面を確認した。「宗歩」の画面はいままで指した局面と同じだった。この装置は十分実用に耐えうる。大橋は確信した。
トイレから戻ると、大橋は「宗歩」が指示した手を指した。
野村はもちろんのこと、周りの人間はだれも気づいていない。大橋は徐々に要領が掴めてきた。
指し手が進むにしたがって、大橋は自分のほうが若干有利になっていくのを感じた。
やはり「宗歩」の実力は本物だ。序盤の駒組みに入った段階で、すでに大橋のほうが若干指しやすくなっている。隙のない布陣を整え、磐石の駒組みを築き上げている。大橋はますます自信を持って駒を動かしていった。
何度もボタンの操作を繰り返すうちに、「宗歩」の扱いにも慣れてきた。袂に手をやる仕草も我ながら堂に入ってきた感じがする。対局を重ねれば、さらに上手くできるだろう。
さらに局面が進むと、明らかに大橋が優勢になった。野村の布陣に比べて大橋の布陣にはまったく隙がなく、これ以上駒組みを続けても大橋がよくなるばかりだった。
業を煮やした野村が歩を突き捨てて仕掛けてきたが、大橋は普通に受けの手を指すだけでよかった。野村のあせる様子が手に取るようにわかる。
野村は局面を打開しようと、戦局を拡大してきたが、「宗歩」は野村の挑発にはまったく乗らなかった。それどころか、野村の手を逆用してポイントを稼いでいった。
「宗歩」は大橋と指したときと同じように冷静で、同じように強かった。「宗歩」の指示する手はどの手も無理がなく棋理にかなっている。堅実で無理をしない棋風は、どことなく黒柳将棋に似ている感じがした。
やがて野村は大橋が見てもわかるような悪手を指した。おそらくこのままではジリ貧になると考えて起死回生を図ったのだろうが、逆に隙ができたようだ。「宗歩」がその悪手を見逃すはずがない。大橋は「宗歩」が指示する痛烈な手を指した。
野村が息を呑む音が聞こえた。「宗歩」の指し手により、みるみるうちに野村玉は追い詰められていった。
野村をちらりと盗み見たが、盤面を凝視する野村の顔は苦悶に満ちている。どこで悪手を指したのか自分でもわかっていないように見受けられる。
野村があせればあせるほど、大橋は冷静になっていった。どこか自分をも俯瞰して見ているような感覚になった。
今回の対局では、大橋は「宗歩」の指示した手を指しただけだ。大橋は単なる「宗歩」の代理人でしかなく、対局にはまったく関わっていない。野村はその代理人の指す手に苦しめられ、代理人に翻弄されていると思い込んでいる。
顔を紅潮させて長考する野村を見ているうちに、やがて大橋は虚しさを覚えた。せまい盤上の駒の動きに一喜一憂し、脳から脂汗が出るほど考えて次の手を指す。将棋指しとはなんと虚しく哀れな存在だろうか。
ふと気づくと大橋の手番になっていた。野村が指した手は最後のお願いのような手だった。そこから先は「宗歩」を使うまでもない。大橋は駒台にある桂馬を手に持つと、王手をかけ、野村玉を即詰みに討ち取った。
従来なら果てしなく遠く感じる勝利への道も「宗歩」を使えばあっけないものだった。野村は「宗歩」に翻弄され、あっさりと自滅したのだ。
野村がかすれた声で「負けました」と呟くのを、大橋はどこか他人事のように聞いていた。
その日から、大橋は「宗歩」を使い、連勝した。

(続く)