通勤客で混雑している駅の構内を歩いていると、後ろから声がした。
「私、あなたの死期を知っているんです」
振り返ってみると、背の低い小太りの男が立っていた。男は人懐っこそうに笑みを浮かべていた。
髪の毛はぼさぼさで頭頂部が禿げており、垂れた目とつぶれたような鼻は笑っているように見える。紺色の背広はよれよれで、黒色のネクタイが曲がっている。歳は三十歳の私よりかなり上のようだ。
私は男から顔を背け、手を横に振った。
「宗教の類には興味ないから……」
私が身を翻そうとすると、男は素早く私の前に立ちはだかった。
「ご自分がいつ死ぬかの話ですよ。聞いておかないと後悔しますよ」
男の能天気そうなにやけ面が、睡眠不足の私の癇に障る。私は無言で男の肩を払うと、駅の改札に向かって歩き始めた。
男は小股でちょこちょこと走ってくると、私と並んで歩きながら、耳元で囁いた。
「セールスなんかでもありません。どうです? ご自分の死期を知りたくはないですか?」
一瞬この男を怒鳴りつけたくなる衝動に駆られたが、すぐに思い直した。東京にはおかしな人間がたくさんいる。相手にしていてはきりがないし、疲れるだけだ。私は歩を早めた。
男は私と並んで歩きながら、まるで友達のようになれなれしく話しかけてきた。
「私はね、人の死期がわかるんですよ。なんで知ってるのか、興味ないですか?」
私は男を無視して、足早に駅の改札を抜けた。男が追ってきたが、多くの通勤客に遮られて、もたついている。私は人の波にまぎれて素早く改札を抜け、ホームに向かって階段を駆け下りた。
ホームの端まで歩き、後ろを振り返った。男の姿がなくなったので、少しほっとした。
「やだなあ。突然走り出すんだから」
ぎょっとして脇を見ると、男が立っていた。男は肩で息をしながら、黄色い歯をむき出して笑っている。初夏とはいえ、今日は比較的涼しい日だ。それなのに男は暑苦しく額に汗を浮かべている。男はズボンのポケットから皺くちゃになったハンカチを取り出し、額を拭った。そして私に片目を瞑って見せた。
「もちろん、いかがわしい占いでも、当たらない予言でもありませんよ」
「おっさん、いい加減にしろよ」
私が語気を荒らげると、前に立っていた髭面の男が振り返って、とがめるように私を見た。
小太りの男は両手を挙げてひらひらと振ると、髭面に向かって明るい声で言った。
「あっ、どうかお気になさらず」
髭面は怪訝な顔で私を見ていたが、まもなく視線を前に戻した。
小太りの男は私に向き直り、屈託のない笑顔を見せた。
「まあまあ。そう感情的にならず、冷静に話し合いましょう」
「あんたと話すつもりなんかねえよ」
男は腕組みをして、困ったように首をかしげた。
「それは困りましたね。私はあなたと話したい。でも、あなたは私と話すつもりがないときた……」
男が突然ぽんと手を叩いて私を見上げた。
「そうだ。こうしたらどうでしょう。私はただ喋るだけ。あなたは私の話を聞くだけでいい。そうすれば、あなたは私の話を聞かなくてはなりませんが、喋らなくて済む。私はあなたの喋ることを聞けませんが、あなたに喋ることはできる。あなたも私も少しずつ我慢すれば、お互いの希望に添うことができます。名案でしょ?」
男の得意気な態度に、私はげんなりした。手を振って追い払う仕草をして、「わかったから、向こうへ行ってくれ」と言った。
男は私の手を取ると、強く握り締めた。
「なに言っているんですか。まだなにもわかっていないじゃないですか」
男の手はじっとりと汗ばんでいて、男の手とは思えないほど柔らかく、しかも異様に温かい。私はとっさに男の手を振りほどいた。
近くに立っている人間たちは、私たちの会話に興味津々のようだ。だれも露骨にこちらを見ていないが、私たちのやり取りに聞き耳を立てているはずだ。私はこの場を逃げ出したくなった。
「はいはい、おれが悪かったよ。だからもうおれに構わないでくれ」
男はみるみるうちに明るい表情をした。
「そうですか。やっとご自分の過ちに気づかれましたか。そりゃあよかった。じゃあ私の話を聞いてくれますね?」
私は弱りきったように肩を落として見せた。
「もう勘弁してくれよ。こっちは昨日ほとんど眠ってなくて、疲れているんだ。新手のセールスにしてもたちが悪すぎるぞ。こんなことやって、なんの意味があるんだ」
男はうんうんと何度も頷いた。
「でしょう。でしょう。あなたが眠れないのは、ご自分の死期をきちんとわかっていらっしゃらないからなんですよ。ご自分の死期を知れば、夜もぐっすりと眠れるでしょう」
私は男の胸倉を乱暴に掴み、引き寄せた。
「いい加減にしろと言っているんだ。こう見えてもおれは空手の有段者なんだ。あんまりふざけたこと言いやがると、許さねえぞ」
男は驚いたように目をしばたたかせ、大声を張り上げた。
「いやあ、暴力はいけません。暴力はいけませんよぉ」
「お、おいっ」
さっきの髭面が振り返って、私の顔をあからさまに非難するような目で見た。小太りの男が勝ち誇ったような笑みを浮かべたのが横目に見えた。私は男の胸倉から手を放し、息を吐いた。
「いったい、あんたの狙いはなんなんだ?」
「ですから、言っているじゃないですか。あなたに死期を知らせるのが私の役目なんです」
「あんたにとって、なんのメリットがあるんだ?」
「私にとってメリットと言うより、ホームにいるみなさんのためでもあるわけなんです」
「なんで、おれが自分の死期を知ることと、ここにいる人たちが関係あるんだ?」
「それはおいおい話していきましょう」
「だからさ、おれはあんたにはなんの用もないんだって」
男は物珍しそうに私の顔を見つめた。
「ご自分の死期に興味はないんですか?」
「死期には興味がある。あんたに興味がないだけだ」
男は私の言葉に大きく頷いた。
「そりゃそうですよね。あなたが私に興味がないのはよくわかります。しかし私の話はあなたの死期についてなんです。興味あるでしょう」
「じゃあ、はっきり言おう。自分の死期には興味がある。しかしあんたが言うおれの死期には、なんの興味もない」
男はしらじらしく身を引くと、私の顔を下から覗き込んだ。
「ほう、そりゃ、どうして?」
「そもそも人の死期など、わかるわけがない。ましてや見ず知らずのあんたが、おれの死期を知ってるなんて、おかしいだろ」
男は腕組みをして「なるほど……」と呟くと、私の顔を上目遣いに見た。
「つまり、見ず知らずの私の言うことなど信用できない。あなたはそう言っているわけですね?」
「そうだ」
こんな当たり前のことを言っている自分が情けなくなった。
男が渋面を作ると何度も頷いた。
「あなたがそうおっしゃるのなら、仕方がない。あきらめましょう。ただ、ひとつだけ腑に落ちないことがあります……」
男は私の鞄から頭を覗かせている新聞をじろりと睨んだ。
「いま鞄に入っている新聞ですが、あなたは新聞を読んでいるのですか?」
「サラリーマンなら新聞くらい読むだろ」
「その新聞ですが、記事を書いている人は全員あなたの知り合いですか?」
「知ってるわけないだろう」
男の目が、容疑者の嘘を見破った刑事のように、鋭く光った。
「そりゃおかしいですね」
「なにがだ?」
男が私の顔を見ながら唇をなめた。
「あなたはさっき見ず知らずの私の言葉など信用できないとおっしゃいました。ところが見ず知らずの人間が書いた新聞記事のほうを信じるときた。いささか筋が通らないんじゃないですか?」
「あのねえ。新聞の記事は新聞社がすべて責任を負っているんだ。だから信用できるわけ。見ず知らずのあんたには、なんの信用もないだろう」
男は驚いたように目を見開いた。
「するとあなたは私の素性を知っているのですか?」
「知るわけねえだろ」
「こりゃまたおかしなことを。あなたはさっき私には信用がないとおっしゃいました。つまり私の素性を知っているからこそ、そう断言できるわけでしょう」
「だからあ、あんたの素性はなにも知らないって言ってるだろ。知らないから信用できないんだ」
「すると私を知っていただければ、信用できるのですね?」
「そんなことは言ってねえよ」
「いまおっしゃったじゃないですか」
「素性を知らないから信用できないって言っただけだ」
「つまり、素性を知れば信用できる。そういう意味ですよね?」
「全然違うじゃねえかよ」
男は横に来ると子供をあやすように私の背中をさすった。
「こんなところで一文の得にもならないような議論をしても仕方がないではないですか。もっと建設的な話をしましょうよ。ご自分の死期を知るのは重要です。特にあなたの場合はね」
「さっぱり意味わかんねえよ」
「まあ、落ち着いて私と話をすれば、なぜ私があなたの死期を知っているのか、なぜ私があなたに声をかけたのか、理解してもらえると思いますよ」
男は意味ありげに片眉を上げて見せた。
「あなたは覚えていらっしゃいませんが、私とあなたは初対面ではないんです。あなたの携帯電話の画像を見ればわかると思いますよ」
私は急いで鞄から携帯電話を取り出し、画像を見た。一番新しい画像には、私と男が顔を並べて写っている写真があった。画素数が少ないせいか、男の顔はかなりぼやけていたが、おにぎりのような輪郭、垂れた目は、間違いなくこの男だ。
「なんでおれとあんたが……?」
男が急に腕時計に目を落とし、驚いたように目を見開いた。
「おっと、もうこんな時間だ。それではまた今度」
男は小太りの割りには機敏な動作で身を翻し、ホームの階段に向かって足早に歩き始めた。
声をかける暇もなかった。私はあっけに取られて男の後ろ姿を見つめていた。

(続く)

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