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一ヶ月後、野島は日本の東京で開催されたワールド・プール・トーナメントに出場した。
十六人のシード選手と、各地域を勝ち上がってきた十六人の選手で、世界一のプレーヤーを決める。日本からは予選を勝ち上がった野島が代表選手として出場した。
決勝の会場は日本予選のときよりも、さらに広かった。テーブルの数は少なかったが、濃い青緑色のラシャは張られたばかりで、塵一つ落ちていない。レールは格式を思わせる艶やかな黒褐色で、ライトに反射して眩いばかりに光っていた。観客席は一番遠くの観衆が見えないほど広々としている。
観客席は満員だった。日本で開催する初めてのワールド・プール・トーナメントということもあって、日本中のファンが詰め寄せたのだろう。外人の姿もあちこちに見えた。会場内にいる日本のファンたちは野島をあまり知らず、海外の一流プレーヤーのマイク・ストリックランド(アメリカ)やアール・デイビス(イギリス)に人気が集中していた。
ファンの無関心をよそに、その日野島は絶好調だった。マス割りを連発し、楽勝ムードだった対戦相手を唖然とさせた。一回戦を危なげなく勝ちあがり、二回戦ではブレイクナインを立て続けに決めた。二回戦で対戦したオランダの選手は、野島の好調ぶりに、なす術もないようだった。
野島は以前とは異なった感触で球が撞けていることを自覚していた。見えている球はすべて入れられる自信があった。いままで立ちはだかっていた壁を、一気に突き破ったような感じだった。
自分のビリヤードをした野島は予選を勝ち上がっていった。
日本予選でのまぐれ勝ちを知っているファンは、野島が次々と海外の一流プレーヤーを下していくのを、複雑な表情で見ていた。
野島はまったく気にもしなかった。自分の玉突きをする。ただそれだけを考えながら、眼前の球を落としていたった。
大方の予想を裏切って、野島は勝ち上がり、ついに決勝に進出した。
決勝の相手、マイク・ストリックランドは髭を生やした額の広い男だった。世界ランキングは一位で、優勝候補の筆頭だ。テレビで何度も見たことのある男だった。一度調子に乗り始めると、魔法使いのように球を操る。バンクショットが際立って上手く、入り目さえあればどんな球でも落とした。文句なしに、いま世界中で最強のプレーヤーだ。
マイク・ストリックランドのもとに、野島が準決勝で闘ったアール・デイビスが行き、耳打ちをしていた。準決勝が終わったあと、アール・デイビスは負けたのが信じられないような顔をしていた。無名の日本人選手に負けたのが、よほど悔しかったようで、握手もせずに立ち去った。あんな素人は早めに片付けろとでも囁いているのかもしれない。日本の奥山プロも、大会の本部席から、冷ややかな視線を野島に投げかけていた。
会場のほぼ全員がマイク・ストリックランドを応援しているような空気が漂っていた。由緒正しい世界大会に、無名の野島が勝つことなど、許されないかのようだ。会場はどこか異様な雰囲気に包まれていた。
試合開始直前、マイク・ストリックランドが野島に近づいた。実際に対峙すると、身長が高くて迫力のある男だ。
彼は軽蔑したような表情を浮かべて、野島を傲然と見下ろした。
「Your luck has been an end.(まぐれもこれで終わりだ)」
野島はマイク・ストリックランドに言った。
「全部マス割りで決めてやる」
「ワット?」
マイク・ストリックランドは怪訝な表情で訊ねた。
問いには答えず、野島はビリヤードテーブルへ向かった。
試合は野島のブレイクから始まった。ブレイクキューを手に取り、ヘッドエリアに近づいた。
ふと、遠くに見覚えのある女性を見つけた。
倫子だった。彼女はじっと野島を見つめていた。彼女は野島と目が合うと、照れくさそうに笑って、なにかを言った。「頑張れ」と言っていた。観客すべてが応援してくれるより、倫子一人の応援のほうが心強かった。野島は「5番ボールは絶対に入れるからな」と倫子に口で合図した。
深呼吸すると、野島はテーブルに向き直った。渾身の力を込めてブレイクをすると、2番がポケットに入った。球の配置は簡単だ。野島は1番ボールから、着実に落としていった。
9番を落として、一セットを取ったとき、マイク・ストリックランドは大仰に両肩を上げて見せた。ツキはまだ続いているぜ、と会場にアピールしているようだった。彼のことなど、どうでもいい。自分の玉突きをするだけだ。
野島は構えると、再び球に没頭した。
夢中で球を撞いていた。倫子が会場に来て応援してくれている。純枝もどこかで応援してくれている。それだけで十分だった。「落ち着いてやりなさい」、純枝の声が聞こえるような気がした。「全部入れちゃえばいいだけじゃん」、倫子が背中を叩いたような気がした。
次第に野島はいままでになかったような感覚に包まれていった。
キューや球が自分と一体化して体の一部分になったような、ビリヤードテーブルと語らっているような感覚だった。球を落とすときには、テーブルがラインを教えてくれ、手球が進むべきラインを、白く照らしてくれていた。テーブルは的球を落とすポケットまで教えてくれる。球をポケットに落とすと、次の球が進むべきコースを示唆してくれた。
キューは手の一部分と化し、キュー先は指先になったかのようだった。触覚がキューの先端にまで行き渡った。手球は野島の意思を持った生き物のように、思い通りに動いてくれた。見えない糸で操っているかのように、体の一部分のように、野島は球を自在に操った。
野島は試合を心の底から楽しんだ。いや、試合ではなかった。キューや球とテーブル上で戯れる遊びだった。テーブルが野島に語りかけ、野島を応援してくれる。ここに落とせ、と優しく語りかけてくる。その指示に従っているだけだった。野島はテーブルと語らいながら、次々と球を落としていった。
ふと気づくと、テーブルの上には9番ボールだけしか残っていなかった。横を見ると、対戦相手のマイク・ストリックランドが、茫然と立っている。
会場はなにかをじっと待っているように静まり返っていた。スコアを見ると、10─0で野島が勝っている。
深呼吸すると、キューにチョークをつけた。青いチョークはタップにうまく乗った。
ゆったりと構えた。以前なら小刻みに震えるはずの手は震えていない。心は不思議なほど平静だった。それどころか、球を狙うことが純粋に楽しかった。いつまでも球を撞いていたいと思った。
9番とポケットとのあいだには、野島だけに見える白く光る通路が示されていた。9番の進むべき道だった。野島はおもむろに構え、キューをしごくと、ゆっくりと撞き出した。
野島の意思を持った手球は、9番ボールに柔らかくぶつかり、9番は白いラインに沿って、コーナーポケットの真ん中に沈んでいった。
会場の誰かが立ち上がって、大声で叫ぶと、手を叩き始めた。
それに倣うように、拍手の数は増えていき、みるみるうちに会場は耳をつんざくような拍手で溢れた。さきほどまでの静けさを取り戻すかのように、観客は総立ちで拍手し、建物が揺れそうなほどの歓声が会場内を覆った。
喝采の渦の中で、しばらくのあいだ、野島はテーブル上の白球をぼんやりと眺めていた。
やがて、マイク・ストリックランドが口笛を吹いて両手を挙げると、野島に近づいてきた。
「Incredible.(信じられない)」
感嘆の目を向け、マイク・ストリックランドが言った。
野島は微笑すると、マイク・ストリックランドに下手な英語で話しかけた。
「Masuwari means "break and run-out".(マス割りとは、ブレイクランアウトのことさ)」
「Masuwari……」
彼は片眉を上げると、大きく頷いた。
「I got it.(なるほど)」
マイク・ストリックランドが野島に両手を差し出した。彼の手は、野島の手がすっぽり収まってしまうほど大きかった。
「マスワリ、マスワリ」
マイク・ストリックランドは野島の肩を叩いて、愉快そうに呟きながら去っていった。
野島は静かに目を瞑った。
瞼の中には母親が立っていた。皺だらけの手を差し出して、目を細めて喜んでいた。
隣には義男が立っていた。義男は嬉しそうな表情で野島を見つめていた。眉間に縦皺を寄せて、いつも気難しい顔をしていた頑固な義男が顔をほころばせていた。最後まで義男には心配をかけた。看取ることさえできなかった。ずっと目標にしてきた父親。
純枝は目に涙をたたえ、細くて小さな手で野島の手を握ろうとしていた。いつも野島をかばってくれた母親。野島がどんな境遇になっても、常に信じていてくれた母親。自らの身を挺して野島と章を守ってくれた母親。
野島は優勝したことを、やっと実感した。そして、いまからが本当のスタートだと思った。
野島が目を開けたとき、フラッシュが瞬いていた。目の前にはテレビカメラが何台も並んでいる。野島の眼前であわただしく人が動いていた。
誰かが野島の背中をつついた。振り向くと、倫子がいたずらっぽい顔をして立っていた。
「ちょっとは、やるじゃん」
いつもと変わらない口調で、倫子がはにかんだように言った。
「難しい5番ボールはきっちり落としたぜ」
野島が胸を反らすと、倫子は泣き笑いのような顔になった。
「入らなかったら、どうするつもりだったのよ?」
「言っただろ。入るまで撞くさ」
周りの人間が野島になにか訊ねていた。彼らはテレビカメラを向け、野島はフラッシュとライトの洪水を浴びた。誰かが大声で叫んでいた。だが野島の耳にはなにも入らなかった。聞こえるのは倫子の声だけだった。
倫子の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。怒ったような、笑ったような顔で、野島を見つめていた。
「だから、それって反則でしょ」
「反則でも勝てばいいんだよ。俺は勝つまでやるタイプなんだ」
「ばっかじゃないの」
「その馬鹿の相手をしているようじゃ、お前も大したことないな」
「先生よりましだよ」
「そもそもビリヤードプロになろうなんて、馬鹿じゃなきゃできない」
「そんな男とは絶対に関わり合いになりたくないね」
「俺は親孝行も全然できなかった」
「人間としても最低だよ」
「最低の人間でも、諦めずに狙えば、マス割りはできるんだよ」
「あったりまえじゃん」
「当たり前のことを当たり前にやることが、一番難しいんだぜ」
「そんなこと、わかってるよ」
「人生も一緒だ。諦めずにやれば、いいことの一つくらいはあるもんだ」
「それもわかってるよ」
「こんな簡単なことに気づくのに、何十年もかかってしまった」
「全部わかってるよ」
「お前が好きだ」
「そんな重要なことは、もっと早く言えよ」
突然野島は倫子を強く抱きしめた。
倫子が背中に手を回し、野島に身を預けた。倫子の香水の匂いがほのかにした。
「結婚しよう」
倫子が驚いたような顔をしたあと、照れくさそうに唇を噛んで、顔をくしゃくしゃにした。
「ばーか」
倫子の顔が涙でかすんで見えた。

(了)
 
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