[40]

翌朝野島はK駅のホームで電車を待っていた。
一ヵ月後のワールド・プール・トーナメント世界大会に備えて、猛練習する予定だった。帰る間際に章が言った。
「俺は、お前が羨ましかったのかもしれない」
「俺が羨ましい? 俺は兄さんのほうがよほど羨ましいよ」
「お前は小さな頃から、勉強もスポーツもできた。俺はスポーツはまるで駄目だった。せめて成績だけはお前に勝つために、俺は必死で勉強したんだ」
「お陰で一流大学を卒業して、いまでは大企業のエリートじゃないか」
「そのためには、人一倍頑張った。それに比べ、兄の俺から見ても、お前はなにも努力していないように見えた。俺はお前に嫉妬していたんだ。だから、いろいろと突っかかったんだ」
プライドの高い章の言葉とは、とうてい思えなかった。
「真由美と浮気をしたのも、どこかで自分の人生に対して、納得していなかったのかもしれない。俺の人生は、はたしてこれでいいのかと、いつも思っていた」
章も自分の人生について思い悩んでいたのだ。野島だけが苦悩していたわけではないのだ。
やがて章がすべての思いを振り払うように、力強く言った。
「でも、今回のことではっきりとわかった。人は人、俺は俺だ。お前がビリヤードの一流プレーヤーを目指すのなら、俺は一流の企業人になってみせるさ」
「兄さんなら、絶対になれるよ」
章が首をすくめた。
「洋子は俺の浮気を知っていたようだった。『今度やったら許さないわよ』だってさ。おとなしいのだけがとりえと思っていた洋子が、そのときは怖かったよ。これで洋子には頭が上がらなくなった。でも、案外いいものかもしれないな」
「そうだよ。洋子さんを大切にしろよ」
章が笑いながら野島の背中を軽く叩いた。
「頑張れよ。試合はきっと見に行くからな」
いままであまり好きではなかった章を、少しだけ理解できたような気がした。

マスワリに電話して事件の詳細を説明すると、吉田は言った。
「早く戻って来い」
相変わらず短い言葉で、いつもの無口な吉田だった。
「俺はまだクビじゃないんですか?」
「なんでお前をクビにするんだ?」
「店をさんざん休んでるし……」
「俺がお前をクビにするときは、お前が世界大会で情けない試合をしたときだ。お前、最近練習不足だろ。早く来て練習しろ」
「マスワリに戻っていいんですか?」
「お前が戻って来なきゃ、俺が困る」
「明日から出勤します」
「今日からだ。一日でも早く勘を取り戻せ。二番テーブルは空けておく」
「本当にすみませんでした」
「俺に謝っている暇があるなら、練習しろ」
それ以上喋ると、吉田に叱られそうで、野島は早々に電話を切った。吉田の言葉はぶっきらぼうだったが優しかった。

野島はもう一度人生をやり直そうと思っていた。
純枝の手紙は自暴自棄になりかけた野島の心に沁み入った。二度と立ち上がろうとしなかった野島を奮い立たせてくれた。野島は仏壇の前で手を合わせて誓った。一流のビリヤードプレーヤーになり、生前の両親との約束を果たそう、と。
いまが最も苦しいとき、乗り越えたら、野島は変わることができるかもしれない。それが身を挺して自分たちを守ってくれた純枝に、野島ができる償いなのだ。
純枝は悲壮な決意でストレートプールを訪れていた。江頭の目を盗んで、コーヒーに青酸化合物を混ぜた。そして野島の借用書に気づき、借用書を手に取ろうとして、驚いた江頭に突き倒された。そのときに、ビリヤードテーブルに頭をぶつけて絶命した。
江頭は流川に純枝の遺体を運ばせた。流川が戻るのを待っているあいだ、落ち着こうとコーヒーを飲んだ江頭は死んだ。
純枝は始めから江頭の殺害を決意していた。野島と章の人生を壊そうとする江頭を殺害するのが、母親の務めだと信じていたのだ。
すべては、野島と章を守るためだった。そんな彼女をいったい誰が責められるだろうか。野島は母親のためにも残りの人生を、大切に生きなければならない。
野島の決意は偽善かもしれない。野島がなにをやったところで、両親は帰ってこないのだ。だが、野島はもう二度と逃げ出さないつもりだった。両親でさえ、思い悩みながら一生懸命生きてきた。義男や純枝も辛さを乗り越えてきたのだ。自分の人生をしっかりと歩んでいく。
もう二度と迷わないし、逃げ出さない。純枝の言ったとおり、どん底のいまがチャンスなのだ。苦しいときには純枝の言葉を胸に抱き、乗り越えていく。まだ胸が苦しくなるような悲しみは残っていたが、少しずつ傷は癒えていくだろう。
今日は野島が人生を再出発する日なのだ。もう後悔はしたくない。失敗は成功の材料となるのだ。それならば……。
野島はもう一つやり残していることがあった。とても大切なことだ。
気づいたときには、野島はK駅の改札を抜けていた。ベリーの家に立ち寄り、外で寝ている猫のベリーに話しかけた。
「おはよう、ベリー」
ベリーは野島の顔を一瞥すると、再び目を瞑った。野島は構わずベリーに語りかけた。
「俺には大切な人がいた。その人は、俺のことをもう忘れているのかもしれないけど、もう一度謝ってみるつもりだ」
ベリーは目を瞑ったままだった。
「いまからその人の家に行こようと思っているんだ。そして正直な自分の気持ちを話すつもりだ。もう会ってくれないかもしれない。でも無理だと言ってこのままなにもしなければ、いままでの俺と同じだ。自分の馬鹿さ加減に、とことんあきれるのも悪くない。その人とのことをはっきりさせてから、俺の人生の再スタートだ」
目を開けると、ベリーはゆっくりと欠伸をした。次いで前足を出して伸びをすると、野島の顔を興味深そうに見つめた。
「その人は、お前そっくりなんだ。お前も応援してくれるか?」
ベリーは野島の顔を黙って見ていたが、やがて小さな声で短く鳴いた。その声は野島を応援してくれているようにも聞こえた。
「ありがとう」
野島はベリーの頭を撫でた。ベリーは喉のあたりから音を出し、気持ちよさそうに目を細めた。
立ち上がると、野島は倫子の家へ向かった。
倫子の家は野島の実家からさほど離れてはいない。野島が玄関のチャイムを押すと、倫子の母が出てきて、驚きの声を上げた。
「あら、野島先生、久しぶりね」
野島が丁寧に挨拶すると、彼女は気づいたように言った。
「今日は日曜日だから、倫子はまだ寝てるのよ。もう休日は寝てばっかり。まったくしょうがない子よねえ」
「じゃあ、倫子さんに、駅前の喫茶店『カフェ・ド・ラム』で待っていると伝えてもらっていいですか?」
それだけ言うと、野島は頭を下げて、倫子の家を辞去した。

野島がカフェ・ド・ラムで待っていると、ほどなく倫子が現れた。
朝の穏やかな光に照らされた倫子の髪が明るく輝いていた。彼女の姿は暖かい春の到来を告げるようでもあり、いつもの倫子と違っているようでもあり、妙に緊張した。
倫子は席に腰掛けると、少し固い表情で訊ねた。
「どうしたの、急に?」
なんとなく倫子がよそよそしくなったような気がした。
野島は今回の事件のこと、純枝の手紙のことを、倫子に話した。話し終わると、倫子が悲しそうに目を伏せた。
「一ヵ月後に、ワールド・プール・トーナメントの世界大会がある」
「知ってるよ」
「会場まで見に来て欲しいんだ」
「もう付きまとうなって言ったじゃない」
「ああ、言った」
「じゃあ、なんなのよ?」
「倫子は『マス割り』という言葉を知ってるか?」
「いくら私でもそれくらい知ってるよ」
「マス割りには運も必要なんだ。ブレイクショットで、最低一つの球が落ちなければならない。球が落ちなければ、もうマス割りにはならない。球が一つ落ちて初めてマス割りのチャンスが生まれる」
「それがなんなのよ?」
「マス割りで球が入るのは、人生で例えるなら、この世に生を受けたようなものなんだ。だからそれだけでラッキーだと思うんだ」
彼女が目をしばたたき、野島の顔を見つめた。
「例えば、ブレイクショットで8番が落ちたとする。ここから人生が始まるんだ。最初の目的は1番を落とすことだ。1番ボールは他のボールにかぶっていて、見えないかもしれないし、白球と離れていて、とても難しいショットかもしれない。もしかしたら、すごく簡単な場所にあるかもしれない。もし簡単な場所にあるのなら運がいい。人生なら、幸せな家庭に生まれたようなもんだな」
「難しい配置なら不幸な家庭になるの?」
野島は頷いた。
「でも、本来ならば生まれただけで幸せなんだ。生まれなければ、なにも起きない」
「そんなの、当たり前じゃん」
「俺の人生はブレイクショットで8番が入って、1番も簡単な配置にあったというところだろうな。俺は1番を簡単に落とし、2番を簡単に狙えるところに後球を持ってきた」
倫子は黙って野島の話を聞いていた。
「2番、3番と落としたはいいが、俺は4番を撞くときに油断した。4番は入ったが、5番と手球の位置は離れていて、しかも7番があいだにあって、かぶっている。困った。もう少し慎重に4番を撞いていればよかった。いまの俺はそんな状態だ」
「もうマス割りできないってこと?」
「そんなことはない。クッションだってあるし、カーブボールだって、ジャンプボールだって、マッセだってある。自分の持てる力を駆使して、5番を一生懸命狙うんだ。5番さえ落とせれば、マス割りは夢じゃない。一度や二度失敗したくらいで、諦めてたまるか」
「先生は5番を落とすつもりなの?」
「もちろん落とすつもりだ」
力強く頷き、野島は続けた。
「俺は弱いビリヤードプロで、収入も新卒のサラリーマン以下だ。もちろんそれは、すべて俺の責任だ。自業自得だ。でも、まだ逆転できないわけじゃない。気が遠くなるような難しいショットだが、ベストを尽くして狙うつもりだ。そして5番を落とし、6番へつなげるつもりだ」
「5番を落としたら、どうするの?」
「俺は、お前が好きだ」
倫子の瞳が揺れた。
「なに言ってんのよ」
「本気だ。お前に再会したときから、もう惹かれていたのかもしれない。お前と会うたびに惹かれていった。だが、俺のような中年オヤジと綺麗なお前では不釣合いだ。そのうえ俺は無職同然の男だ。お前に対してなにも言えなかった」
倫子が真っ直ぐに野島の顔を見つめた。
「一ヵ月後の世界大会は、さっき言った難しい配置の球のようなもんだ。一勝もできずに敗れ去るかもしれない。でも俺は全力を尽くして闘うつもりだ。どんなに難しいことでも、諦めなければ望みは消えない。諦めたらその時点で終わる。俺は5番を必ず落とす。だから見に来てくれ」
「なに言ってるのよ」
倫子は怒った顔をしていた。
「ひとに鬱陶しいとか迷惑だとかさんざん言っておいて、いまさら好きだなんて、なに考えてんのよ」
「そうだな」
「じゃあ、難しい5番を落としたら、どうするつもりなのよ? 落とせなかったら? たった一度のことで人生決められたら、かなわないわよ」
倫子が顔を背け、肩を震わせた。
「先生はいつも勝手なのよ。人を振り回して、はらはらさせて、悲しませて、自分だけでなんでも決める。もう信じられないわよ」
倫子は泣いていた。
「ごめん」
「じゃあ、世界大会に一勝もできなかったら、先生の人生は終わりなの?」
「終わらない。もう一度5番を撞く」
「なにそれ? それって反則じゃん」
「反則だろうがなんだろうが、5番を入れる」
「ばっかみたい……」
倫子が立ち上がった。
「反則したら、負けでしょ。負けたら本当に終わりじゃん。人生はそんなに単純じゃないわよ。もう、先生には付き合ってられないよ」
彼女はそう言い捨てると、身を翻して店を出て行った。
帰り際、ベリーの家の前を通るときに、猫のベリーが野島を慰めるように、小さく鳴いたことだけが、唯一の救いだった。

(続く)
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