[38]

純枝の葬儀はしめやかに執り行われた。
章が喪主として、葬儀を執りしきった。野島が斎場に行くと、章がか細い声で「よく来てくれた」と言い、頭を深々と下げた。純枝の遺体が発見されたとき、章は子供のように泣きじゃくった。義姉の洋子に聞くと、一週間ほど会社にも行かず、落ち込んでいたそうだ。
野島もなにも言うことができず、参列者の悔やみの言葉に、頭を下げるだけだった。
参列者は多かった。純枝に世話になった人間だとか、以前からの知り合いだとかが、ひっきりになしに訪れ、みな一様に純枝の死を悲しんだ。大々的に告知したわけではないのに参列者が多いのは、純枝の人徳なのだろう。彼女は生前から、人のために働くのが好きだった。一時期ボランティアで悩み相談をやっていたこともあると章が言っていた。こんなことになるなら、もっと外に出てもらって、母さんの好きにさせればよかった。昨日、章は後悔で頬をゆがめて、そう言っていた。
読経を聞きながら、野島はいろいろなことを考えていた。
純枝のことを考えると、胸がじくじくと痛む。事故とはいえ、純枝を殺めた江頭は憎い。だが、すでに江頭は生きていない。江頭を殺した犯人はまだ捕まっていないが、いまの野島にとっては、どうでもいいことだった。
野島は純枝に対する罪悪感を持ったまま、これから生きていかなければならないのだろうか。義男が死に、純枝まで殺されて、野島は永遠に親孝行ができなくなった。
倫子のことも考えていた。あの公園で話して以来、倫子は姿を現さなくなった。倫子の存在は、思った以上に大きかった。日増しに倫子への思いが募っていった。ふとしたときに倫子を思い出し、せつない思いに胸を噛まれた。倫子が野島に見せた笑顔、怒った顔、悲しそうな顔すべてが、いとおしかった。いつも明るく冗談を言って、野島を励ましてくれた。倫子は野島の疲れた心を癒してくれた。
倫子に会いたかった。だが、それは叶わないだろう。野島のような男が倫子を幸せにできるわけがない。野島には彼女と付き合う資格など微塵もないのだ。
今朝K駅に降り立ったとき、洋菓子屋のベリーの家に立ち寄った。ヒマラヤン猫のベリーは機嫌が悪そうだった。野島に気づいても、一瞥さえくれない。野島が「おはようベリー」と声をかけても、無視したままだった。ベリーが倫子の気持ちを代弁しているようで、野島はひどく落ち込んだ。
純枝も倫子も、失ってから大切さに気づく。なぜ純枝を守ってやれなかったのか。どうしてもっと倫子に優しくできなかったのか。考えれば考えるほど、自分自身に腹が立ってきた。葬儀のあいだじゅう、慙愧の念が野島を容赦なく責め立てていた。
出棺と火葬が終わり、関係者だけでささやかな食事をとった。野島が黙々と食事をしていると、章が近づいてきて、野島に耳打ちした。
「話があるんだが、ちょっといいか?」
章は二階の純枝の部屋に野島を連れて行った。二階の純枝の部屋は、このあいだ野島が純枝と話したときのままだった。章が呟いた。
「母さんがいなくなってから、俺はこの部屋の中さえ調べようとしなかったんだ。お前に親不孝だ、親不孝だと言い立てたが、本当の親不孝者はこの俺だ。母さんを部屋に閉じ込め、寂しい思いをさせた。それどころか、俺は母さんが殺される原因を作った」
「江頭に脅迫されていたんだね?」
章が驚きの表情を見せた。
「俺が江頭に恐喝されていたことを知っていたのか?」
「うん、友人の流川が江頭から兄さんのことを聞いたって」
章が肩を落とし、うつむいた。
「つい魔が差したんだ。会社では人間関係で神経を遣い、家に帰っても変わりばえのしない毎日だ。洋子はあんな性格だろう。よくやってくれるが、たまに退屈になる。そんな折り、大学の同窓生に誘われるままに、あのスナックに飲みに行ったんだ」
章が息を吐くと、続けた。
「スナックには真由美という女がいた。頭は悪そうだが、洋子と違ってよく喋る女だった。水商売の女というものは、どこかわからない魅力を持っているもんだ。俺は独身だと偽って、あまり深くも考えず、その日のうちに真由美と寝た。それから真由美との関係が始まったんだ。彼女は俺が独身だと信じ込み、俺に結婚を迫った。俺が断ると、彼女は暴力団を使って、俺を脅迫し始めた」
「それが江頭だったんだね?」
「そうだ。江頭は最初恋人を寝取られた哀れな男を装って、俺の前に現れた。俺は面倒くさかったので、江頭に慰謝料だと言って十万円を渡した。しかし江頭はその日から俺に付きまとうようになった。やがて体の大きい暴力団関係の男を連れてきて、一千万円を払えと言ってきた」
流川の話と一致している。
「俺が払えるわけがないと言って、やつの要求を拒否すると、今度はいろいろな手を使って俺を脅してきた。会社にばらすだとか、洋子にばらすだとかだ。母さんが殺されたあとに判明したことだが、母さんにまでお金を請求するようになっていた。俺は母さんのところに来た暴力団風の男たちは、お前の借金で来たのだとばかり思っていた。まさか兄弟で同じ男にたかられていたとはな」
章が悔しそうに顔をゆがめた。
「母さんはあの日、俺のために江頭のところに行ってくれていたんだ。だが何者かに殺された。江頭に殺されたのかもしれない。すべては俺の責任だ。許してくれ」
「違うよ、兄さん。母さんが殺されるきっかけを作ったのは俺だ。母さんは俺の借用書を無効にするため、破り捨てようとしたんだ。あわてた江頭に突き倒され、打ちどころが悪くて母さんは亡くなった。俺のせいだよ」
章は目を見張った。
「お前は事件の経緯を知っているのか?」
野島は頷いたあと、章の顔を見つめた。
「でも、江頭を殺した犯人だけはわからないんだ」
章はうすく笑った。
「お前は江頭を殺した人間が、本当にわからないのか?」
「うん」
章がゆっくりと言った。
「江頭を殺したのは母さんだよ」
「なんだって?」
章が胸ポケットから封筒を取り出し、野島に渡した。
「これは母さんの部屋の中から見つかった手紙だ。お前宛てになっている。事件の前日に書いていたようだ。母さんが死んで、この部屋を整理していたら、箪笥の中から、俺とお前に宛てた母さんの手紙が見つかったんだ」
「兄さんと俺に?」
「俺宛ての手紙はもう読んだ」
章は野島の持っている手紙を指差しながら言った。
「それは、お前宛ての手紙だ」
野島は急いで封筒から手紙を取り出すと、その場で読み始めた。

[39]

丈志へ。元気でやっていますか。
この手紙をあなたが読むということは、私はもうこの世にいないのかもしれません。
でも、悲しまないでください。親が子供より先に死ぬのは当たり前です。子供が先に死ぬことほど親不孝なことはありません。だから、あなたは自分が思っているほど、親不孝ではないですよ。
母さんと父さんは、お互いの両親に反対されたまま、なかば家を飛び出るようにして結婚しました。二人だけで、なにもない土地を耕して、寝食を忘れて働きました。お陰で父さんは少しばかりのお金を貯めることができましたが、あのときの辛さはいまでも覚えています。いざとなったら二人で死のうと、いつも言っていたのだから。
仕事が軌道に乗り、やっと暮らしていけるようになったときに、章が生まれました。章は私に似て、おっとりとした子でした。小さな頃から、いろいろなことに興味を持っていました。
ほどなくあなたが生まれました。あなたは父さんに似て頑固そうな顔をしていましたよ。
章は好奇心旺盛な子で、ますます私に似てきました。私のように苦労をしてはいけないと思い、「お兄さんなんだから、ちゃんとしなさい」とよく言っていました。
本当のところ、章はもっと自由に生きたかったのだと思います。ただ、章には私たちのような苦労はさせたくなかったのです。世間でいう人並みの生活を送って欲しくて、押さえつけて育てていたように思います。
一方あなたは父さんに似て頭がよくて頑固で生真面目でした。小学生の頃から、なにも勉強しなくても、そこそこの成績を修め、スポーツも大好きでしたね。年を重ねるごとに、あなたはますます父さんに似てきました。サッカーで全国大会に出場したときも、父さんは本当に喜んでいました。
章はそんなあなたを羨ましがっていましたよ。章が大学に進学し、あなたも大学に入学したときに、私たちは胸をなでおろしました。どちらかというと、章のほうが小さなころから心配をかける子だったので、あなたがビリヤードプロになって、大学を辞めると言いだしたときには、本当に驚いたものです。
私もあなたを説得しようと、何度もアパートまで押しかけましたよね。あなたの決心が固いのを知り、私はあなたの好きなようにさせようと思いました。
父さんに伝えると、しばらく考えていましたが、「あいつがそこまで言い切るのだ。俺たちは見守ってやろうではないか」と言いました。「ただ、丈志のためだ。成功するまでは二度と家に帰らせるな。あいつの目標を達成するには、並大抵の覚悟では駄目だ」と厳しい顔で言いました。
父さんは、あなたがビリヤードプロとして成功するのを誰よりも楽しみにしていました。雑誌に「十年に一人の逸材」と載った記事を穴のあくほどなんべんも見て、ことあるごとに私に見せました。
あの頃あなたが載っていた記事は、父さんが全部集めていて、いまでも私の部屋の戸棚にあります。父さんはあなたが憎くて勘当したのではないのです。あなたに本当に頑張って欲しくて、断腸の思いで勘当したのですよ。
父さんが倒れて病院に運ばれたときも、あなたを呼ぼうと何度も言いましたが、「あいつはまだ一流にはなっていない。呼ぶな」の一点張りでした。そのくせ、一人になると、あなたの記事を寂しそうに見ていました。本当は寂しくてあなたに来て欲しくてたまらないくせに、見栄っ張りで、頑固なところは、あなたにそっくりです。
父さんが危篤に陥ったとき、あなたに連絡しましたが、どうしても連絡がつきませんでした。父さんはあなたのことを気に懸けながら、死にました。息をひきとる数日前に、「俺の代わりに丈志を見守ってくれ」と頼まれました。「あいつは言ったことは絶対に守る子だ」、そう信じて父さんは逝きました。
あなたが先日来たときには、元気でやっているんだなと安心しました。いろいろと物事がうまくいかなくて、ちょっと自信喪失していましたね。家に戻ってきなさいという言葉が、何度も口から出そうになりましたが、父さんの顔を頭に浮かべ、必死で我慢しました。
あなたは父さんや母さんの忠告を聞かずビリヤードプロになったことを、ずっと悩んでいるようでしたね。
そのようなことは気にしなくても、父さんと母さんはあなたが幸せに生きてくれていたら、それでいいのですよ。あなたが生きたいように生きるのが、一番いいのです。お父さんもお母さんもあなたの幸せだけを願っていました。逆らおうが、家を飛び出ようが、あなたが幸せならいいのですよ。子供が元気でやっているのがわかるだけで、私たちは幸せなのですよ。それが親というものです。
でも、あなたと章が兄弟で、江頭という男に恐喝されていたのを知ったときには、愕然としました。江頭のことを知らせてくれる人がいました。人の弱味につけ込んでお金をたかる男だという話でした。こう見えても母さんの交友関係は広いのですよ。
明日、母さんは江頭に会いに行きます。あんな男に一度でも金を渡したら最後、死ぬまでたかり続けられます。江頭には一度会いましたが、恐ろしい目をした男でした。もしかすると私の身になにかあるかもしれません。
母さんは八十年近くも生きてきました。父さんとあなたたちに囲まれて、とても幸せに暮らすことができました。父さんが逝ったいま、これ以上望むことはありません。
唯一の気懸かりが、あなたたちのことです。
章は真面目に人生を歩き続け、仕事に追われ、疲れています。本当はもっとおおらかな子だったのに、母さんが小さな頃から、しっかりしなさいと何度も言ってきたので、いささか融通の利かない子になったかもしれないね。浮気をしたと聞いたときは、驚いたけど、少し安心しました。洋子さんには、こんなこと口が裂けても言えないけどね。
丈志はいま最も辛いときだね。聞けば、ビリヤードではあまり勝てなくなり、経営していた店もうまくいかなくなったとのこと。
でもね、丈志。そういう苦難は人生ではしょっちゅうあることですよ。
私と父さんだって、何度二人で死のうと思ったことか、数え上げればきりがないくらいです。化学工場に勤めている知り合いから青酸化合物をもらって、いざというときには、一緒に死のうと言い合っていたのですよ。
その青酸化合物をあなたたちを守るために使うとは思ってもみなかったけれど、それも運命かもしれません。
人を殺すことが許されるなど、微塵も思っていません。でも、あなたたちのために殺人を犯すのであれば、あの世の父さんだけは許してくれると思います。それが、息子たちのために、私にできるたった一つのことでしょう。
決して責任を感じたりはしないでください。あとはあの世で父さんと一緒に、丈志が一流の選手になるのを楽しみに見守っています。
丈志、ビリヤードは絶対に辞めたら駄目ですよ。どんなに苦しくても辞めたら、その時点で人間は負けるのです。苦しいときが一番のチャンスなのですよ。苦しさに人間が打ち勝ったとき、初めて神様は微笑みます。
あなたは苦しいいまがチャンスなのです。飛翔する直前なのです。幸せはもうそこまで来ているのです。あと一歩。あと一歩なのですよ。頑張れ。絶対に逃げるな。これは母さんの最後の言葉です。
あの世で、父さんと一緒に応援しています。さようなら。丈志。
純枝。

手紙を読み終わった野島の目からは、涙がとめどなく溢れてきた。そして、いつまでも涙は止まらなかった。

(続く)
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