『アルゴリズムの鬼手』

         赤星 香一郎


●第一章

     〔1〕

 「大橋将棋クラブ」は閑散としていた。
 さほど広くない店内には、桂でできた三寸の足つき将棋盤が並んでいる。どの将棋盤の上にも花の模様が入った藍色の駒袋が置いてあった。
 大橋宗角は父の信夫が経営する都内の将棋道場、大橋将棋クラブの店番をしていた。店内には客がひとりもおらず、大橋が受付に座っているだけだ。
 細身の体に、ライトグレーの長袖シャツ、Gパンといういでたちは、二十八歳の割りには若く見える。鼻は高いが、色白で凹凸が少ないため、平面的に見える顔立ちだ。目にかかりそうな前髪のあいだから、少し垂れ気味の目が優しい光を放っている。
 三月初旬の天気のよい日だった。暖房をつけると少し暑く、外を歩くときもコートが不要になる季節だ。将棋道場の中は薄暗いものの、窓から差し込む日差しは、春の到来を告げているように穏やかだった。
 時刻は午前十時を回ったところだ。客が多いと忙しくて大変だが、だれもいないと、それはそれで暇を持てあます。
 大橋は大きく伸びをすると、昨日解けなかった詰め将棋を考え始めた。退屈しのぎには詰め将棋が最適だ。終盤の訓練にもなるし、あっという間に時間が過ぎる。
 盤面を頭に入れ、大橋が深い思考に入りかけようとしたとき、店のドアが開く音が聞こえた。
 将棋道場の入り口に男が立っていた。大橋とほぼ同世代であろうか。肌は浅黒く痩せぎすで、銀縁の眼鏡をかけている。後頭部には尖った形の寝癖がついていた。鈍色のくたびれた背広に真っ赤なネクタイがまったく似合っておらず、一見して女性とは縁がなさそうな、冴えない容貌の男だ。
 男は落ち窪んだ目で室内をきょろきょろと見渡した。左馬の駒(「馬」の字が逆さに書かれている高さ三十センチメートルの大きな将棋駒)や対局時計を、物珍しげに見つめていたが、大橋に気づくと、小股でちょこちょこと歩いてきた。
 受付に向かうと、男は大橋の並べていた盤面を見ながら、変声期前の子供のような甲高い声で訊ねた。
「ここ、将棋打てますか?」
「え、ええ。将棋なら指せますけど……」
 大橋は苦笑交じりに頷いた。将棋は囲碁や麻雀とは違い、「打つ」ではなく「指す」だ。
 男は盤面から目を離すと、寝癖の部分を人差し指でぽりぽりとかいた。背広の肘の部分がこすれて光っている。よく見ると、ズボンの丈もやや短くて、白い靴下が顔を覗かせていた。
「お一人ですか?」
 大橋の質問には答えず、男は受付にあった将棋雑誌を手に取ると、興味なさそうにぱらぱらとめくりながら、横目で大橋を見た。
「じゃあ、あなたと打てますよね?」
「ええ、そりゃまあ」
 男は当然のような顔で頷き、雑誌を投げるようにカウンターに放った。
「ここがいい……」
 そう呟きながら、男は受付に最も近い席の将棋盤を掌で乱暴に叩き、椅子に腰掛けた。それから駒袋に入っていた駒を無造作にぶちまけ、たどたどしい手つきで駒を並べ始めた。
 この男が将棋道場に慣れていないのは一目瞭然だった。将棋を覚えて少々強くなったので、会社をさぼり、町の将棋道場で腕試しをしたくなった、というところであろうか。態度が横柄なのは虚勢を張っているのだろう。
 大橋が男の対面の席に座ったとき、男はすでに駒を並べ終えていた。急いで並べたせいか、駒が真っ直ぐになっておらず、升目からはみ出している駒や、横を向いている駒がある。大橋陣の飛車と角の位置は逆に並べられていた。
 大橋は駒を丁寧に直すと、自陣に間違えて並べてあった飛車と角を、そのまま駒袋にしまい込んだ。
「なにをするんです?」
 男が怪訝な面持ちで訊ねた。
「駒落ちで指しましょう」
 駒落ちとは、強いほうの人間がいくつかの駒を落として戦うものだ。飛車と角を落とすのは、二枚落ち(飛車角落ち)と呼ばれ、かなりのハンデを与えるときの慣用句にもなっている。
 男は憮然とした表情で強く言い放った。
「そんなハンデは必要ないですよ」
 大橋は男を怒らせないよう気を配りながら、穏やかに笑みを浮かべた。
「実は私は奨励会員なんですよ」
 奨励会は日本将棋連盟に属しているプロ育成組織のことだ。日本将棋連盟では四段からプロ棋士として認められるが、現在大橋は奨励会三段リーグに所属している。
 男は人差し指でフレームを触って眼鏡の位置を整え、大橋を見つめた。
「なんです、奨励会員って?」
「プロ棋士の卵です。プロ棋士予備軍と言ったところでしょうか。私は奨励会三段の棋士なんです」
 男は身を引くと、値踏みするような目で大橋をじろじろと見たあと、唇を下品に舐めた。
「でもたかが三段じゃないですか。三段程度なら、その辺にごろごろ転がってますよ」
「プロの三段と、アマチュアの三段は全然レベルが違うんです」
 将棋界にはプロの段位とアマチュアの段位がある。プロの段位とアマチュアの段位とでは、基準が異なっている。実力の差は大きく、アマチュアの四段あたりで、やっとプロの6級あたりと互角に戦える程度だ。奨励会の三段ともなると、プロ棋士と比べてもほとんど遜色がない。
 ところが男は鼻から強く息を吐いて、見下したように口元をゆがめた。
「基準の違った段が、あちこちにあるはずないじゃないですか」
 人を小馬鹿にしたような態度をとるのが彼の癖なのだろうか。薄笑いを浮かべた彼の表情はいささか大橋の癇に障る。
「私は奨励会三段の大橋と申します。失礼ですが、お客様のお名前をよろしいでしょうか?」
 男は一瞬静止すると、面倒くさそうに早口で返答した。
「ああ、僕は渡瀬といいます」
「失礼ですが、渡瀬さんの棋力はどのくらいなのでしょうか?」
「棋力っていうと、何段かということですか?」
「そうです」
 渡瀬は腕を組んで首を傾け、それから大橋に目をやると、少し誇らしげに小鼻をひくつかせた。
「うーん、よくわかりませんが、たぶんプロの人より強いと思いますよ」
 大橋はこの男の顔を改めて見つめた。大橋をからかっているのだろうかとも思ったが、真面目な表情を見る限り、そうでもなさそうだ。大橋は質問を変えてみた。
「じゃあ、渡瀬さんは将棋を覚えてどのくらいになりますか?」
 渡瀬はせわしなく体を揺すりながら答えた。
「僕ですか? 僕自身はルールを覚えて二、三年くらいですかね」
「それでは、棋力はたぶん5級くらいでしょうね」
 5級といえば、ひと通りの専門用語を覚え、サラリーマンなら昼休みに社内で将棋を指しても、さほどひけを取らない程度の実力だ。初級者を脱却して、ある程度将棋の面白さがわかってくるころでもあり、井の中の蛙になる時期でもある。
 渡瀬は上を向いて首をぽきりと鳴らしてから、大橋に挑戦的な目を向けた。
「ですから、プロよりも強いって言ってるじゃないですか。もちろん大橋さん、あなたよりもね」
「私はプロの卵なんです。こう言ってはなんですが、アマチュアで私に勝てる方なんて、ほとんどいませんよ」
 渡瀬が耳障りな声で笑い声を立てた。
「ははは。わからない人だね。僕はプロより強いって言ってるじゃないですか」
 大橋は渡瀬の言葉を聞き流し、盤面に目を移した。
「もし上手になりたいんでしたら、二枚落ちで指したほうが、きっと勉強になるし、面白いと思いますよ」
「なんで自分より弱い相手にハンデをもらうんですか。ハンデなんかいりませんよ。賭けたっていいくらいだ」
 大橋は眉をひそめ、渡瀬をたしなめた。
「そういうことを無闇に言わないほうがいいですよ。世の中には悪い人間もいます。言葉巧みに持ちかけて賭け将棋に誘い、お金を巻き上げる怖い輩が、将棋道場にはたくさんいますから」
 渡瀬は奥の銀歯が見えるほど口を開けて笑った。
「賭け将棋? そんなことをしたら、僕にお金を巻き上げられるのが関の山ですよ」
 渡瀬はふと思いついたように指を鳴らした。
「ああ、なんなら、僕と賭けてやりますか? 僕はいくらでもいいですよ」
「本気でおっしゃっているんですか?」
 渡瀬は挑発するように、口元に皮肉めいた笑みを浮かべた。
「もちろんです。あなたに僕と勝負する勇気があるならね」
「奨励会員の私に、賭け将棋を挑んでいると受け取ってよろしいんですね?」
 次第に大橋の語気が強まっていったが、渡瀬はまったく意に介していないようだった。
「挑むなんてとんでもない。挑むっていうのは、弱い者が強い者に挑戦するときの言い方でしょう。この場合は僕が胸を貸してやるといったところでしょうか」
 大橋は渡瀬に怒りを気取られないよう、努めて冷静に言った。
「そこまでおっしゃるのなら、賭けてやりましょう」
「じゃあ、百万円ほど賭けますか?」
「なんですって?」
「あなたには勝つ自信があるんでしょ? 僕にも勝つ自信があります。ですから賭け金は多ければ多いほどいい」
「私はいいですよ」
 強い口調で言い放ったつもりだったが、声が少し裏返っていた。
 もちろん表向きには奨励会員の賭け将棋は禁止されている。しかし、この男はそのことを忘れさせるほど、大橋の感情を逆撫でした。百万円を賭けるとまで言われて、聞き流すほど大橋は人格者ではない。
 渡瀬は八百円の定食を賭けるかのような気軽な口調で、大橋に念を押した。
「それではひと勝負百万円でいいですね?」
 いっこうに臆さない渡瀬の言葉に、大橋は一瞬言葉に詰まった。もしかすると、渡瀬は真剣師ではないだろうかという考えが頭をよぎったのだ。
 賭け将棋のことを真剣と呼び、賭け将棋を生業にしているアマチュアは真剣師と呼ばれる。ひと昔前なら、プロにも匹敵する実力を持つ真剣師はいた。「東海の鬼」と呼ばれた故花村元司九段は、昭和十九年異例の五段試験に合格し、木村十四世名人門に入った。
 しかしメディアの発達した現在では、将棋の強い人間はほとんどがプロ入りする。プロを凌ぐほどの実力の持ち主が在野に隠れていることなど、ほとんどない。
 先ごろ、プロ編入試験六番勝負に勝ち越してプロ棋士になった瀬川晶司プロがいる。サラリーマンがプロ棋士になったということでマスコミに注目されたが、彼とて元奨励会員だ。それにアマチュア時代から彼の活躍ぶりはだれもが知っていた。
 真剣師といえばプロになれなかった者がほとんどだ。もし仮に渡瀬が真剣師だとしても、奨励会三段の大橋が負ける要素はほとんどない。
 大橋は改めて渡瀬の顔を見た。別段特別な感情を持っているようには見えず、大橋をカモろうとしているふうでもない。ただ、落ち窪んだ渡瀬の目は自信に満ちた光を放っていた。
 やはり渡瀬は将棋の世界の常識をいまひとつわかっていないと考えるのが妥当だろう。
 最近ではインターネットで将棋を始める人間が多い。そのせいか、将棋道場で年長者に揉まれて強くなる人間は少なくなっている。
 将棋道場に通えば、強い人間とも対局し、棋界の常識についていろいろと教えてもらう機会もあるが、インターネットでは対局すればそれで終わりである。そのためゲーム感覚で将棋を指す人間も多い。
 だから渡瀬はプロとアマの段位の違いさえもわからないのだ。彼はインターネット対戦で強くなり、三段の人間にも負けなくなったのかもしれない。将棋を始めて二、三年で三段に勝てるようになったとしたら、かなりの上達ぶりだと言えるだろう。腕自慢が高じて、天狗になっているとしても仕方がない。
 そう思って見れば、渡瀬はいかにもコンピュータ好きのオタクのような容貌をしている。人と話すときにあまり目を合わせようとしないし、所作もロボットのように不恰好だ。ヒューマンスキルも低く、人間としての感情が欠落しているようにも感じられる。
 渡瀬のような人間はこれから増えてくるだろう。しょせんは素人の戯言ではないか。優しく諭してあげるのが、上級者の務めなのだろう。
 とはいえ渡瀬の暴言を受け流す気にはさらさらなれない。こてんぱんに負かしたあとで、ものの道理を教えてやればよい。無論お金も受け取るつもりなどない。ただ小生意気なこの男の吠え面を見たいだけだ。
 大橋は決心すると、渡瀬に告げた。
「ええ、それでは平手(お互いハンディキャップなしで指す普通の将棋のこと)で指しましょう」
「じゃあ先手を決めましょうか?」
 渡瀬が振り駒を知らなかったので、じゃんけんをして、先手後手を決めた。大橋が勝ち、大橋の先手になった。
 素人相手とはいえ、いちおう百万円の真剣だ。決して負けるわけにはいかない。大橋は気を引き締めた。
 大橋が▲7六歩と角道を開けて、勝負が始まった。そのとき渡瀬がにやりと笑ったような気がした。

     〔2〕

 戦型は渡瀬の振り飛車に対して、大橋の居飛車になった。
 序盤の駒組みが進み、渡瀬が△9二香と香車を上がったところで、大橋は渡瀬の香車をじっと睨んだ。渡瀬は穴熊に囲うつもりなのだ。
 穴熊囲いは、玉をじっくりと固めて、その固さを頼りに駒を捌いていく戦法で、プロアマ問わずよく指されている。いったん穴熊に囲ってしまえば、なかなか王手がかからないので頓死(詰みに気づかず、放置したために詰んでしまうこと)の危険性がなく、有利な戦いを挑めるため、愛用する人間が多い。
 しかしながら、穴熊に囲って駒を捌くやり方は、単調に局面が進行するため、「穴熊将棋はつまらない」といった批判もあった。プロのあいだでも、穴熊将棋ばかりやっていると上達しないという理由で、弟子に穴熊を指させない専門棋士もいる。
 だが素人将棋では、玉の固い穴熊は有力な戦法である。渡瀬は穴熊戦法が得意で、穴熊一本やりで強くなったのかもしれない。
 プロのあいだでは、相手が振り飛車穴熊なら、こちらは居飛車穴熊。相手が居飛車穴熊なら、穴熊に囲えないように、居飛車穴熊を封じる「藤井システム」という指し方もある。
 渡瀬が振り飛車なので、自陣を居飛車穴熊に囲う選択もあったが、大橋は穴熊があまり好きではない。
 なによりも素人相手に居飛車穴熊でガチガチに囲うのは、なんだか余裕がないようで気恥ずかしくもある。大橋は自陣をほどほどに整備すると、歩を突き捨てて急戦を仕掛けた。
 中盤の手が進むにつれ、大橋は内心で舌を巻いた。慣れない様子で駒を動かしている渡瀬の指し手が、やたらと鋭いのだ。とうていアマチュアのレベルとは思えない。
 駒を触る手捌きは相変わらずぎこちなく、駒を人差し指と親指でつまんで盤面に置く姿は、どう見ても初心者にしか見えない。それなのに指し手だけはアマチュア離れしているのだ。
 大橋の狙いを見抜き、動きを封じ込めてくるし、それでいて守勢一辺倒ではない。なによりもミスがまったくない。次第に大橋はあせりを感じていた。
 多少無理な仕掛けをやったためか、だんだんと大橋はジリ貧になり、玉が固い渡瀬側が徐々に指しやすくなっていった。渡瀬は本当にプロ以上の実力者なのかもしれない、という考えが頭をよぎった。大橋はいっそう慎重に駒を進めた。
 渡瀬は感情の動きをいっさい見せず、淡々と指し手を進めていった。あまり深く考えているようには見えず、大橋の手番には、退屈そうな顔すらする。自分の手番にはやたらとポケットに手を突っ込み、なにかを数えているかのように何度も首を振った。そして突然思いついたように駒に手をかけ、ぎこちない仕草で駒を動かす。いままでに対局したことがないタイプの指し手だった。
 終盤に差し掛かると、大橋は自分の劣勢をはっきりと感じ取っていた。局面を撹乱させるために戦況を拡大しようと試みたが、渡瀬は挑発には乗ってこなかった。大橋の考えを見透かしたように、さらりといなし、無理のない手を指す。
 大橋が駒をたくさん渡し、渡瀬玉に必至(次にどう指しても受けがなく、詰む形のこと)をかけたとき、渡瀬は大橋の玉に牙をむいて襲い掛かってきた。王手王手でどんどん追い詰められ、逃げようとする大橋をあざ笑うように、渡瀬は大橋玉を包囲していった。
 逃げ切ったかと息をついたとき、大橋自身も想像だにしなかった好手が渡瀬から放たれた。その手を見た瞬間、大橋は自分の負けを悟った。一、二手指してあがいてはみたが、渡瀬の指し手は鋭く、大橋玉を逃がさなかった。
 あと数手で詰む局面になって、大橋は駒台に手を置き、うなだれた。
「私の負けです」
 しばらくのあいだ、大橋は盤面を茫然と見つめていた。
 屈辱的だった。プロを目指している自分が、ずぶの素人に負けてしまった。悪手を指したつもりはない。普通に指して、普通に負けてしまった。あえて言うなら、渡瀬のほうが実力が上だった、としか考えられない。
 渡瀬は勝っても、さほど嬉しそうな表情はしなかった。さも当然のように頷くと、大橋に言った。
「僕の勝ちですね」
 彼の淡々とした言葉が大橋のプライドをいっそう傷つけた。
「すみません、いま百万円の持ち合わせが……」
 大橋の小さなかすれ声を渡瀬はさえぎった。
「ああ、お金ならいいですよ。ちょっと僕の頼みごとを聞いてくれれば、それでちゃらにしてあげますよ」
 大橋はおずおずと渡瀬を見上げた。
「と言いますと?」
 渡瀬は胸ポケットから、古びた茶色の名刺入れを取り出すと、大橋に名刺を差し出した。パソコンで印字した見るからに貧弱な名刺だ。名刺には「株式会社ヘヴンフィールド 代表取締役社長 渡瀬龍一」と書いてあった。
「僕は会社を経営しているんです。一週間後に、僕のオフィスに来てもらえませんか。オフィスといっても、社員は僕ともうひとりの女性社員だけですがね」
 渡瀬は顔をゆがめてかわいた声で笑った。
 渡瀬のいかにも貧相な格好から鑑みても、まさか暴力団関係ではあるまい。しかし、どこか胡散臭いといった思いは払拭できなかった。
「なにをするんですか?」
「ちょっとしたお手伝いですよ」
「ちょっとした、ですか」
 渡瀬は大仰に手を振った。
「あなたが心配するようなことは、なにもありませんから」
「犯罪関係のお手伝いとかではないんですよね?」
「心配はご無用です。犯罪なんかではありません」
「犯罪なんかではない? すると、犯罪ではないにしても、なにか危険なことなんですか?」
 大橋の小心翼々とした考えを見透かしたかのように、渡瀬は目に軽侮の色を走らせた。
「犯罪でも危険なことでもありません。まあ、どうしても心配なら、この場で百万円を払ってくれてもいいんですけどね」
 大橋は言葉に詰まった。単なる奨励会員の大橋に、そのような大金が準備できるわけがない。
 渡瀬は黄色い歯をむき出して笑った。
「あなたは百万円に相当する頼み事なので、なにか大変なことを手伝わされると思っているんでしょう。僕は暴力団関係者でも犯罪に手を染めているわけでもありません。百万円の大金は、プロの卵のあなたへの付加価値なんですよ。あなたが奨励会員でなければ、僕も好き好んで百万円を交換条件にお願いなんかしませんよ。どちらかというと、あなたにとってはこの上ないよい話だと思いますしね」
 渡瀬は意味深長に笑みを浮かべた。
「私にとってよい話ですか?」
「ええ、僕の趣旨をいくらか話しますと、あなたの将棋を強くしてあげようと言っているんです。僕と対局してわかったでしょう? 将棋に関しては、あなたより僕のほうが上だ。ちなみに僕は将棋を始めて二、三年だ。将棋に強くなるにはこつがあるんですよ」
「こつというと、対局したり、定跡を勉強したり、詰め将棋を解いたりすることではないんですか?」
「違います。僕が言っているのは究極の方法なんです。その方法を使えば、あなたもすぐに名人になれますよ」
 にわかには信じがたい話だった。
「私の将棋を強くして渡瀬さんになにかメリットはあるんですか?」
 渡瀬は大橋の問いには答えずに、意味ありげに笑った。
「まあ、一週間後に来てくれれば、なんのことかわかりますよ。どうしますか? 百万円を支払いますか?」
 大橋に他の選択肢はなさそうだった。
「わかりました」
 大橋が答えると、渡瀬は立ち上がった。
「じゃあ、当日は昼の十二時に来てください。いいですね?」
 それだけ言うと、彼は大橋将棋クラブを出て行った。

 狐につままれたような気分だった。将棋を始めて二、三年の素人に負けるのも腑に落ちないし、将棋があっという間に強くなる上達法があるのも信じられない。
 催眠術の類をかけられて負けたのだろうかと思い、たったいま指したばかりの将棋を並べ、念入りに検討したが、大橋がとりわけ悪い手を指して負けたわけではない、といった結論しか導き出せない。
 特に終盤で、渡瀬が大橋玉を即詰みに討ち取ったところなど、時間の短い将棋でよく見切ったものだと思う。渡瀬はほぼノータイムで、大橋玉に詰みがあることを読み切った。それだけでも大橋よりずっと強いだろう。
 大橋は奨励会員とプロ棋士の顔はだいたい知っているが、渡瀬の顔には覚えがない。渡瀬という名前もいままでに聞いたことはない。

 現在大橋は三段リーグをトップで走っていて、明日最終局がある。明日勝てば、大橋は晴れて新四段になれるという大切な対局だ。
 日本将棋連盟では四段からがプロの将棋指しとして認められる。四段になれば、先生と呼ばれ、あらゆる棋戦に参加できるようになり、給料ももらえる。一方、三段は単なる棋士の卵に過ぎず、四段とは待遇の面で雲泥の差があった。修業の身なので、あらゆる雑事をやらされ、半人前扱いを受ける。将棋界では三段と四段との差が一番大きい。
 その上、将棋のプロになるのは、他のどの世界のプロになるより難しい。日本将棋連盟の一組織に奨励会があり、プロになるにはここに入会し、卒業しなければならない。奨励会は6級から三段まであり、ほとんどの少年は6級で入会し、5級、4級と上がって、1級から初段になり、最後に三段に上がって、三段リーグの上位二名になるとようやく四段だ。
 しかも6級で奨励会に入会すること自体が非常に難しい。子供のときにアマチュアの県代表クラスになっていないと、奨励会の入会試験に合格するのは不可能なのだ。
 ようやく奨励会に入会しても、入ってから昇級するのが容易ではない。昇級には九勝三敗以上の成績を修めなければならず、三段になるまで延々とそれを繰り返す。さらに三段リーグに入り、三段リーグで上位二名に入らなければならない。入会して四段になる率は20%程度なのだ。
 大橋は、今年こそは今年こそはと三段リーグを戦い、あと一歩のところで昇段を逃していた。将棋連盟では、満二十六歳の誕生日を含むリーグ終了までに四段になれなかった場合は、奨励会を退会させられる。ただし、最後にあたる三段リーグで勝ち越しすれば、次回のリーグに参加できる。以下、同じ条件で在籍を延長できるが、満二十九歳のリーグ終了時で退会しなければならない。大橋はこの年齢制限にはとうに引っかかっていて、勝ち越しによって奨励会員の在籍を延長できている状態だ。
 つまり、明日の対局は大橋の人生を賭けた対局ともいえた。その前日に、渡瀬のような素人に負けたのだ。気にならないほうがおかしい。あんな勝負などしなければよかったと悔やんだが、いまさらそんなことを嘆いてもどうしようもない。
 一週間後に、渡瀬の会社を訪問しなければならない。考えれば考えるほど、大橋の落ち着かない気持ちは増していった。それは怪しげな仕事をやらされる不安というよりも、大橋の存在価値、ひいては将棋指しの存在の根底を覆されるのではないかといった、得体の知れない恐怖に似た感情だった。
 渡瀬は本当に将棋がすぐに上達する方法を編み出したのだろうか。だとしたら、それはどのような方法なのか。いままで大橋が信じていた棋界の常識や、果ては大橋のいままでの人生さえも、否定されることになりはしないだろうか。
 大切な対局を前にして、大橋の前途には暗雲が垂れ込めているような気がした。

     〔3〕

「負けました」
 将棋会館の対局室の中、大橋は静かに駒台に手を置き、深くうなだれた。
 相手の棋士は目に喜びの色を浮かべると、深々と頭を下げた。すぐさま上気した顔を上げると、鯨が潮を吹くように、勢いよく息を吐いた。彼はこの勝利によって、四段昇段が決まったのだ。
 大切な対局で、また負けてしまった。
 奨励会三段リーグの最終日、十三勝四敗であとひとつ勝てば、昇段を果たしていた局面だった。序盤は大橋の優勢で進んでいたが、終盤で錯覚から悪手を指し、その手をとがめられて負けた。
 前回も前々回も、あと一勝で昇段を逃し、今回も最終戦で苦杯を嘗めた。これで三回連続昇段を逃したことになる。大橋は悔しさのあまり、切れるほど唇を噛んだ。
 目の前の青年は大橋よりも十歳近く若く、まだ少年のような顔をしている。彼は三段リーグに在籍してすぐに四段昇段を果たした。
 感想戦(将棋の対局後、戦い終えた棋士たちが対局を振り返って検討しあうこと)で、たったいまプロ棋士になった青年が、喜びを隠しきれない表情で語った。
「大橋さんの△8六桂で僕が楽になりました。あそこはじっと△7二金と自陣を固めていれば、僕の負けでした」
 そんなことはわかっていた。なにを勘違いしたのか、相手玉を即詰みに討ち取ろうとしたのが、間違いだった。大橋らしからぬ痛恨のミスだ。
 たった一度の勘違いで、大橋のこれまでの努力は水泡に帰してしまった。来年は、またいちからやり直しなのだ。
 大橋は中学に入学してから奨励会に入会した。十五歳で入品(初段になること)し、十七歳で三段になった。三段までは比較的順調に昇段したが、三段リーグで足止めを食らった。三段リーグは現在三十人いる。その中で上位二人に入らなければ、四段に昇段できない。大橋はいつもいいところで、昇段を逃がしてきた。
 「三段まで来て、奨励会のやっと半分」という言葉もある通り、三段リーグは熾烈な順位戦だ。大橋は三段で長いあいだ留まっていて、とうとう次回の三段リーグが最後のチャンスになった。
 感想戦が終わると、大橋は重い足取りで将棋会館の中にある食堂に向かった。
 食堂の椅子に腰掛けると、大橋は両親になんと報告しようか思案に暮れた。父親の信夫は無類の将棋好きで、将棋道場の席主をしている。大橋が奨励会試験に合格したとき、信夫はたいそう喜んでくれた。大橋がプロ棋士になることが、信夫の夢なのだ。
 敗局の報告をしたら、信夫はひどく落胆するだろう。大橋は信夫のがっかりした顔を想像して、ますますふさぎこんだ。
 突然頭上で低い声がした。
「どうだった?」
 見上げると、同い年の棋士、赤津隆介が立っていた。赤津は棋士の中でも、とりわけ気の置けない友人のひとりだ。
 髪の毛はぼさぼさで、理科の燃焼実験のときに使ったマグネシウムリボンのように縮れている。浅黒い顔はにきびを潰したあとなのか、でこぼこになっていて、埴輪を連想させる。眼光はやたらと鋭く、いつも相手を睨んでいるように見える。
「また逆転負けだ」
 大橋が首を横に振ると、赤津は残念そうに顔をゆがめた。
「そうか……」
 赤津は早くに四段昇段を果たし、今年からA級に昇級した八段の棋士で、若手の棋士の有望株だ。
 特に終盤が抜群に強く、不利な局面からの逆転勝ちが多かった。あまりに逆転勝ちが多いので、彼が博打好きなことも相まって、「終盤のイカサマ師」というありがたくないニックネームまでつけられている。
 同じプロ棋士に対しても、闘志を剥き出しにするので、棋士のあいだではあまり評判がよくない。棋士の友人は少なく、唯一大橋だけが赤津と親交を結んでいた。
 赤津は大橋と向かい合わせて座ると、納得できないように、何度も首をかしげた。
「それにしても、おまえが負けるなんて信じられないよ。相手はそんなに強かったのか?」
 着ている服はいつ洗濯しているのだろうか。いつ会っても、色のあせた紺のGパンにくたびれた黒色のジャンパーを羽織っていた。赤津が近くに来ると、彼の体臭と、着たきりの服が持つ垢の臭いが混ざり合って、独特の臭気が漂う。
「終盤で錯覚から悪手を指してしまったんだ」
「おまえは強いのに、いざというときに緊張するから駄目なんだよ。いつもどおり普通に指せば、四段どころか、いまごろはA級棋士になっているはずなのに」
「それも含めて、おれの実力だよ」
 大橋が下を向いてやりきれないように吐き捨てると、赤津は気遣うように押し黙った。奨励会を経験した赤津は大橋同様、勝負の厳しさを十分に理解してくれている。
 大橋は心配そうな表情の赤津を見上げた。
「おまえ、今日空いてるか?」
「うん。なんかあるのか?」
「酒に付き合ってくれないか。今日は家に帰りたくないんだ。親父がおれの昇段を楽しみにしていたんで、がっかりした顔をされるのは辛いんだ」
 赤津は困ったような顔をした。
「付き合いたいのはやまやまだけど」
「用事があるのか?」
 赤津はしばらくためらっていたが、やがてきまりが悪そうに答えた。
「実はお金がないんだ」
「お金って、おまえ給料はたくさんもらっているじゃないか」
 赤津はれっきとした専門棋士だ。しかも去年はB級1組、今年はA級に昇段したので、一般のサラリーマンよりはずっと稼いでいる。普通ならば飲み代に事欠くはずはなかった。
 大橋は眉をひそめた。
「また博打ですったのか?」
 赤津は恥ずかしそうにうつむいた。
「うん」
 将棋では無類の強さを発揮している赤津だったが、私生活では破滅型の人間だった。ありとあらゆる博打にはまっていて、借金の額は数千万円とも言われている。複数の消費者金融からお金を借り、首が回らなくなっているとの噂もある。
 大橋からもちょくちょくお金を借りるが、返してもらったためしはない。そういう仕打ちを受けながら、いっこうに腹が立たないのは、赤津の性格が真っ直ぐで、どことなく憎めないせいだろう。
「今日はおれがおごるよ。おまえ、いまいくら持っているんだ?」
 赤津は恥ずかしそうに声をひそめた。
「千円札一枚くらいかな」
 大橋は財布から三万円を取り出すと、赤津の手に握らせた。
「給料日は十日後だろう。貸してやるよ。あるとき払いの催促なしだ」
 赤津は驚きの表情で大橋を見上げた。
「こんなに?」
「ああ、このあいだバイト代が入ったばかりなんだ。その代わり、博打はほどほどにしとけよな」
「わかった」
 赤津は殊勝な表情で頷いた。それから、そそくさとお金をズボンのポケットに入れ、おもねるような表情で言った。
「今日はおれがおごるよ」
 大橋は大きく溜め息をつくと、赤津を睨んだ。
「おまえ、そのお金は生活費だろう。そういう無駄遣いもするなって、おれは言ってんだよ」
「うん、そうだよな」
 赤津は叱られた子供のようなばつの悪い表情でうなだれた。
 赤津に貸したお金は、とうの昔に諦めていたが、赤津の生活態度を見るにつけ、彼の前途を憂えてしまう。せっかくの才能が、だらしない性格のために台無しになりはしないだろうか。
 しかし、大橋も人の心配どころではない。来年昇段できなければ、大橋は奨励会を辞めなければならない。それには十四勝四敗あたりが最低ラインだ。それでも三敗以下の人間が二人いれば昇級できない。つまり十八戦全勝しなければ完全に安心はできない。来年も勝ち続けて昇段する自信は、正直言って大橋にはなかった。
 おまけに昨日は素人にまで負け、今日は大切な対局で負けた。渡瀬に負けてから、大橋の心の中にはずっと言い知れぬ不安があった。そのことが微妙に勝負に影響したのかもしれない。
 大橋は、赤津には渡瀬のことを喋らなかった。言っても、信じてもらえないだろうし、なによりもアマチュアに負けたことを伝えるのは、プロ棋士を目指す者としてできなかった。
 不安な気持ちを抑えながら、その日大橋は朝まで赤津と飲み明かした。

     〔4〕

 朝、実家に帰ったときには、両親は大橋が四段昇段を逃したことを知っているようだった。対局についてははなにも聞かずに、母の和子が「お帰り」と言っただけだった。
 大橋が黙ったままトーストをほおばっていると、信夫が新聞を見たまま言った。
「残念だったな」
 今回の対局を大橋以上に楽しみにしていたのは、ほかならない信夫だ。
 信夫は若いころ真剣師をやっていたが、和子と結婚して将棋道場を開いた。大橋が生まれるころには、信夫の知り合いの真剣師たちがよく出入りしていた。信夫はプロの将棋指しになりたかったそうだが、祖父に大反対されたらしい。祖父は厳格な人だったので信夫の奨励会入りを絶対に許さず、やむなく将棋指しの道を諦めるしかなかったという。信夫はいまだにそのことをこぼしていた。
 信夫の言葉によれば、大橋家は大橋宗桂の末裔だそうだ。
 大橋宗桂は将棋家の始祖である初代名人である。
 現存する最古の棋譜は慶長十二年(1607年)の大橋宗桂と本因坊算砂戦だ。現代のルールの将棋が誕生したのは室町時代後期とされているので、それから二百年もの年月が経っていることになる。
 宗桂は弘治元年(1555年)京都に生まれた。本因坊算砂との対局のときには五十歳を過ぎており、富裕な商人だったと言われている。宗桂は最初織田信長に仕え、さらに豊臣秀吉、徳川家康、秀忠に歴任した。
 一方の本因坊算砂は、囲碁・本因坊家の初代当主。日蓮宗の僧で、やはり京都の人間だった。
 二人の手合いは平手だった。畑違いの碁界の者が将棋の第一人者と互角で対局するのは、現代では考えられないが、当時の棋客は囲碁将棋双方に通じており、宗桂もまた当代屈指の碁打ちだったと言われている。
 戦型は後手算砂の四間飛車に、先手宗桂の右四間飛車で、駒組みは現代将棋と比較すると稚拙だが、終盤は現代のプロに近い力があった。対局は終盤粘り強く戦った宗桂が百三十三手で算砂を破っている。
 この対局から五年後の慶長十七年(1612年)、宗桂は新設された「将棋所」の長に就き、初代名人を名乗る。それから宗桂は名人としてさまざまな対局を重ねたが、寛永十一年(1634年)、八十歳の天寿を全うする。京都・深草の霊光寺に葬られ、駒形の墓碑の裏面には「桂馬」の文字が刻まれている。「宗桂」の名は、信長が宗桂の桂馬使いの妙をたたえて授けたものだ。
 大橋将棋家は江戸時代末期まで約三百年続いたが、明治、大正時代には、十二世名人小野五平、十三世名人関根金次郎と経て、昭和に入って実力制名人時代へと変貌を遂げた。現在の名人は大橋の友人の黒柳省吾七冠である。
 現在、名人は将棋界に七つあるタイトルのひとつに過ぎないが、その歴史は古く、他のタイトルとは一線を画している。将棋界で一番権威のあるタイトルは名人だという考えは、厳然として棋界に根づいている。大橋宗桂を始祖として江戸時代から続いた将棋家の歴史の重みが、現代になってもなお名人を特別な存在と思わせるのだろう。
 大橋家が将棋家の末裔であるかどうか、本当のところはわからない。ただ、信夫は幼少のころ、そのことを真剣師の曽祖父に聞いたそうで、大橋家が将棋家の子孫であることを固く信じていた。
 信夫が角を大好きだったことと、「宗桂」にちなんで、大橋は「宗角」と命名された。
 小さなころから、大橋は自分の名前が嫌だった。友達は普通の名前なのに、どうして自分だけ変な名前なのだろうと、いつも思っていた。その気持ちはいまでも変わらない。
 小学校に入るくらいから、父親には半ば強制的に将棋を教えられた。覚え始めのころは面白くて、ぐんぐん上達し、周りの大人たちを負かすようになった。勉強は大してできなかった大橋だったが、将棋に関しては、大人たちを驚かせた。小学三年生のときには有段者の大人とも互角に指せるようになった。
 小学校を卒業するころには、近所にほとんど相手がいなくなるほど強くなり、アマチュアの県代表クラスの信夫ですら苦戦させた。信夫は大橋が将棋に強くなることが、一番嬉しいようで、大橋に負かされるたびに満足そうな顔をした。
 中学に入学して、大橋はなんのためらいもなく奨励会に入会した。師匠は信夫の経営している大橋将棋クラブの常連の平畑健介九段だった。七十歳をとうに過ぎていて、髪の毛は真っ白でふさふさとしていた。現在ではフリークラスに在籍しているが、A級まで登りつめた棋士で、温厚な人柄は他の棋士からも好かれていた。
 平畑は酒が好きで、大橋が小学生のころ、酒を飲みながら大橋の相手をしてくれた。大橋がよい手を指すと、目を細めて「ほうほう」と優しげに笑った。
 昨夜おそらく両親は、大橋が帰ってこないので、師匠に電話をして結果を知ったのだろう。なんでもないようなふりをしていたが、信夫の目は落胆の色に染まっている。
「これでチャンスはあと一度だけになったよ」
 大橋が信夫に言うと、信夫は憮然とした表情をした。
「あと一回あれば十分だ」
 悲しげな表情でそう言い放つと、信夫は新聞に目を落とした。
 それにしても、昨日渡瀬とつまらない真剣をしたことが、いまになってつくづく後悔される。あの男との勝負が、奨励会での対局に影響したのに決まっている。
 しかし三回連続最終局で昇段を逃したとなると、さすがにこたえた。奨励会三段が大橋の限界ではないだろうか。
「おれはもう駄目かもしれない」
 いままで大橋は、負けたときに悔しがることはあっても、決して泣き言を言わなかった。だがさすがに今回の敗局に、つい大橋の口から弱気な言葉がこぼれ出ていた。
 信夫が表情をこわばらせ、新聞から目を離して大橋の顔を見た。信夫の瞳が寂しそうに、なにかを大橋に問いかけていた。
 信夫の視線に耐え切れず、大橋は顔を背けた。
「来年もチャンスに恵まれるとは限らないよ」
 投げやりな気分で言い捨てると、大橋は逃げるように自室に向かった。
 部屋に戻ると、大橋は深々と溜め息をついた。少なくとも昔はこうではなかった。奨励会に入った当初は、赤津、七冠の黒柳と共に、若手の三羽烏として期待されたものだった。三人はちょうど同い年で、棋力も同じくらいだった。
 赤津は奨励会での対局をきっかけに、大橋と親しくなり、同じ研究会に出入りするようになった。彼はすぐに四段になり、今年念願のA級八段になった。
 A級に在籍しているということは、約百五十人いる現役棋士のなかでも上位十名に入ることを意味する。その上には名人の黒柳しかいない。将棋指しにとって、A級八段とはエリートの証で、それだけですごいことなのだ。
 黒柳は棋界の第一人者である七冠だ。将棋界には竜王、名人、王将、棋聖、王位、王座、棋王の七つのタイトルがあり、どれもが年に一度挑戦者がタイトルホルダーに挑戦する仕組みとなっているが、黒柳はすべてのタイトルを持っていて、史上最強との呼び名が高い。
 大橋、赤津、黒柳の三人の中で、鳴かず飛ばずになっているのは大橋だけだ。三人が出会ったころはさほど差があるようには思えなかったのが、いまでは大橋の立場と言えば、七冠とA級八段を友人に持つ単なる奨励会員だった。その奨励会員の地位でさえ、来年昇段できなければ、なくなるのだ。
 おまけに渡瀬と真剣を指して、百万円もの負債を背負った。ことと次第によっては、なんらかのトラブルに巻き込まれる可能性もある。
 渡瀬は将棋がすぐに上達する究極の方法があると言った。
 果たしてそのような方法が存在するものだろうか。その方法で、だれもが容易に将棋が上手くなるのなら、将棋指しの存在意義がなくなるではないか。
 普通に考えたら、渡瀬の言っている話は信じられない。だが、大橋は実際に渡瀬と将棋を指して負けた。「将棋を打つ」と言ったり、飛車と角を間違えて置いたりするようなような素人が、大橋を負かしたのだ。
 本当に将棋が上達する究極の方法があるのなら、聞いてみたいという考えもあった。なによりも渡瀬は「大橋にとってよい話」と言っていたではないか。
 不安と期待感がないまぜになったような、不思議な気持ちだった。

     〔5〕

 約束当日、大橋は渡瀬の会社に向かった。
 渡瀬が置いていった名刺の住所を確認しつつ、駅を降りて大通り沿いに歩いていくと、ほどなくして人通りのない道に入る。隣を都市高速道路が走っていて、なんとなく圧迫感を受ける。道を真っ直ぐに歩いていくと、渡瀬の会社に到着した。
 古ぼけた辛気臭い雰囲気のビルだ。近くに行くと、白い壁がすすけて灰色になっている。建物の中に入ると、昼間とは思えないほど薄暗く、妙な薄気味の悪さを感じた。
 三階に「株式会社ヘヴンフィールド」はあった。大橋はエレベーターに乗り込むと、三階のボタンを押した。
 やたらと遅い速度でエレベーターは上昇していった。狭いせいで、やけに閉塞感を覚える。別段閉所恐怖症でもない大橋でさえ、落ち着かない気分になった。
 なかなか次の階のランプが点滅しない。中に閉じ込められたまま、どこか別の場所に連れて行かれそうな気にすらなる。階段を使えばよかったと大橋が後悔し始めたころに、エレベーターが止まり、ドアが開いた。大橋は逃げるようにエレベーターから飛び出した。
 通路に出ると、すぐにヘヴンフィールドという看板が見えた。看板と会社名だけでは、なにをしている会社なのか、見当もつかない。ビルの大きさから考えて、せいぜい部屋が二つある程度のオフィスだろう。
 狭い通路を抜け、インターホンを押すと、高い女性の声がした。大橋が名を告げると、すぐにドアが開いて、受付の女性がにこやかな笑顔で立っていた。
 瞳がくっきりと目立つ、鼻筋が通った華やかな女性だった。引き締まった口元と、やや切れ上がった目元は、少し気の強そうな印象を受けたが、上品な笑顔とライトグレーのスーツがそれを打ち消していた。ほのかに香水の匂いが漂っている。
 女性社員がいると聞いていたが、渡瀬の女性と縁遠そうな雰囲気から、地味な女性社員が出てくることを想像していたので、大橋は戸惑った。
 彼女は大橋の顔を見ると、親しげに笑った。
「大橋さんですね?」
「えっと、渡瀬さんから……」
 大橋が言い終わらないうちに、奥のほうで大声がした。
「ああ、待ってましたよ」
 すぐに渡瀬が姿を現した。相変わらずくたびれた背広に、何日も着倒したようなワイシャツ姿だ。頭頂部にはやはり寝癖があった。
 渡瀬は横柄な調子で女性にお茶を持ってくるよう指示すると、大橋を部屋の奥に通した。
 奥の部屋はひどく殺風景で、観葉植物など心安らぐものの類は一切ない。デスクの上にパソコンが一台あって、周りにはコンピュータ関連の書籍が積み上げられていた。白い壁が茶色に変色しており、煙草の匂いがどこからか漂ってくる。奥の壁にはずいぶんと古いグラビアアイドルの水着姿のポスターが貼ってある。
 デスクの上にはカップ麺のカップが重ねられていて、数十本の割り箸が突き刺さっていた。どの空き缶にも煙草の灰が付着していた。
 オフィスと言うより、典型的なコンピュータオタクの部屋といった印象だ。普通の神経を持った女性なら、この部屋を見て逃げ出してしまうのではないだろうか。それだけに、さきほどの綺麗な女性の存在が不思議に思える。
 渡瀬は足の踏み場もないほど積み上げられた書籍を、足で無造作に脇にどけると、パイプ式の折りたたみ椅子をその場に置いた。
「どうぞ」
 大橋が遠慮がちに椅子に座ると、渡瀬はお茶を持ってきた彼女をうるさそうに手で追い払ってから、ドアに向かい、部屋の鍵をかけた。ずいぶん用心深いが、その仰々しさが大橋に得体の知れない不安感を抱かせる。
 渡瀬は椅子に座ると大橋に目を向けた。
「汚いオフィスなので、びっくりしたでしょう?」
 眼鏡の奥の双眸は落ち窪んではいるが、鋭い。冷静に大橋を観察しているようでもある。
 大橋は思わず目をそらした。
「いえ、そんなことは……」
 渡瀬は大橋の言葉をさえぎり、口元にゆがんだ笑みを浮かべた。
「気を遣わなくてもいいですよ。僕だってブタ箱のような部屋だって思っているんですから」
 どうも渡瀬のような人間は苦手だ。早めに要件を済ませてしまおう。大橋は早速切り出した。
「今日私を呼び出した用件を聞かせて欲しいんですが……」
 渡瀬はデスクの上にあった煙草の箱を手に取ると、大橋に勧めた。
「私は煙草を吸いませんから」
 大橋が断ると、渡瀬は一瞬静止し、首をかしげた。大橋を無視して煙草に火をつけ、美味しそうに吸い込んだ。
「大橋さんはゲーム理論って知ってますか?」
 渡瀬の真意を図りかね、大橋は問い返した。
「ゲーム理論っていうと、学問の話ですか?」
「そうです。知っているでしょう?」
「名前くらいしか聞いたことはありません」
 渡瀬の面上を侮蔑の色がかすめた。
「ゲーム理論とは、ゲームを形式化することによって、相反する利害関係に立つ行動単位からなる社会における人間行動の様式を、理論的に究明するものです」
 大橋が考え込んでいると、渡瀬は煙草の煙をだらしなく鼻から出して、諦めたように言った。
「じゃあ、もっとわかりやすく説明しましょうか。例えば、将棋の神様が二人で将棋を指そうとしているとします。先手と後手を決まった段階で、どちらかの神様が『負けました』と言って頭を下げる。そういう話を聞いたことはないですか?」
「ええ。四コマ漫画かなにかで見たことがあります」
「あれは冗談ではないんですよ。ゲーム理論によれば、将棋の先手と後手が決まった段階で、たしかに勝敗は決まっているのです」
 その話なら大橋もどこかで読んだことがあった。たしかコンピュータかなにかの本だったはずだ。
「ゲーム理論によると、『二人零和有限確定完全情報ゲーム』には必勝法が存在します。将棋は『二人・零和・有限・確定・完全情報』という長たらしい形容詞を満足するゲームなので、数学的には必勝法が存在する理屈になるのです」
「すると、渡瀬さんはそのゲーム理論を使って私に勝ったんですか?」
 渡瀬は機械仕掛けのおもちゃのように、手をぴんと突き出した。
「まあ、あせることはありません。順を追って説明しましょう」
 渡瀬は眼鏡の奥の目を光らせた。
 「二人・零和・有限・確定・完全情報」では、\莠衂勝、後手必勝、0き分け、のいずれかになる。したがって、理想的な情報処理能力を持っていれば、最初から勝負がわかっていることになる。
 「二人」ゲームとは、文字どおり二人でするゲームのことである。例えば、麻雀は四人ゲームで、将棋や囲碁は二人ゲームになる。
 「零和」ゲームとは、一方が勝ったらもう一方は負けになり、一方が負けたらもう一方が勝ちになるようなゲームのことである。一方の勝ちともう一方の負けを加えると零になるという意味で「零和」という。人工の二人ゲームはほとんど零和ゲームだ。
 「有限」ゲームとは、いつかは必ず終わるゲームのことをいう。「人生はゲームだ」という言葉がある。人生がゲームだとすれば、明らかな有限ゲームだ。オセロも必ず六十手(8×8─4)で終わる有限ゲームで、将棋も現行のルールでは有限ゲームになっている。
 「確定」ゲームとは、偶然的な要素が入らないゲームのことをいう。すごろくやバックギャモンのようにサイコロを振って次の一手が決まるようなゲームは偶然的な要素が入り、運不運によって勝敗が左右される。しかし、将棋には偶然的な要素はいっさいない。運が勝敗に影響することはないのだ。
 プレーヤーにすべての情報が与えられているゲームを「完全情報」ゲームという。トランプのババ抜きや七並べなどは、手の内のカードは相手に見えないように隠している。将棋はすべての情報が与えられたうえで戦うので、「完全情報」ゲームに相当する。ゲームで先を読むのに必要な情報が、すべてプレーヤーにわかっているという意味だ。
 つまり、「二人零和有限確定完全情報ゲーム」の将棋は、自分と相手が一度もミスさえしなければ、どちらかは必ず負けない、ということになるのだ。
「プロの対局結果の統計を取ると、最近では先手の勝率が53%、後手の勝率が47%程度で、先手がやや勝ち越しています。このことからも、将棋は先手必勝なんでしょうか?」
 大橋が訊ねると、渡瀬は眉間に皺を寄せて吐き捨てるように言った。
「人間ごときが戦った程度で、なにがわかるもんですか」
 渡瀬は煙草の吸殻を、目の前の空き缶の中に入れた。
「たしかに将棋には理論的に必勝法が存在しますが、必勝法が具体的にどのような手順なのかはわかっていません。将棋においてすべての可能性をつくすには、10の220乗もの手を読む必要があるのです。この数字は宇宙全体の原子の数より多いんです。コンピュータで手を読んだとしても、10の100乗以上の年数がかかるといった試算もあります」
「現実的には、必勝法はないと言えるわけですね?」
 初めて渡瀬は大橋の言ったことに頷いた。
「だからいまのところは、将棋について先人が年月をかけて解明してきた定跡や手筋などをもとに、必勝法に近いものを考えるしかないのです」
 渡瀬は自分の言った言葉に納得したように何度も頷くと、大橋に目を向けた。
「ところで、とある将棋の局面があったとしましょう。先手と後手、どちらが有利か、あなたはどうやって判断しますか?」
 渡瀬の挑戦的な目つきは、大橋を試しているように感じられた。
 それにしても、ずいぶん愚かな質問をするものだと大橋は思った。どちらが有利か判断するには、具体的に局面を限定しなければわからないではないか。
「状況によって局面の有利不利は変わりますので、盤面を見ないとわからないと思いますけど」
 渡瀬はたちまち失望で面を塗り固めた。
「あなたは将棋指しになろうとしているのに、自分の思考ロジックすら、説明できないのですか?」
「ですから、状況によって変わるのでわからないって言ってるじゃないですか。歩がひとつあるかないかで、形勢は変わってきますし、持ち駒の有無によっても影響されますし。しかも序盤と終盤では考え方も違います」
 渡瀬は驚いたように目をしばたたいた。
「だからそれをもっと論理的かつ定量的に説明できないかと言っているんですよ」
「例えば、駒の損得、とかですか?」
 渡瀬は首を回してぽきりと鳴らした。
「そう、そのことを言っているんですよ。ほかに考える要素としてなにがありますか?」
 まるで教師と生徒のようだ。大橋は妙な居心地の悪さを感じた。
「駒の損得のほかには、駒の効率、玉の固さ、あと、終盤になると手番も重要な要素です」
 駒の損得とは、駒の数でいくら相手より勝っているか、ということだ。飛車、角、金、銀、桂馬、香車、歩の順番で影響力がある。うっかり飛車をただで取られると一気に敗勢になるが、歩を取られただけでは、まだ敗勢までにはならない。
 駒の効率というのは、どれだけ駒が効率的に働いているかである。いくら駒をたくさん持っていても、意味のないところに働いていたのでは話にならない。
 玉の固さとは、玉がどれだけ味方の駒に守られているか、ということだ。将棋は玉を詰ませるゲームなので、いくら駒得しても、玉が詰まされたら負けだ。穴熊のように玉がたくさんの味方の駒で囲まれていれば、それだけ有利になる。
 最後に手番とは、どちらの指す番か、ということだ。序盤だと、二手続けて指してもあまり大勢に影響しないが、終盤では二手続けて指せたとしたら、必ず勝てる。
 さらに四つの要素の重要度は序盤、中盤、終盤によって変わる。
 すなわち序盤では、駒の損得、駒の働き、玉の固さ、手番の順に重要で、中盤では状況によって重要度が変わり、終盤では手番、玉の固さ、駒の働き、駒の損得の順序で重要になる。
 大橋が答えると、渡瀬は満足げに目を細めた。
「やっとまともな答えを返しましたね。合格点です。将棋では大別すると、その四要素が有利不利を決定づけます」
 そんなことはどの棋書を読んでも書いてある。素人に講釈をぶたれているようで、はなはだ不愉快だった。
 渡瀬は大橋の不興顔にはいっさい構わずに、説明を続けた。
「ある局面が有利か不利かを確実に判断できるようになると、極めて有利にゲームを展開できます。次の一手を考えるときに、一番有利と思われる手を指せばいいからです」
 したり顔で当たり前のことを言う男だ。そのようなことは言われなくてもわかっている。一番有利と思われる手が見つからないから苦労しているのではないか。
 渡瀬は大橋を斜めに見上げた。
「静的評価関数という言葉を知ってますよね?」
 知っていて当然といった渡瀬の口調だった。
「いえ、知りません」
 渡瀬が首をかしげ、少し苛立ったように説明した。
「静的評価関数とは、形勢判断のための計算式のことです。静的とは、先読みをせずに局面の形勢を直接評価することを意味します。将棋の静的評価関数は、さっきあなたが言った、駒の損得、駒の効率、玉の固さ、手番の四要素を組み合わせて作ります。話を簡単にするために、四つの要素だけで単純な静的評価関数を作ることを考えてみます。ある局面Sの静的評価数値はどのようにして求められるかわかりますか?」
「さあ」
 渡瀬はぎこちない仕草で立ち上がると、脇にあるホワイトボードに数式を書いた。
 静的評価数値(S)={(a×駒の損得)+(b×駒の効率)+(c×玉の固さ)+(d×手番)}……(abcdは係数)
 静的評価数値(S)の数値が大きければ大きいほど有利になり、小さければ小さいほど不利だと渡瀬は言った。
 苦手な数式まで持ち出されて、大橋はうんざりした。
「考え方はわかりますが、序盤と終盤では評価が変わります。序盤では駒の損得が重要だし、終盤では玉を追い詰めるための手番が一番重要です」
「そんなことは当たり前でしょう。もちろん係数abcdは序盤、中盤、終盤によって値が違います。局面に応じて、abcdは変化するのです」
「でも、将棋にはその他にもいろいろな要素があります」
「だから、話を簡単にすると言ったでしょう。もちろん実際には、静的評価関数だけで適切な局面評価を行うことは困難で、先の手を読んで評価しなければなりませんよ。いまの説明は、あなたにもわかるように、便宜的に説明しただけです」
 言い返したくなる気持ちを抑え、大橋は頷いた。
「静的評価関数についてはだいたいわかりました。でも、その関数と将棋必勝法とはなにか関係あるのですか? いえ、それだけではない。渡瀬さんが先日おっしゃった頼みごとと、いまの説明とのあいだになにか関係があるのですか?」
 渡瀬はあきれたような顔をして、大橋の顔を見たあと、深々と溜め息をついた。
「正しい評価関数の作成こそが、究極の指し手に近づける一番の近道ではないですか。つまり上達するために一番の有効なやり方と言うことだ。毎日将棋しかやってないのに、あなたはその程度のことがわかりませんか?」
「将棋を指すときに、常に計算式に当てはめて形勢判断をするんですか。そんなことをやっていたら時間がいくらあっても足りない。しかも状況に応じて、係数abcdは変化すると、さきほどあなたも言ったじゃないですか」
「だれがあなたに計算しろと言いましたか。そんな単純計算はコンピュータにさせればいいんです」
 大橋はあっけに取られて、渡瀬の顔をまじまじと見つめた。
「すると、あなたが言っていた上達方法とは、コンピュータに頼るということなんですか?」
 渡瀬は口元に皮肉たっぷりの笑みを浮かべた。
「評価関数の話をして、あなたはまだコンピュータの話とわからなかったんですか?」
「先日渡瀬さんが私に勝った対局は、コンピュータを使っていたんですね?」
 渡瀬は実に嬉しそうな顔をした。
「そうです。あなたは僕が開発した『宗歩』という将棋ソフトと戦ったのです」
「いまの将棋ソフトは、奨励会有段クラスが負けるほど強くなったとは聞いていますが、ここまでとは知りませんでした」
 渡瀬は強く首を振った。
「奨励会なんて目じゃありません。名人を含めて、おそらくいま地球上で一番強いのが僕の開発した『宗歩』でしょう」
 やっと大橋にも事情がつかめてきた。渡瀬はコンピュータプログラマなのだ。彼は将棋ソフトを使って、大橋と対局した。大橋は渡瀬に負けたのではなかった。将棋ソフトに負けたのだ。
 渡瀬は「僕自身はルールを覚えて二、三年」と言っていた。そのとき変な言い方をする男だと、思っていたのだが、そういうわけだったのか。
 渡瀬は得意気に顎を突き出して、自分の開発したソフトについて滔々と説明し始めた。
「僕が説明したのはいままでの将棋ソフトの仕組みです。いままでのソフトはそれなりに強かったのですが、たくさんの問題を抱えていました。まず序盤戦が下手でした。定跡形をわざとはずすと、簡単に相手に理想形を許してしまいます。漠然と『形の良さ』を保ちながら、位をとって(将棋の戦術のひとつ)押してくるような展開に、特に弱いのです。序盤戦において、定跡データベースの強化だけでは無限の変化に対処できません。人間が持っている序盤戦の感覚をコンピュータに持たせることのほうが重要なのです。まあこれは、より多くのヒューリスティックス(理論上の裏付けがなくとも人間の経験上言われている知識、例えば『手がない時は端歩をつけ』など)を組み込むことによって、ある程度の改善がなされました」
 渡瀬は自分自身に言い聞かせるように何度も頷いた。
「あと、手得手損に非常に鈍感です。相矢倉戦あたりだと、この手得を生かして先攻される恐れがあるのです。無理気味の仕掛けは絶対にしないので、駒組み段階での威圧感がないのも問題のひとつです。そのため序盤で急戦の心配をすることもなく駒組みができ、穴熊なども簡単に組めます」
 渡瀬は得意そうに話を続けた。
「従来のシステムでは、戦型に応じて戦っていないという問題点もあります。矢倉戦と横歩取りでは感覚が違います。感覚の違いを従来のソフトには組み込んでいなかったため、いつも一本調子で指し手を進めるのもソフトの悪い癖でした。矢倉戦には矢倉戦の感覚、横歩取りには横歩取りの独特の感覚があるのです。状況に応じて評価関数も変化しなければならない」
 渡瀬の言う通り、横歩取りと矢倉では感覚が違っている。棋士の中でも、矢倉戦を得意とする棋士、横歩取りを得意とする棋士がいる。
「序盤から中盤への入口と、中盤から終盤の入口で疑問手を連発するのも、コンピュータ独特の問題点です。かつまた従来のシステムがずっと抱えていた問題点です。コンピュータ将棋ではこれを『進行度』という基準で考えています。ただ、どこから中盤、どこから終盤という明確な線引きが難しいので、どうしても評価関数の値が、現実と違った評価になるのです」
 渡瀬は大橋の顔を見ると、大きく息を吸い込んだ。
「さらに大きな問題点は学習能力が弱いということです。これはすべての問題点に関係しています。システムが学習しない限り、人間に何度も同じ手を食らってしまうのです。強いシステムを作るためには、よい評価関数を作らなければなりません。そこで、プログラムが対局結果を反省し、悪かった手を指さないように、よかった手をもっと楽に指せるように評価関数を少し変更するようにするのです。そうして対局を重ねていけば、人間が勉強によって大局観を身につけるように、プログラムも徐々に優れた評価関数を作成していくのです」
 大橋は声をうわずらせた。
「そのようなことが可能なのですか?」
「まあ、普通のプログラマにはとうてい無理でしょう」
 渡瀬は自分の言葉に酔ったかのように滔々と語り続けた。
「最近のコンピュータ将棋では、この点に関してある程度の改善が見られています。ひとつは『機械学習(マシン・ラーニング)』です。たとえば昔のコンピュータ将棋は『こうなったら、歩を伸ばす』などと人間の手によって何千行というルールを書き、それによって判断を下していました。しかしそれだと労力もかかるし、複雑になるばかりです。いまではそうではなく、勝手にソフトウェアが『こういう局面では、こう指すもの』と自動学習(マシン・ラーニング)をして、ものごとを覚えて、判断していくんです。考え方としては、スパムフィルタに近いですね。パッと見て、スパムかそうでないか(=どの手を指すべきか)を分けていくわけです。さらに評価関数を自動化する手法を採用している画期的なコンピュータ将棋もあります。しかしこれらの改善も、僕に言わせればまだまだ未熟なアルゴリズムですね」
「渡瀬さんはより優れたシステムの開発に成功したんですね?」
 渡瀬は小鼻をうごめかせた。
「まあ、そういうことになります」
 渡瀬は目を輝かせながら、しかし嬉しい気持ちを隠すように、気のない様子で頭をぼりぼりとかいた。
「僕は従来のシステムの問題点を分析し、おおむね解決しました。中でも一番苦労したのが、学習能力です。僕のシステムは、評価関数をその都度修正する自己修正モデルになっています。そのシステムにありとあらゆるプロの棋譜をデータとして入力したのです」
「それで奨励会三段の私にも勝てるシステムができたと言うわけですか?」
「おっしゃる通りです。ただ、僕のシステムはあなただけではなく、たぶん地球上のだれよりも強いでしょう」
 渡瀬は胸をそらせてそう言った。
「それで私に頼みごととは、いったいどのようなことなんでしょうか?」
 ここまで説明してまだわからないのか。渡瀬はそう言いたげな顔で、大橋の顔を穴の開くほど見た。
「決まってるじゃないですか。あなたに『宗歩』を使って、対局して欲しいのです。僕のシステムを使うと、名人は確実ですよ」
「私に不正行為をやれとおっしゃるのですか?」
「なにが不正行為なんですか?」
「対局にソフトを使ったら、反則に決まってるじゃないですか」
「ああ、そんなことですか。しょせん将棋なんてゲームでしょう。ゲームごときで、反則だのなんだのと目くじらを立てる必要はない。究極の手に近づける作業のほうがよほど重要でしょう」
「究極の手?」
「そうです。将棋には必ず必勝法があるのです。できるだけ必勝法に近い究極の手を探し出すことに、あなたは魅力を感じませんか?」
「魅力もなにも、完全な不正行為じゃないですか」
 渡瀬が大橋を見上げ、見透かしたような笑みを浮かべた。
「失礼ですが、あなたの現在の境遇は奨励会三段で、来年は奨励会さえ退会しなければならないかもしれない。たとえソフトを使ってでも、勝ち上がることが、いまのあなたにとって一番重要ではないんですか?」
 大橋は言葉に詰まった。渡瀬は大橋の状況を前もって調査しているようだ。
「でも、私が渡瀬さんのソフトを使うことで、渡瀬さんにはなにかメリットはあるんですか?」
 渡瀬はにたりと笑った。
「僕は人工知能の研究をするプログラマで、僕の開発したシステムは海外でも高く評価されています。国内でも業務ソフトなどの販売をしていて、お金にはまったく困っていません。将棋ソフトを作ったのは、初めは単なる好奇心からでした。しかし、将棋というテーマはなかなか面白い。僕は知力の限りを尽くして、このゲームを解明したいのです。それにもうひとつコンピュータ将棋には弱点がありますしね」
「弱点と言いますと?」
「まあ、あなたは知らなくてもいいことですよ。さしあたって現状では、人間の持っているすべての能力を100%『宗歩』に組み込めているわけではないとだけ言っておきましょうか。そのためにも、実際にプロのあいだで、僕のシステムを戦わせるのは重要なことなんです」
 渡瀬は付け加えた。
「『宗歩』はまだ開発段階です。しかも私が以前勤めていた会社での研究成果をアルゴリズムに組み込んでいるので、いま『宗歩』が世間に知れると、非常にまずいことになります」
「それは会社の機密事項を持ち出したということですか?」
 大橋が訊ねると、渡瀬は不敵に笑みを浮かべた。
「まあ、そういうことです。ですから、あなたと私が接触していることは、できるだけ人に知られたくないんです。証拠にも残さないようにしてあります。ですからあなたが『宗歩』を使って連勝したところで、僕はだれにも口外しません。無論社員の彼女にも喋りません。彼女へはあなたのことをソフト開発の協力者としか話していません。あなたも彼女には余計なことを喋らないほうがいい。そのほうが好都合でしょう」
「でも……」
「あなたのご両親も、あなたが将棋指しになることを強く望んでいらっしゃるんじゃないですか?」
 言葉に詰まった。信夫は大橋が専門棋士になれば、手放しで喜ぶだろう。それが一番の親孝行であることはわかっていた。
 しかし、不正な手段を使ったことが発覚したら、大橋は将棋界から永久に追放されるに違いない。だいいち棋士としてのプライドが許さなかった。安易な方法で勝ったところで、しょせんは偽りの実力ではないか。
 渡瀬は大橋の心の中が手に取るようにわかっているようだった。いやらしい笑みを浮かべると、挑発するような目を向けた。
「とりあえず、『宗歩』をお貸ししましょう。しばらく使ってみてから、結論を出してもらっても結構ですよ」
 渡瀬はデスクに向かうと引き出しの中から、小型の携帯電話のような機械を取り出した。液晶のディスプレイの下に、たくさんのボタンがついている。PDA(個人用の携帯情報端末)のようにも見えた。
 光沢のない黒色をした長方形の装置だ。大きさは掌より小さく、片手で持てる。幅は10cm×5cm、厚さは1cmくらいだろうか。上半分は画面で、下にはボタンがある。ボタンは二十個あり、横に十個ずつ縦二列に並んでいる。ボタンの色はグレーだったが、右端の二つのボタンだけ黒く、ボタンの中央部に小さな突起がある。
 渡瀬はその装置を右手に掲げた。
「これが『宗歩』です。万が一見つかっても、なるべく目立たないような色を選んだんです。暗い色の服を着ていれば、服の色が保護色の役目になりますよ」
 渡瀬は「宗歩」を大橋に見せながら、下に配置されているボタンを指差した。
「このボタンを押すと、指し手を進められます」
 渡瀬が上のボタンを立て続けに押すと、液晶の盤面が変わり、初形から先手が▲7六歩と指した形になった。
 次に渡瀬は右下段の黒いボタンを押した。装置は携帯電話のマナーモードのように小刻みに振動した。最初に三回振動して少し間を空けて、次に四回、最後に一回振動した。
 大橋が盤面を覗き込むと、後手が△3四歩と指したときの形になった。
「これはどういう意味なんですか?」
「こうやって次の手を教えてくれるのです。例えばこのあと先手が▲2六歩と指したとします」
 そう言いながら渡瀬はボタンを三回押し、右上段の黒いボタンを押した。
 しばらくして装置は八回、四回、一回振動した。
「八回、四回振動したのは、8筋目と四段目を示唆しています。一回振動したのは歩を意味します。二回は香車、三回は桂馬、四回は銀、五回は金、六回は角、七回は飛車、八回は玉の意味です。つまり、いま八回、四回、一回振動したのは、指し手を△8四歩だとコンピュータが言っているわけなんです。もちろん画面にも指し手は表示されています。再度黒いボタンを押せば、同じ振動を再現します。振動で指し手を知らせるのは、盤面を見ずに次の指し手を知ることができるからです。慣れれば、使いこなすのは簡単でしょう」
「私は……」
 こんなもの使いません、と撥ねつけたかったが、一瞬両親の顔が頭をよぎり、大橋は躊躇した。
 この装置の強さは本物だ。それにこの装置程度の大きさであれば、携帯電話やPDAにしか見えない。だれも大橋が不正をしているとは気づかないのではないだろうか。
 渡瀬は感情の動きなど微塵もない観察者の目で、大橋をじっと見ていたが、やがて小さく呟いた。
「それはしばらくお貸しします。しばらく『宗歩』を使ってみれば、僕の提案がいかにありがたいものか、あなたにもわかると思いますし」
 渡瀬は装置を見つめながら言った。
「僕はいまの『宗歩』が満足できるシステムだとは思っていません。それはいわば試作品です。これからもバージョンアップは続けるつもりです。僕は自分の開発したシステムが名人になるところを見てみたいのです。そのあとは将棋必勝法の解明です。あなたにとっても悪い話じゃないでしょう」
 大橋がなにも言えないのを見て、渡瀬は大橋の肩を叩いた。
「僕と一緒に究極の手を目指しましょう。将棋の必勝法を解明するという崇高な目的のほうが、あなたのプライドを満たすより、よほど有益であると考えることです」
 渡瀬の言葉は、大橋にとって魅力的でもあり、屈辱的でもあった。大橋が頭を絞って考えた指し手よりも、渡瀬が暇つぶしで作ったプログラムのほうが価値のある手を指せるのは、紛れもない事実なのだ。
 最後に渡瀬は意味ありげに笑った。
「『宗歩』を使ってみれば、あなたのちっぽけなプライドなど吹き飛びますよ。どうするのが、あなたのためによいのか、じっくり考えてみてください」
 大橋がヘヴンフィールドのオフィスを出るときに、美人の社員が愛想良く送ってくれたが、大橋はうわの空でこわばった笑みを返すのが精一杯だった。
 結局渡瀬と会っても、大橋の不安感は解消されずに、いっそう膨れ上がっただけだった。
 とてつもないことに関わってしまったのかもしれない。ビルを出た大橋は、正体不明の恐怖を感じ、身を震わせた。

 (続く)
コメント
この小説は、第8回日本ミステリー文学大賞新人賞に応募した小説を加筆したものです。
最終選考までは残ったのですが、落選してしまいました。

http://www.dontstopread.jp/mystery/08/
  • by 赤星香一郎
  • 2014/04/25 7:27 AM
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