その夜、私は日記をつけた。
 今日はさんざんだった。男に付きまとわれたためか、ぼんやりして駅の構内で財布を落とし、結局会社を休む羽目になった。あの胡散臭い男につきまとわれたのが発端だ。
 最初は新手の勧誘の類かとも思ったが、どうも違うようだ。勧誘やセールスなら、駅を出て私をどこかへ連れ出そうとするだろう。
 私生活で面白くないことがあったので、私をからかって憂さを晴らそうとしたのだろうか。
 それは違うだろう。いやがらせならもっと秘密裡にやるはずだし、なにより私が怒り出した段階で逃げるだろう。単なるいやがらせにしては、言うことが突拍子もない。憂さ晴らしでやるいやがらせはもっと陰湿で単純なものだ。
 いずれにせよ、人の死期がわかるとは、冗談にしても悪質極まりない。どんな人間でも自分の死期を知っているなどと言われたら、気味が悪くなるに決まっている。占い師でさえ、他人の死期については言及しない不文律があると聞く。癌の告知もそうだ。余命一年だとか、余命半年だとか、医者は診断するが、知らされたほうの立場になったと考えると、ぞっとする。
 あの男はそうした人間の最も弱い部分を衝いてきた。「死期を知っている」などと言われたら、嘘とわかっていても気になってしまう。ましてや死期など告げられたら、絶望的な気分になるに決まっている。たとえ信じなかったとしても、宣告された死期は、心の奥底に糊のようにへばりつき、ことあるごとに忌まわしい記憶として鎌首をもたげてくるだろう。
 そもそも、あの画像はいったいどこで撮影したのだろうか。記憶にはないが、飲み屋かどこかであの男に出会ったのだろうか。私は少し深酒をするきらいがある。飲んだときの出来事を覚えていないことも、しばしばある。
 私はカメラが趣味だ。その場の勢いで男と意気投合し、携帯電話で撮影する可能性もないではない。だが、その割りに、私の表情はかなり暗い。飲んだ勢いで撮影した写真のようにも思えない。
 それとも、あの男があたかも二人で撮影したような画像を合成したのだろうか。男の顔はかなりぼやけている。画像を合成すればあのような画像になることもある。
 いったい私は男といつ会ったのだろうか? 腑に落ちない気持ちのまま、その日の日記はそう結ばれた。
 翌朝、私がホームで電車を待っていると、横から声がした。
「ご機嫌はいかがですか?」
 隣を見ると、昨日の小太りの男が私に脇に立っていた。男は昨日と同じようにくたびれた紺色の背広を着て、馴れ馴れしげに私を見上げていた。
 幸い今日は人が少ない。二三発ぶん殴って脅し、なぜ私の携帯電話の画像に男と一緒の写真があるのか聞きだしてやる。私は男の胸倉を掴み、体中の力をみなぎらせた。
「この野郎、まだおれにつきまといやがるのか」
 殴りかかろうとしたとき、男が苦しそうに声を出した。
「西島さん、落ち着いてください」
 思わず男を掴んでいた手を放した。
「おまえ、なんでおれの名前を知ってるんだ?」
 男は曲がったネクタイを丁寧に直すと、何事もなかったかのように笑みを浮かべ、「まあ、お怒りにならずに、冷静に話しましょう」と言った。
 この男が笑うと目じりにたくさんの皺ができ、顔を縦から押し潰したような間抜け面になる。剃り残しの長い髭が顎から数本横に伸びている。唇がやけに分厚くて、どことなく鯰を連想させるような顔だった。
「どこでおれの名前を聞いた?」
 男は私に身をすり寄せ、追従笑いを浮かべた。
「一緒に写真に写った仲じゃないですか。私はあなたに関してなら、なんでも知っていますよ。あなたがまだ独身であることや、A不動産にお勤めであること、空手と写真が趣味であること、日記をつけるのが日課であることもね」
 薄気味が悪くなった。ひょっとしてこの男はストーカーの類なのだろうか。
 私の表情に気づいたようで、男は大袈裟に手を振った。
「いやいや。私はストーカーなんかじゃありませんよ。ご心配なさらず」
「だったらなんでおれのことをそんなに詳しく知ってるんだ?」
「そいつはあとでじっくりと話しましょう。それより私が話したいのは、あなたの死期についてです」
「なんであんたは、おれの死期について話したがってんだ?」
「頼まれたんですよ」
「だれに頼まれたんだ?」
「言えません。守秘義務ですから」
「守秘義務? あんたは仕事でやってんのか?」
「ま、それはおいおいと……」
「ははあん、わかったぞ。あんたは仕返し屋だな。だれかに頼まれておれにいやがらせをしてんだな」
 男が不思議そうに私の顔を覗き込んだ。
「あなたはそんな人を雇われるほど、だれかに恨まれているのですか?」
 たしかに私は一本気で頑固な性格をしているので、万人に好かれるタイプではない。だが人に頼んでまで嫌がらせをする人間はいないだろう。前につき合った女? 私の女性遍歴など片手で余るほどだし、そもそも私が捨てたのではなく、私のほうが振られている。
 男は私の心中を見透かしたように、歯を剥き出して笑った。
「でしょう。でしょう。あなたに特別な事情など、あるわけがない」
 自分が取るに足らない人物だと言われているようで、不愉快だった。
「恨まれてないにしても、おれにつきまとうよう、だれかに頼まれたのは間違いないんだろ」
「つきまとっているわけではありません。私はあなたに死期をお知らせしようとしているだけなんですから」
「なんでおれに死期を告げなくてはならないんだ?」
「あなたがホームにいると、他の乗客の方々が困るからです」
 私は握り締めた拳を突き出した。
「やっぱりおれを馬鹿にしてんのか」
 男は私をなだめるように、「どうか冷静に。冷静に」と言いながら、何度も両手を上げて下ろした。弱ったように見せかけてはいるが、男はどこか楽しんでいるように見えた。
「だいたい、おれがここにいてみんなが困ることと、おれの死期とのあいだには、なんの関係があるっていうんだ。そもそも、おれの死期はいつなんだ?」
 男の瞳が妖しげに瞬いた。
「本当はあなたも知っているはずなんですけどね。ほら、思い出してみてください。一週間前、ここで事故があったでしょう?」
「それがどうした?」
 男はいやらしい笑みを浮かべると、人差し指で私の胸を突いた。
「もう西島さんったら、とぼけちゃって……」
「なにがだ?」
「自分が突き落としたくせに」
 私は息を呑んだ。
「ど、どうしてそれを?」
 男は私の脇に寄ってきて、肘で私の腕を軽くつついた。
「言ったじゃないですか。私はなんでも知っているんですよ」
「おれは突き落としてなんかない」
 男は唇の端を上げて笑った。
「でも、一週間前の人身事故はご存知ですよね?」
 たしかに一週間前、駅で起こった人身事故に私は巻き込まれていた。
(続く)